崩壊する日常
1
星野と絵を見せ合う約束をしてから一日が経った。
起きる頃にはすでに美幸の姿はなかったが、これは普段と変わらない光景だ。しかし俺が襖を開くと普段ではない反応を美幸が見せた。
「お、おはよう」
エプロンを身に着けていた美幸が明らかにぎこちない挨拶をする。
「ああ、おはよう。どうした、何かあったのか?」
「い、いやぁ?そんなことないと思うけど」
上擦った声で言われても説得力はないが、俺はそのとこを深く追及しなかった。何かあるのは間違いないだろうが、ここまで分かりやすい反応を見せるなら別に嫌なことではないのだろう。美幸は嫌ならそのことを表に出すことはなく、我慢しようする。むしろ今回みたいな反応なら俺は安心すら覚えた。
いつもなら柔和な笑顔を向けてくれる美幸だが気まずそうに目を逸らしながら台所へと戻っていく。。一度手を滑らせたのか料理に使うお玉を落としていたが、他に支障はなく朝は過ぎていった。
学校に着いても美幸の態度は変わらなくて少し不安を感じたが、放課後に合流した時にはすっかり普段通りの姿に戻っていた。
帰宅途中に食材が減ってきたと美幸に言われたのでおっちゃんがいる商店街に寄って行くこととなる。
「あら、櫻井兄妹じゃない。下校も一緒だなんて相変わらず仲がいいわね」
そこに居たのはおっちゃんではなく奥さんの鈴さんだった。話してみると根は優しい人だと気づくが、初めておっちゃんに紹介された時はその身に纏う覇気に思わず気圧されてしまったのも、今となってはいい思い出だ。
「こんにちは、鈴さん。鈴さんが店番をしてるってことはおっちゃん、また酔い潰れたんですか」
「そうよ。まったく、お酒はほどほどにしときなさいって言ってるのに、あの人ったら反省しないんだから……」
「あはは……。いろいろと大変ですね」
「仕方ないわよ。龍次郎も長い間生きてきたんだから。お酒でまた明日生きてくれるなら、これぐらいなんともないわ。愛する人には生きててほしい、そうでしょ美幸?」
「……そうですね」
鈴さんが美幸に同意を求めるように視線を向け、美幸も鈴さんに儚い笑顔を向けていた。
「おっちゃんって昔から酒が好きなんですか?」
「違うわよ。というより昔はお酒飲めなかったのよ、あの人。今では想像出来ないでしょ?」
鈴さんが冗談交じりに話してくれるが、俺はそれよりも驚きの感情が強かった。
「何か飲むきっかけがあったんですか?」
「まぁそんなところね。別に今でもお酒が好きってわけではないのよ。ただお酒の力を借りて現実逃避がしていたいだけだから」
そう言葉にする鈴さんにも見慣れない哀愁を感じさせた。鈴さんの視線は店の中にいると思われるおっちゃんに向けられていた。
俺達の視線に気づいた鈴さんは居心地悪そうにしながらも、悲観さを見せないように笑顔の仮面を張り付けた。
「悪いわね、つまらない話をしちゃって。二人共こんな話を聞きに来たわけじゃないでしょ。足りないものがあるなら言ってちょうだい。話を聞いてくれたお礼にサービスしてあげるわよ」
鈴さんがエプロンを締め直し万全の姿勢を見せる。美幸が鈴さんにおすすめを聞きながら購入するものを決めていく。
美幸が全ての要望を鈴さんに伝えると、今日はこれで閉店だから食べやすいようにここで捌いてくれることになった。さっきのサービスとはこのことらしい。
おっちゃんの時もたまにしてくれることはあったが、鈴さんとは随分と違った印象を受けた。おっちゃんは豪快で勢いのあるやり方を好む。細かな作業には繊細な動きも見せるが、より鮮烈な動きの方が記憶に残る。
だが鈴さんはおっちゃんとは対照的でゆったりとした動きがほとんどだった。必要最低限の動きで最善のやり方を見せる鈴さんは、しなやかな手付きで処理をしていく。視覚的な迫力はおっちゃんには敵わないが、鈴さんにはおっちゃんにない優雅さと美しさを感じさせた。
全ての工程を終えた鈴さんが捌き終えた見事な三枚おろしを俺に渡してくれる。
「あとは美幸がやりたいように調理すればいいから。ワタシのおすすめは刺身かしらね」
「ありがとうございます。じゃあ今日はそうしよっか、悠人」
「折角の好意だしな。俺も今から食べるのが楽しみだ」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない。なら早く帰ってゆっくりすることね。二人共、気をつけて帰りなさいよ」
鈴さんが笑顔をくれながら手を振ってくれた。俺と美幸は鈴さんに見送られながら商店街を後にした。
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