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店内に流れるピアノの音色。途切れることのない旋律はこの場所のマスター自ら演奏したものを録音したものらしい。
壁には名前も聞いたことのない酒が一面を埋め尽くおり、学生が訪れるには似つかわしくないシックな内装だった。
「すごいね!こういう場所には初めて来たけど、まさに大人って感じかな」
美幸が今まで入ったことがない空気感の場所に足を踏み入れ、感動の声を零す。興味が湧くのか店内をきょろきょろと見渡す姿には落ち着きがなかった。
「……なぁ仁。ここって俺たちが来ていいような場所なのか?」
あまりにも俺たちが来るには場違いな雰囲気の店内に、俺はこの場を紹介した人物に問いかけた。
「いいのいいの。どうせここに来る奴なんていないからな。なぁおっさん」
だが当の本人はそんなことを気にした素振りを見せなかった。仁は俺たちと同席せず、呑気にマスターと呼ばれたサングラスをした男性と雑談に興じていた。
どうやら二人は面識があるらしく、仁の言葉にもマスターは咎めることなく頷いていた。とはいえマスターの前でする話題ではないだろうし、俺はそれ以上この話には関わらないことにした。
仁の言葉を信じるならこの場所には俺たち以外来ることはないし、マスターからの許可も得た。
俺は美幸の足を軽くつつき、合図を送る。美幸は視線を店内から外し、正面の人物に向けた。
そこにはもう一人同行してきていた星野結衣が反対の席に座っていた。居心地悪そうにそわそわしながら、マスターが用意してくれた水の入った容器を両手で包み込んでいた。
今日は仁が勝手に約束した星野と対面する日になった。休日に用事を入れたくなかった俺は、放課後に星野と会うことにすることを仁に伝えると急遽予定を組み始め、空いてる店を知ってるからと流れるように今に至る。
当初は夕飯の支度がある美幸には先に帰ってもらおうと思っていたが、気になるからという理由で一緒に来ることとなった。いつまで滞在することになるか分からないから帰ってほしい気持ちもあったが、初めての場所に来て楽しんでいる様子を見るとこれはこれでよかったのかなと思えた。
ただ俺たちが話し始めないと埒が明かないため、店内に入って数十分後ようやく話し合いに発展した。
「で、わざわざこんな場を設けて何が聞きたいんだ」
機を見てようやく落ち着き始めた星野に問いかける。
「それよりずっと聞きたかったんですけど、いいですか」
「なんだ」
「櫻井くんの隣にいる女の子って、もしかしてこの前言ってた妹さんですか?」
「そうだけど、別に今は関係ないだろ。聞きたいのはそんなことじゃないはずだ」
ここは雑談するために用意したわけじゃない。そのことを強調するように再び星野を問いただす。
表情をこわばらせた星野が居住まいを正し、ようやく本題に触れ始めた。
「絵を描かなくなってしまったのは聞きました。けどやっぱり私には納得できなくて。せめて美術部には席を置いておいてほしかったです」
「俺にそんなこと言われても困るな。別にお前を納得させたいわけでもないし、美術部に入ったところで幽霊部員にしかならない。それとも俺が美術部に入ってることでまだ絵に執着してるって思いたかったのか?」
「美術部にいれば絵を描く取っ掛かりにはなるじゃないですか」
「取っ掛かりはあっても俺が描くことはない」
俺は感情的にはならず、星野の質問に対して淡々と答えていった。その度に星野は苦虫を潰したような顔をしていたが、それでも俺の言葉に納得する姿勢を見せなかった。不動の俺に僅かでも動かせるような言葉を星野は必死になって探っていた。
「……どうしてやめてしまったんですか」
何度聞いても態度を変えない俺に、とうとう星野は道に迷い泣きじゃくる子供のような弱々しい声を上げた。何が星野の心を動かしているのか理解できないが、俺はきっぱりと言い切る。
「描く理由がないからだ」
「理由なんていくらでもあるじゃないですか!」
机を叩き、声を張り上げる星野。隣で水を飲んでいた美幸が驚いて喉を詰まらせた。俺はむせる美幸が落ち着くまで背中を摩りながら待った。
「ふぅ、ありがとう、悠人。おかげで楽になったよ」
「そうか。それはよかった」
俺が無視して美幸の心配する姿が気に食わなかったのか、星野はさらに険しい視線を向けた。俺は昂る星野を横目で確認すると美幸に星野の矛先が向かないよう先に釘を刺した。
「いきなり騒ぐなよ。ビックリするだろ」
「……すみません」
自分でも反省しているのか星野は素直に俺の言葉を受け入れてくれた。気を落ち着けるように手元の水を流し込んだ星野はいま一度冷静さを取り戻す。理知的な人物かと思っていたのに絵に関することになるとそうじゃないのか。俺が初めに抱いた星野の印象に間違いはなさそうだ。
俺も喉を潤し、仕切り直しとした。
「櫻井くん、本当にまた絵を描くことはないんですか?」
「何度も言ってるだろ。もう俺が描く理由はないって。それとも俺が絵を描かないとお前には描けないのか?」
「そんなわけないじゃないですか。私は絵を描きたいから描いてるんです。自分が好きなことをやるのに好き以外理由なんていりません」
「なんだ、自分で結論出てるじゃないか。なら俺のことなんて気にせずに描けばいいだろ。俺に関わる必要ないんだから」
これで話は終わった。そもそも星野自身が結論を導き出してるんだから話し合う必要はなかったことだろう。後は彼女がどう受け止めて、向き合っていくだけでしかない。
そう思っていたのに星野の掠れたような声が耳に入った。
「……あんたには才能があるからそうやって簡単に切り捨てられのよ」
恨みのような声が星野の口から零れだす。そこ中にはただならぬ思いが込められているように感じた。たかが二年間、それも関りがなかったのにどうしてここまで執着するのか不思議でしょうがない。
「才能があるならなんで存分に使わないの、理解できないわ」
星野の言葉は俺が幼少期の時、飽きる程聞いた言葉だった。周囲は才能や天才、神童。そんな陳腐な言葉を使っては勝手に期待して、勝手に失望していった。誰もが同じような言葉を使い、自分より優れていると感じたら繰り返されてきた表現だ。周囲が多用し反復するその言葉には、本来それ以上の価値があるはずだった。
俺は、天才というのは今までになかった新たな価値を世界に示す人物であると思っている。だからそもそも俺みたいな人間が天才だとか大層な呼ばれ方は分不相応でしかない。それにどれだけ周囲が天才と呼ぼうと相手が人間であることに変わりはない。天才だから、そんな言葉で相手のことを片付け、その中に秘められた感情を知ろうともしない。そんな人間を見るたびに、俺は心底呆れてしまう。
途切れることがない星野の恨み言に俺の冷めた心が反応した。
「何か思い違いしてるようだから言っておくぞ。そもそも俺が絵を描いていたのは家族のためだ。お前みたいに純粋な気持ちで絵と向かい合っていたわけでも、作品を生み出すことに並々ならぬ情熱があったわけじゃない。俺の絵を見てどんな評価するかは好きにすればいいけど、お前の思想を俺に押し付けないでくれ。俺が描くのは家族のためで、知らない誰かに見せるために描いてたんじゃないんだよ」
俺は星野に向けた言葉だったが、隣の美幸が星野より早く反応を見せた。何かを話したりはしないが含みのある視線が俺に向けられていた。
美幸が何を言いたいのか気になり目を向けようとするが、星野が先に口を開いた。
「ならその妹のために描けばいいじゃない」
そんなことを言う星野に俺はどういうか迷ってしまった。
俺は星野の言う通り、実際には美幸の頼みで未だに絵を描いている。だがそれは決して美幸を喜ばせたりするような内容じゃない。作品として描いてないそれは、とても中途半端なものでしかない。
「……わかった。じゃあこうしよう。俺と星野で一つ作品を見せ合う。その出来を見てお前が納得するかは自分で判断してくれ。お前が今の俺を見て、本当に星野の言う才能があるかどうか確かめてみるといい」
星野との関係をさっさと固めるために、今の俺はどれだけちっぽけな存在か知らせることにした。星野は俺のことを高く評価しているが、それもただの錯覚でしかない。そのことを星野自身に気づいてもらうにはこれが手っ取り早い。
「……いいでしょう。テーマは?」
「何でもいいぞ」
何を描こうがこれだけ絵に対して情熱を持っている星野なら俺なんてただの塵芥でしかないことに気づくだろう。
「余裕のつもりですか。後悔しないといいですね」
吐き捨てるように言い放つと星野はそのまま店を出ていった。これさえ終われば面倒ごとに終止符を打つことができる。俺はようやく肩の力を抜き、深く座り込んだ。
「お疲れ様」
ずっと傍で聞いていた美幸が労いの言葉をかけてくれる。無くなっていたコップに持ってきた水を注いでくれた。
「ああ。悪いな、最後までつまらない話を聞かされて退屈だっただろ」
「そんなことないよ。わたしたち家族のこと、大切に思ってくれてるんだって嬉しかったし」
確かに星野との会話でそんなことも言ってたな。改めてそんなこと言われると気恥ずかしくなる。
「そういえば途中で俺を見てきたけど、何言おうとしてたんだ?」
「あーあれね。いや、わたしが頼んで悠人に描いてもらってるのあるでしょ?アレをまだ絵を描いてるって言ってたらダメなのかな。そしたらこうはならなかったのかなって」
「確かにそう言ってればこんな面倒なことにはならなかったかもな。でも俺にはアレが絵っていう認識がなかったからそもそもそういう発想にはならなかったんだ。どっちかと言えば昨日美幸と話した日記の話、あっただろ。俺の中ではそっちの方が感覚的には近いから」
美幸に頼まれた月一のモノは俺の気分で描くものが決まる。途中経過のまま放置されてる部分やそもそも描く対象がバラバラになっているのがほとんどだから、とても作品として認識するには限度を超えていた。
「お、話し合いは終わったのか」
気づけばさっきまで星野が座っていた場所に仁が陣取っていた。マスターは変わらずカウンターでグラスを磨いていた。
「なんか面白そうなことになってんな」
仁にとっては望む展開なのか笑みを湛えながら話してくる。
「いや、この話の結末はつまらないものだぞ」
「そうなのか?」
「星野が今の俺を知って終わりだ。それ以上先はない」
これで俺と星野が関わる必要もなくなる。さっさといつもの平穏な暮らしに戻りたかった。
「悠人はこれで終わると思うのか?」
「ああ。星野は昔の俺を引きずってるらしいから、さっさと今の俺を見て過去のことなんて断ち切ればいいんだよ」
「よく言うな。過去を引きずってんのはお前も同じのくせに」
仁の言いたいことも分かるため何も反論する気にはならない。ただ横にいる美幸は仁の言葉を受けて睨みつけていた。
「ま、どうなるかはやってみないと分からんからな。オレは第三者としてお前らの行く末を楽しみにしてるわ」
無関係である仁にはどうなろうが面白ければ何でもいいのだろう。立ち上がった仁は再びマスターの元に戻り、店内に流れるピアノの音色に耳を傾けていた。
星野もいなくなり、ここに居座る理由がなくなった俺と美幸は仁を残して店を後にした。
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