5
ロビーに戻ってくると閑散とした光景が目に飛び込んでくる。患者の叫びや子供の泣き声は鳴り響かず、生命の状態を知らせる電子音、体温を維持するための徹底された管理。生活感を感じさせない穢れなき白の建造物には、人を生かそうとする絶対的な意思を象徴しているかのようだった。
寂しさを思わせるロビーで美幸が帰ってくるのを待っていると、廊下から白衣を着た女性が近づいてくるのを感じ取った。落ち着いた小さな足取りが静かな空間には響き渡る。
その人物は自然な動作で俺の隣に座った。
「久しぶり、悠人くん」
「お久しぶりです、メイさん」
笑顔で接してくれた相手に合わせて俺も丁寧な対応を返すと、目の前の女性は突然スイッチを切るようにつまらなそうな表情を見せた。
「おい、せっかく私が大人の女性っぽい振る舞いをしたんだぞ。なに平然と対応してんだよ。少しは動揺しろよ」
粗雑な言葉遣いを言い放つ姿は人と接する仕事には適していないことは明白だった。
「なら普段から言動には気を付けてみては?」
「はぁ、可愛げがないぞ、悠人」
「俺、今年で高校三年目ですよ?可愛げなんてあるわけないじゃないですか」
「そういう返事が可愛げないんだよ!それになんだ、その堅苦しい喋り方は!いつも通り話すことも出来んのか、小僧が」
ついには俺の話し方に文句をつけ始めた目の前の女性に、俺は不満をぶつけるかのように大きく息を吐いた。
「なんなんだよ、メイさん。あんた、まだ仕事中だろ」
「休憩だよ休憩、そんな細かいこと気にすんなよ」
俺の指摘を無視したメイさんは平然とした顔を向けてきた。
「細かくはないだろ。それに休憩って、あんたいつも休んでんな」
「おいおい、わざわざ悠人が来たから顔を見せてやったっていうのにひでぇなぁ。もっとお姉さんを敬おうって気持ちにはならんのかね」
そう言うとメイさんは白衣のポケットから何かを漁るように手を伸ばそうとした。
「ここ、病院内なんだけど。煙草なら屋上で吸ってくれよ」
「あ、やべ。部屋にライター置いてきた」
「ホントに吸う気なのかよ……」
呆れた目をメイさんに向けてると気まずそうに手を引っ込めた。
「やだなぁ。冗談じゃん、冗談。ちゃんと場所ぐらいは考えてるって」
この人の本当かどうか怪しい発言に冷ややかな目線を送った。メイさんもいたたまれなくなったのか俺の視線から逃げるように顔を背ける。
いい加減な態度を取るメイさんに俺は露骨なため息を見せつけると、気を取り直したメイさんが声を掛けてきた。
「それで?今日はいつもみたいに美幸ちゃんの付き添いかい?」
「一人で行かせるのも心配だからな」
「相も変わらずシスコンだねー。あ、でもキミは母親のことも好きだったからマザコンでもあるのか」
「なんだよ、文句あんのかよ」
「いやいや、別にそんなつもりで言ったわけではないよ。ただの事実だろ」
メイさんの淡々した声に俺は何も返せなかった。その間もユウキさんは手を組んで顎に手を当てて何やら考えている様子だった。
「シスコンでマザコン。今の時代の中でそんな子ってどれくらい存在してるんだろうね」
「知るか」
自分のことを他人に言われる不快感に思わず素っ気ない返事をする。
「そんな不貞腐れるなよ、悠人。いいことじゃないか、家族思いなことは」
「あんたに言われると馬鹿にされてるように感じるんだが」
「歪んだ捉え方をするんじゃないよ。家族思い、つまりファミリーコンプレックス。略してファミコン。ほら、素晴らしい響きじゃないか。私の心も思わず弾んでしまうよ」
メイさんが得意げな表情を浮かべながら笑っているのを見ていると、弄ばれている感覚が拭いきれなかった。受付にいる人も俺たちの声が聞こえているのか顔を綻ばせていた。
「……ほんと、なんであんたみたいな人が病院にいんだよ」
「お、私に興味があるのか。しょうがないなぁ、特別に教えてやろう」
「いや、五月蠅いからいいよ」
「遠慮すんなって。いいから聞きなさいよ」
求めてはいないのに俺の言葉に耳を傾けることはなく、そのまま自分語りを始めた。
「ま、単純に草薙さんに腕を買われたってだけだな。私はね、元々は医者じゃなくて研究者だったんだよ」
自慢げに話すメイさん。俺はむしろそう言われると納得した。
「たしかに医者っていうよりは研究者って言われた方がしっくりくる」
「お、悠人にはそんなに私が知的な人物に見えているのかなぁ?」
「想像に任せるわ。それで、なんで研究してた人が病院にいるんだよ」
「ああ、そういえばそんな話だったね。じゃあ、続きといこう。ある日のことだ。とある男が私の研究室にアポも取らずに訪れてきた。するとそいつが医者と名乗った後にこう言ったんだ。君の頭脳を借りたい、てな」
話の流れだとおそらくその男が草薙先生なんだろうということは見当がついた。
当時のことを思い出したのかメイさんは不敵な笑顔を見せる。
「おかしな話だろ?私は海の研究をしてたんだがね。それが人を助ける役に立つのかって思ったさ。ただね、ろくでなしの私はそこらの問題に興味がなくてね、最初は相手にもしなかったよ」
「じゃあ、どうして今ここにいるんだ」
興味がないなら草薙先生の元にいる意味が分からない。
「それはね、そいつが言った条件が私には好都合だったからさ」
「条件?金銭ではないってことか?」
「そう、もしあいつが対価に金を差し出して来たら、その場にあるライターの火で燃やしてやっただろうね。金なんてあっても、私にとってはその場しのぎにしかならないわけだろ。問題解決にはならないってわけよ。そこでな、そいつが出してきた条件っていうのはね、居場所さ」
「居場所……メイさんってそんなこと気にすんのか」
人情なんてものを生まれた時には捨ててきたような人なのに。
「酷いなぁ、悠人は。私だって人間だぞ、だから明莉さんの子供であるキミ達のことを気にかけてるってのに。私の好意をなんだと思ってるんだ!」
「ならもっと分かりやすくしてくれよ」
「分かりやすいことならあっただろ!悠人、キミは明莉さん死んだ時のこと覚えてないのか?」
睨むような眼差しのメイさんが言わんとしていることを理解すると、俺の威勢が急激に鳴りを潜める。
「……別にあの日は死のうなんてしないだろ」
「死んだ顔はしてたけどね。それに場所もよくないな。屋上で、母親が死んだことを受け入れられないガキが一人でノコノコ歩いてきたんだから」
「悪いかよ。ていうか、なんであの時から俺のこと知ってんだよ。初対面だっただろ」
「キミたちのことは草薙さんから聞いてたからな。仲のいい兄妹がいるってね。よかったじゃないか、悠人。美幸ちゃんにそんな姿を見られなくて。もし見られてたら美幸ちゃんも気が気じゃなかっただろうな。まぁその後すぐに美幸ちゃんが屋上に来たわけだけど」
メイさんが話す口調がどこか優しくなったように感じた。
俺は思いもしなかった光景に思わずメイさんの表情をじっと見つめる。メイさんもそのことに気づいているようだったが、気にした様子もなくロビーに設置してある時計を漠然と眺めていた。再びメイさんが口を開く。
「ま、そのことについては終わったことだ。言いたいのはな、私にだって心はある。ただ、人とは少しその定規が壊れてるかもしれないけどな」
「壊れてたらダメじゃないか?」
「そんなことはないさ。壊れた定規でも壊れたなりに測ることができる。壊れているから他の人には見えない視点があったりするものさ。それより脱線が長くなってきたから話を戻すけど、草薙さんが提示した条件の居場所というのは精神的な話ではなくて物理的な話だよ。研究していくには金がいる、生活するための食事、研究材料、機材。当時の私はかなり限界環境で研究を進めていたんだよ。そんな時にそれらを提供だけじゃなく保障してくれるっていうんだ。私に迷いはなかったよ」
「メイさんってそんなに海のことが好きなわけ?」
素朴な疑問を投げてみる。そんな俺にメイさんはあっけらかんと言い放つ。
「いや、全然。私が興味あるのは知らないことだ。その対象がたまたま海っていうだけ」
「……そんな理由でいいのかよ」
「いいの、いいの。知的好奇心を満たす。それだって十分理由になるさ。それに知らないってことは恐怖だろ?」
そこでメイさんが視線を俺に向ける。
「恐怖?」
「そう。悠人も恐怖するものはあるだろ?幽霊とか深海とか」
「海の研究してるのに深海が怖いのか?」
「違う違う、逆だよ。怖いから知ろうとするんだ。それが一体どういう原理で存在していて、それに何があるのかを知れば、人がそこで何をすればいいのかが分かる、そうは思わないか?」
「はぁ……」
あまり馴染みがない考え方に思考が追いついてこなかった。メイさんもそのことについて深く話すつもりはないらしい。
「まぁこの話はまた今度にしよう。話を戻すとだな、私がここにいるのは草薙さんに腕を買われた。そしてその対価として私に居場所を提供する。そういう取引があったんだよ。理解したか?」
一通り話し終えたメイさんは大きく息を吸い、取り込んだ空気を全て吐き出すように深く吐いた。沁みついた煙草の刺激が微かにメイさんから漂う。
「……初めからあんたが勝手に話したんだが。じゃあ、最後に一つ聞きたいことがあるんだけど」
俺は時間を確認してから、再びメイさんの方に視線を向ける。メイさんは何も言わずただ石像のように黙って俺の言葉を待っていた。
「メイさんがここにいる理由は分かった。なら草薙先生はどうしてそんなことしたんだ?あの人、ただの医者だろ」
俺はここにメイさんを居座らしている草薙先生の行動に疑問を持った。そもそも医者なら研究者を傍に居させる理由がわからない。それに話を聞く限りではメイさんが研究している内容が草薙先生の役に立つとは到底思えなかった。
当事者であるメイさんなら何か知っているのかと聞いてみた。
「さぁ、私には草薙さんが何を求めているかなんて興味がないから、直接本人に聞いたことはないな。ただまぁ、どうやら奥さんが関係しているようだよ」
メイさんは直接聞いたことがないためか自信なさげに教えてくれる。
母さんが生きていた頃から草薙先生が結婚していることは知っている。草薙先生はいつも指輪を傍に置いているし、美幸を交えて三人で一緒に話していると、時折奥さんとの思い出を懐かしむように語ってくれることがあった。その度に陰気な表情を浮かべているあの人も表情を綻ばせていた。
俺達には決して多くを語ったわけではないが、それでも話し方などからは草薙先生が奥さんのことを大切にしていることは伝わってきた。
「でも、なんで奥さんが関係してるんだ?」
「あれ、悠人は知らなかったのか。草薙さんの奥さんなら随分前に死んでるよ」
躊躇いを見せることも言い淀むこともなく、メイさんが平然と言い放つ。あまりに軽い話し方に聞き流してしまいそうになった。
「今、なんて……」
「死んでるって言ったんだ、キミの母親のようにね。でなきゃあんな不健康そうな顔してるわけないだろ。あの人、ほとんど家に帰らずにずっとここで働き詰めてるんだ」
そう言うメイさんは悲哀を含んだ眼差しで診察室の方角を眺めていた。
「あれでも私が来てからはマシになったものさ。初めて会ったときなんて死人みたいな見た目だったからね。ここ数年は私と食事を取ることもあって比較的安定してはいるが、それでも一般的に健康体かと言われれば怪しいだろうね」
「……そうだったのか」
今まで聞いたことがなかったため知らなかったが、既に亡くなっていたのか。
「でも、草薙先生がそうなるのも分かる気がする。俺も母さんが死んだ時、自分の健康のことなんて考えてなかったし、生きることに対する気力も湧いてこなかった」
「ほぉ、なら悠人はその状態からどうやって立ち直れたんだ?参考までに聞かせてくれよ」
「参考になんてなるかよ。今なら立ち直れてる、なんてこと胸を張って言える自信は持ち合わせてないんだから。あの時はまともな思考すら出来なかったんだ」
吐き捨てるように俺は言い放つ。
母さんを失った時、俺は悲しみよりも衝撃の方が強かった。より正確に言うならば、悲しみなんていう言葉で表現することが出来ない何かを俺は感じた。初めての感覚で戸惑い、どう受け止めていいのか分からないまま、ただ母さんとの思い出ばかりが駆け巡っていた。
「でもそんな俺のことを支えてくれてたのが美幸だったんだ」
あの日々のことを思い出し、記憶の中にある美幸の温かさに思わず笑みが零れた。この笑みだって決して貶すような類の笑みではない。こんな兄を慕ってくれるのが嬉しくて、共に歩いてくれることに溢れ出る感情が抑えられないのだ。
母さんが死んだ時、立ち上がることすら出来なくなってしまった俺は、直視することが出来ない現実をただ屍のように過ごしていた。そんな俺の傍を離れず、ただそっと寄り添ってくれていたのが美幸だった。
叱咤することも、発破をかけるようなこともせず、代わりに美幸は傍で日々の他愛無いことを話して聞かせてくれた。
今日はお父さんの帰りが遅かったんだよぉ、悠人。
商店街に行ったらね、龍次郎さんが酔っ払ってて大変だったなぁ。今度会ったら何か言ってあげてよ、悠人。
今度沙希ちゃんが遊びに来たいだって、悠人。いいかな?
俺の傍で楽しそうに語り掛けてくれた美幸だったが、その日のタイムリミットが近づいてくると徐々に覇気がなくなっていった。
『おやすみ、悠人。いい夢が見られるといいね……』
美幸の言葉はどこまでも希望を夢見ているはずなのに、俺が母さんのいない日々を歩きださないと、優しい美幸は俺を置いて前に進んでいけなかった。そのことに気づいた俺は、自分の愚かさに思わず己の顔面を殴ってやりたかったのを覚えている。
純白の病院は未だ人は訪れず、美幸も草薙先生も戻ってくる気配はない。
隣に座るメイさんは表情から感情を読み取れなかったが、立ち去ることはなく俺の話に耳を傾けてくれていた。
「……メイさん」
「なんだ?言いたいことがあるなら話してみるといい」
自然体のメイさんには不思議と気持ちを打ち明けたくなってしまう。きっと屋上での出会い方がそうさせている気がした。
「……俺が一時期引き籠っていただろ。けどあの時、きっと美幸じゃないと俺をもう一度立ち上がらせることは出来なかったと思うんだ。あの状況で俺の心を動かすには、誰でもいいなんてことはなくてさ。俺と一緒に生きてきた美幸じゃないと俺の心には響かなかったんだよ」
俺の言葉を聞いたメイさんは何か言おうと口を開きかけたが、ある場所に一度視線を向けると僅かな笑みを浮かべた。
「じゃあその言葉は私じゃなくて美幸ちゃんに直接伝えた方がいいだろうね。その方がきっと喜んでくれるさ」
メイさんの言葉が合図かのように診察室の扉が開いた。中からは美幸だけではなく、草薙先生も一緒だった。
「ほら悠人、待ち人が来たよ」
メイさんはそれだけ言い残すと立ち上がり廊下を孤独に歩き去っていく。その後ろ姿を美幸は目で追いながらメイさんと入れ替わるように隣に座った。視界の奥では美幸と一緒だった草薙先生がメイさんと立ち話を始めていた。
「ただいまー。あの人と何話してたの?」
戻ってきた美幸はすぐさま情報を集め始めた。草薙先生と話し終えても美幸の心は波立つことはなく、落ち着いているように見えた。
「おかえり。いや、最初はただの世間話だったんだけどな。最後の方はよく分からん話になってたわ」
「へぇ、そんなたくさん話してたんだ」
「からかわれただけだった気もするけどな。それよりどうだった。草薙先生との話は終わったんだろ?」
「うん」
美幸が話そうとしているとメイさんとの話を終えた草薙先生が近づいてきた。どうやら俺達の会話を聞いていたらしい。メイさんの姿はなかったが、おそらく屋上に行って煙草を吸いに行ったのだろう。その光景が容易に想像できた。
「それについては私から話させてもらおうかな。美幸にもまだ伝えてないことがあるからね」
草薙先生から付いてくるように言われ、俺と美幸は窓際にある丸テーブルに向かった。白基調に縁を黒で彩られたテーブルを挟んで俺と美幸、反対には草薙先生が座った。
「結論から言うと、美幸の身体からはほとんど異常は見られなかった。ただ貧血気味ではあったね。体力が減少しているかもっていうのも貧血が原因の可能性もある」
「草薙先生、美幸に貧血以外には何もありませんか?」
「ああ、貧血以外の症状は見られなかったよ。それに貧血も前回みたいに重症ってわけでもないから点滴も必要ないしね。薬だけで十分だよ」
その後も草薙先生が落ち着いた声で淡々と説明してくれた。
話を聞いていくほど身構えていた俺は気が緩んでいった。伝える内容を躊躇う姿がない草薙先生が俺の瞳には頼もしく映った。
じっと草薙先生の話に耳を傾けていると草薙先生が一息ついた。
「ふぅ、これで説明は終わりだよ。他にも美幸と話はしてたんだけど」
「分かってますよ。プライベートな話なんですよね?」
「理解してくれて嬉しいよ。内容も病状の話じゃなくて、美幸の個人的な相談だからね。美幸自身、悠人前では話しづらいだろ?」
草薙先生が美幸に目を向けると、美幸は申し訳なさそうに顔を伏せ、視線が足元を眺めていた。
「気にすんなよ。俺だからって何でも話す必要はないんだから」
俺はあまり気落ちしてほしくないがこの話題が出るたびに、いつも笑顔を絶やさない美幸が目に見えて沈み込んでしまう。話したくはないが隠すようなこともしたくはない、そんな美幸の気持ちを自身で隠しきることが出来ないらしい。
美幸が居心地悪そうにしていると、草薙先生が口を開く。
「少なくとも日常生活に支障をきたすほど異常があるわけじゃない。そこは安心してくれていいよ、悠人。あくまでも内面の話だからね」
草薙先生が話を整理するため簡潔にまとめてくれた。
美幸の個人的な相談内容を聞くことは出来ないが、一先ず俺達の用事を済ますことが出来た。どうやら美幸に問題はなかったため一安心した。
話は終わり草薙先生が立ち上がる。
「ま、検査したとはいえ学校もまだ数日しか行ってないだろう。もしかしたら来週になったら体調に変化が現れるかもしれない。その時はまたここに来るといい。幸いと言っていいのか分からないが、ここ最近は入院患者も少ない。症状が軽い人ならここじゃなくて近くにできた病院に行くだろうから、美幸のことはすぐ診ることが出来るはずだよ」
「やっぱりここに来る人は減ったんですか?」
「そうだね。以前よりは減少して、来るのは以前から通っていた人が大半になってしまったよ」
「草薙先生は大丈夫なんですか?生活とか、その、いろいろと」
聞いていいのか判断がつかず、話していくと共に躊躇ってしまった。
あまり具体的なことは分からないが、患者がいないと収入にも直結するはずだ。
「あはは、大丈夫だよ。生活に必要なお金なら最低限はあるからね。とはいえ、ここに人が来なくなってしまったのは仕方ないことだよ。ここはそこまで大きくないし、それに交通には不向きだからね。近くにできた病院はここよりアクセスしやすいからそっちに流れてしまうのは受け入れないといけない事実だよ」
草薙先生が病院の現状に話していたが、そもそも言うつもり話すつもりはなかったのか気まずそうに頭を搔いていた。
「いや、こんなことを君達に言っても仕方ないね。心配しなくてもここが潰れるなんてことはないから安心するといい」
それだけ伝えると草薙先生は受付に向かい、袋を一つだけ持って再び戻ってきた。
「これが今回の分。美幸、前回のと同じだから分かってると思うけど、毎日じゃなくて本当に辛くなった時だけに服用するんだよ」
「はーい」
「ちなみに前回の分は残っているかい?」
美幸は首を振り、すでに使い尽くしたことを草薙先生に伝える。
「そうか。もう少しあった方が嬉しいかい?私としてはあまり推奨してないんだけど」
「欲しいです」
美幸は草薙先生の言葉に被せるように同意した。草薙先生には迷いがあるようで眉間に皺を寄せ、複雑な表情を浮かべていた。それでも美幸の意思を尊重して、追加の分を用意してくれた。
俺は心配になり、美幸に思わず聞いてみた。
「そんなに体調悪かったのか?」
胸のざわめきが増した俺は弱々しい声を上げる。
「悠人は心配性だなぁ。大丈夫だよ。これは万が一のためであって、必要ってわけじゃないから。それに薬なんて使わないなら使わないことに越したことはないでしょ?」
「……それもそうか」
俺は美幸の言葉と表情で納得するとそれ以上追及はしなかった。
自分でも美幸のことに敏感なっている自覚はある。悪癖だとは理解しているが、これだけはどうしても直せなかった。
「じゃあ先生、今日はありがとうございました」
俺が自身のことを振り返ってると美幸は草薙先生に別れの挨拶を始めていた。両手を前に重ねて頭を下げていた。その姿に俺も慌てて美幸に続いた。
礼を受けた草薙先生は居心地悪そうな表情を浮かべる。
「そんな大袈裟なことしなくていいよ。それより美幸、まだ高校生活は始まったばかりだろう?」
「はい」
「なら思う存分楽しんでくるといい。何かあれば私も力になろう」
「ありがとうございます」
「それから悠人」
真っ直ぐな瞳が俺を捉える。
「三年生ということもあって大変だろうけど、美幸のことも頼んだよ」
「もちろんです」
「うん、いい返事だね。それじゃあ今日はこれで終わりだ。外まで送るよ」
俺の返事に満足すると草薙先生は外に向かって歩き出した。白衣が歩調と連動して目の前で揺れる。
先を歩いていた草薙先生が外に続く扉を開けてくれる。
「帰りも気を付けて」
そう言って送り届けてくれた草薙先生に俺と美幸は手を振って別れた。ふと上を見上げるとメイさんが屋上で煙草を片手に空を眺めていた。煙草を吸い終わったのかメイさんがポケットを漁っている時、ちょうど視界に俺達が入ったのか片手をあげてくれた。ただそれも僅かな間で、すぐさま取り出した煙草に火を点けると空に視線を戻した。
俺はそのメイさんらしい姿に思わず笑ってしまった。美幸は不思議そうな顔を向けていたが、何でもないと笑顔で伝えた。
外はすっかり温かく、時刻は昼に差し掛かっていた。俺達はおっちゃんがいる商店街に寄り、帰宅すると美幸が昼食を存分に振る舞ってくれた。
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