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 長いようで短かった平日が終わり、ようやく迎えることができた休日。人々は抑制された衝動を解き放つかのように街中を駆け巡ることだろう。あるいは自宅の中で悠々自適に過ごすかもしれない。日々の役割を投げ捨て、各々が心のままに限られた時間を満喫していることだろう。

「櫻井美幸さん、診察室へどうぞ」

 物腰柔らかな声に呼ばれる。声色を聞くだけでこの声の持ち主は人当たりがいい性格と思わせるような、そんな魅力があった。悪意などなく、人に善意を差し伸べるその誘惑が他人に向けられる度に、それは偽りの好意ではなく純粋な感情であると果たして言い切れるだろうか。

 診察室を通り過ぎる前、受付で控えていた看護師の女性が笑顔を浮かべた時も、俺にはそう信じ切れなくなってしまっていた。

 俺は朧げな足取りのまま美幸に同行していると、気づけば草薙先生が待つ部屋の前だった。

 気を取り直して美幸が入れるように純白の扉に付いた取っ手を横に引く。

 美幸は感謝を伝えるように笑顔を向けると、止めていた足を診察室へと踏み入れた。

「やぁ、二人共。新しい高校生活は楽しんでいるかな?」

 扉が閉まるのを確認した俺を出迎えてくれたのは、平均的な身体に少し不健康そうな顔色をした中年の男性だった。温厚な表情が目の隈や瘦せこけた頬が原因で出会った当初は不気味に映っていた。

「わたしは楽しいですよ。あ、そうだ、聞いてくださいよ、草薙先生!最近友達に教えてもらったんですけど、近くに桜並木があったんですよ」

「もしかして、あの小さなベンチが置いてあるところかな」

「そうですそうです!草薙先生、知ってるんですか?」

「ああ、知ってるよ。私も昔にだけど妻と一緒に見に行ったことがあるよ。私が見に行った日は風が強くてね、視界が桜の花びらで埋め尽くされたのを覚えてるよ」

 楽しそうに話す美幸に草薙先生も懐かしむように目を細めていた。

「奥さんと見に行ったんですかぁ。素敵ですね。わたし、悠人と見に行ったんですけど、風が気持ちよくて途中で寝ちゃったんですよね」

 美幸は恥ずかしさを笑って誤魔化そうとしていた。

「今は春だからね。気温も比較的過ごしやすいだろうから、眠気に襲われるのも仕方がないことだろう。でも、あそこの景色は綺麗だからね。悠人と見ることが出来て美幸も うれしかっただろう?」

「はい、もちろんです」

「ならよかったじゃないか」

 草薙先生が美幸の発言に理解を示すと今度は俺に視線を向けた。

「悠人の方はどうだい?今年で三年生になったんだろう。やりたいことは見つかったかい?」

「……そんな親みたいなこと言わないでくださいよ」

「あはは、すまない。君たちとは付き合いも長いからね。ちゃんとやれてるか心配なんだよ。それに、私は君たちのお母さんの担当医だったんだ。明るくていつも周囲を笑顔にさせてくれた明莉さんには、私だけではなく他の人たちも感謝してるんだ。君たちを心配するのは、その恩返しだとでも思っててくれればいい。困ったことがあればいつでも私に相談するといい。こう見えて君たちよりも人生経験をしてきたつもりだからね」

 頼もしい言葉をくれた草薙先生だったが、それも束の間で意識を切り替えるように居住まいを整えた。温かみを含んでいた眼差しが消え去り、機械のような感情を感じさせない瞳へと変化したように見えた。

「まぁうちの病院に人が来ないからと言って、いつまでも話しているわけにもいかない。本題に入ろう」

 草薙先生が放つ言葉と共に診察室の空気が引き締まる。

「美幸、初めての高校生活が始まったわけだけど、体調の方に不調はあるかい?」

「いえ、特には」

「息切れが起こったり、立ち眩みがしたりは?」

「今のところはないですね」

「悠人、美幸がそういった素振りを見せたことはあるかい?」

 草薙先生の質問に首を横に振って答える。

「なるほど。悠人からして他に気になったことは?」

「そうですね。強いて言えば初日のことなんですけど、下校途中で返事も出来ないぐらいに弱っていたことがありましたよ」

「ほぉ、そんなことが。美幸、どうして黙ってたのかな?」

 問い詰めるように草薙先生が冷たい視線を美幸に向ける。

「いやぁ、別に大したことじゃないかなぁって思って」

 美幸が問題じゃないと捉えていることに草薙先生は思わず頭を抱える。

「まったく、いつもここに悠人を連れてきて正解だよ。悠人がいなかったら美幸は自分のことを軽視しすぎて、この質疑応答に意味がなくなってしまうだろうね」

 草薙先生は呆れたように息を吐く。美幸はそれでも強情に態度を変えなかった。

 俺が毎度診察室に同行しているのはただの付き添いというだけではなく、草薙先生からの質問に美幸のみならず俺の視点から見た美幸の状態を伝えることになっていた。

 以前、自分の体調を正確に伝えなかったことがあった美幸は台所に立っていた時、突然倒れてしまったことがあった。幸いにも包丁や火を使う作業をしていなかったこともあって外傷は少なかったが、病院で正確な検査をしてみると重度の貧血であることが判明した。そのことを倒れる前から草薙先生は疑っていたようだったが、美幸本人が問題視してなかことに加えて、美幸自身が検査することを強く拒んだこともあって様子見することにしたようだった。しかし、同じ原因で一度ならず二度も倒れたことによって草薙先生も美幸に厳しく説得を試みた。だが美幸はそれでも自身のことには関心を示そうとはしてくれなかった。

 痛い目に合ったにも関わらず自身に無関心な美幸の態度を見た草薙先生は代案として、俺から見た美幸の様子を報告するように提案してくれた。それに対して俺は二つ返事で了承し、現在のような対応に変化することになった。

 その後も数十分間、草薙先生による事細かな質問に美幸が答え、俺が付け加えるという工程を繰り返していくと、ようやく一段落することが出来た。

「聞きたいことはこれぐらいかな」

 草薙先生が大きく息を吐くと椅子に深く腰掛けた。

「ふぅ、おわったぁー」

 美幸も肩の力を抜くように気の抜けた声を上げた。その姿を見た草薙先生はいつもの笑顔を零した。

「少し疲れたかな?」

「いえ、わたしはまだ元気ですよ」

「ならよかった。あとはいつもみたいに私とお話して終わりだよ」

「草薙先生、美幸はどうでした?」

 俺は気になったことを率直に聞いてみる。

「ああ、今のところ大丈夫そうだね」

 草薙先生は爽やかな笑顔を向けてくれると、思わず胸を撫で下ろした。美幸が自己申告するのと医者である草薙先生から言われるのでは説得力の差がある。

「ただ話を聞いてると美幸の体力が下がったように思えるけど、美幸に自覚は?」

「え、そうなんですか?」

「自覚はないのか。まぁそのあたりの話はこの後ですることにしよう」

 草薙先生が目線を俺に送ると俺は意味を理解して立ち上がる。

「じゃあ、俺は先に出てますね。美幸、また後でな」

「うん、またね」

 美幸の返事を受けると草薙先生に軽く会釈をして退出した。

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