3
午後からの授業も何事もなく終えると校門前で待っていた美幸と合流した。どうやら一年生の方が先に終礼を済ませたらしい。
昨日よりも歩みを遅らせたこともあってか美幸は思いの外体力が残っていたようで、家に近づいてからも余裕の姿を見せていた。帰り際では今日も仁が同行しようとしていたが、昨日のように沙希ちゃんに阻まれていた。明日のことも考えると、沙希ちゃんの配慮には感謝の言葉しか出てこなかった。
俺と美幸は夕日に照らされた玄関の扉を開くと、家の中から声を掛けられた。
「おう、二人共おかえり」
「あれ、お父さん!?どうしたの、もう仕事はいいの?」
「今日はいつもより早く出たからな。予定を前倒しにして終わらしてきたんだ。そのおかげでようやく美幸の制服姿を見ることができたな」
「あ、そうだった!」
そういうと美幸はその場でくるくると父さんに見えるよう回ってみせた。長い髪と共に美幸が美しく舞い踊る。
「どう、お父さん」
「ああ、よく似合ってる。美幸が制服着てると学生時代の母さんを思い出すよ。あの時からも明莉は美幸みたいに可愛かったな」
「えへへ、そっか。お父さんがお母さんと比べるってことは問題ないってことだよね」
「なに言ってんだよ。問題なんてあるわけないだろ。美幸はもっと自信を持っていいんだぞ。悠人もそう思うよな?」
父さんが不意に声を掛けてきた。二人で話が進むと思っていたせいで反応が少し遅れてしまったが、淀みなく言葉を返すことが出来た。
「……ああ、よく似合ってる。そう心配することはないぞ、美幸」
「ほらな!俺達二人が言ってるんだ。何も不安になることはないだろ?」
「……うん、そうだね。ありがと、二人共」
俺達の言葉を聞いた美幸は微笑みを浮かべると、ようやく玄関で靴を脱ぎ始めた。ステップを刻むような足取りでそのまま部屋に向かうかと思ったが、一度振り向くと美幸にしては珍しい得意げな表情を見せた。
「じゃあ今日も二人のために何か作るね。どうしても昨日の分も食べないといけないけど、一品ぐらいは丹精込めて作るよ」
「おぉ、楽しみにしてる。俺は久しぶりに食べるから期待してるよ」
「あ、そっか。普段はレンジで温めて食べてるんだもんね。なら張り切っちゃおうかな」
美幸はその勢いまま台所に立とうとしていたので、俺は落ち着かせる意味も込めて声を掛ける。
「美幸、帰って来たんだから先に着替えて来い。汗かいたままだった風邪ひくぞ」
「あ、忘れてた。じゃあ、着替えてくるね」
忙しない美幸を見送ると部屋に静寂が訪れる。話の中心にいた美幸がいなくなり辺りが寂しさを感じさせた。
いつの間にか隣にいた父さんを見てみると、俺と同じように美幸がいなくなった部屋に視線を向けていた。穏やかな表情を浮かべていた父さんは視線をそのままに俺に話し掛けてくる。
「嬉しそうだな、美幸」
「父さんが早く帰ってきて嬉しかったんだろ」
「みたいだな。帰ってくるだけで喜んでくれるなんて、俺はいい娘を持ったもんだな」
「……そうだな。美幸は優しい子に育ったな」
出会った当初はこんなに明るくて優しい子になるなんて想像していなかった。
「ああ、悠人には感謝してるよ。小さい頃は俺なんて美幸と話すことも出来なかったからな」
昔を思い出すように父さんが目を細める。
「当時は悠人以外の人間に心を開いてくれなかったから、明莉とよく悩んでたんだけどな。気づけばよく笑うようになって、家族に愛される心優しい子になるとはな」
「別に変ったことなんてした覚えないぞ」
「いや、変わったことなんてする必要なんてなかったさ。ただ、いつも変わらず美幸の傍に寄り添い続けたこと。それが美幸をいい方向に導いてくれたのさ」
父さんが美幸のいる部屋から視線を切ると、俺に昔と変わらない鋭い目つきを向けてくる。しかし、そこに恐れるものはなくむしろ信頼のようなものが込められていた。
「ありがとな、悠人。これからも美幸のことを美幸として見ててくれよ」
妙な言い回しをする父さんに、俺は思わず怪訝な視線を向けた。父さんはその眼差しを堂々と受け止めると、声を落としながら耳打ちしてきた。
「分かってんだよ。お前が美幸のこと、明莉と重ねて見てることなんてな」
囁かれた言葉はいとも容易く俺の心臓を締め上げた。家にいることは稀で僅かの間しか会えないというのに、目の前に立つ男は鋭い眼差しを宿すその瞳で、俺の心情を見破ってみせた。
美幸に対して罪悪感を覚えていた俺は不意を突かれ、一言も話すことが出来なかった。
「バレないとでも思ってるのか?これでもお前たちの父親だぞ。それぐらい分かるってもんだ。まぁしかし分かったうえで言わせてもらうが、美幸と明莉は別人だ。どれだけ お前が美幸の中に明莉の面影を感じたところで、それはただの面影にすぎない」
「……そんなの言われなくても分かってんだよ」
父さんに指摘され、どうしようもない感情に襲われた俺は思わず唇を強く噛んでいた。舌に生暖かい液体が触れるのを感じると、絡みつくような感触と飲み込んだ後の舌先には後味の悪い鉄臭さが残った。
「ああ、だろうな。でも、分かってても出来ないからお前は苦しんでるんだろ。悠人にとって、それは難しいことかもしれない。ただこれだけはしっかり覚えておけ。美幸と 明莉が似ているからって不安に思う必要はない。美幸の健康状態が明莉と因果関係なんてあるわけないんだからな」
そう言った父さんは昔から変わらない笑顔を浮かべ表情を崩した。
俺はいつからか美幸がいなくなってしまうような不安を漠然と抱えていた。その不安が美幸が成長すると共に広がってしまう俺の心に年々嫌気が差していた。だがこんなことは美幸には伝えることじゃない。そう思った俺はこの感情を自分の身から剥がすことが出来ずにいた。
だが何故か父さんから言われた言葉は、俺の中にあった不明瞭な雲を振り払ってくれた。自分だけでは出来ないことでも、たった父さんの言葉で漠然と信じることが出来る。そんな気がした。
「……ありがとう、父さん」
「何言ってんだよ。感謝するのは俺のほうさ。母さんのこと、大切に思ってくれてよ。明莉もこんないい息子を持てたんだ。最後まで幸せだったよ。だから今度もちゃんと、お前は美幸のことを見ておくんだぞ。美幸がもっとも傍に居てほしいのは俺じゃなくて悠人なんだから。それに母さんと重ねて見るなんてことしてみろ。きっと美幸も悲しむぞ」
「ああ、分かった」
俺の返事を聞くと父さんは満足げな表情を浮かべた。父さんと話し、俺の心が軽くなったように感じた頃、いつものワンピースに着替えた美幸が楽しそうに鼻歌を奏でながら部屋から出てきた。俺と父さんが肩を組んでいる状況に最初は不思議そうな顔を見せたが、何を感じたのか美幸は嬉しそうに微笑んでいた。
日が落ち窓から外の様子を見ることができなくなり、闇に覆われてしまったことを知らせてくれた。そんな暗闇の中、微かに煌めく光の数々が人々の生活を感じさせてくれた。
久々に三人で食卓を囲み、食事を終えると、やり残したことと言えば風呂に入ることぐらいになった。先に美幸が入り、その間に洗い物を済ませる。今日は父さんが手伝ってくれたこともあり、スムーズに片付けることが出来た。空いた時間を途中になっていた絵を夢中になって描いていると気づけば浴室から物音がし始める。しばらくすると、美幸がタオルで髪を拭きながら浴室から出てきた。
「お風呂空いたよー」
「じゃあ、父さん。俺が先でいいか?」
確認のために一度父さんを見る。
「ああ、ゆっくりしてこい。美幸、俺たちはお話の時間だ」
「はーい」
二人がちゃぶ台の前で向かい合い、美幸が学校のことについて話し始めたのを確認すると、俺は手にしていたスケッチブックを手放し、着替えに持ち替えて浴室へと向かった。扉を開きシャワーを浴びながら、俺は父さんが言ってくれたことを思い返していた。
これまで何度も美幸に母さんを重ねていた。そのことには俺自身にも自覚があったし、今更否定しようなんてことはしない。
でもそれとは別に、もしかしたら俺は美幸を美幸として見ることが出来ていなかったのかもしれない。母さんの面影を感じるたびに、心の片隅で俺は美幸に負い目を感じていた。
美幸として見ていない、父さんから言われることで俺はようやくその事実に気づくことが出来た。敵わないなと思う反面父さんが教えてくれたことに深く感謝した。
綯い交ぜになっていた感情も風呂に浸かり落ち着き始めたため、俺は浴室から出ることにした。二人で話し合っていると思っていた俺だったが、扉を開けるとそこには缶ビールを片手にした父さんしかいなかった。
「あれ、美幸は?」
「美幸ならもう部屋に戻ったさ。明日は病院なんだってな?なら早めに寝ておいたほうがいいだろ。俺も風呂に入ったらすぐ寝ることにするか」
ゆっくり立ち上がった父さんが俺を通り過ぎて浴室に向かおうとする。だが浴室の扉を閉める前に一度父さんがその歩みを止めた。
「悠人」
呼びかけられことで俺も後ろを振り返った。しかし父さんは顔を見せようとはせず、何も語りはしない背中だけが向けられていた。
「明日も美幸のこと、頼んだぞ」
言われるまでもない、そう返事しようとしたが俺の言葉を聞く前に扉を閉めてしまった。
思わず立ち尽くしてしまったが気を取り直すと誰もいなくなったダイニングを後にして俺も部屋に戻った。
襖を開けると美幸は机に日記を広げていた。見開きのページには美幸の手によって書かれた言葉で埋め尽くされており、今でも止まることなく書き記されていた。
「寝なくていいのか?」
声を掛けるのは少し躊躇ったが、明日のことを考慮すると確認するべきだと思った。黙々と綴り続けていた美幸の手が、俺の声が届くと共にピタリと静止した。
「び、びっくりしたぁ……。もう、声掛けるなら声掛けますよー、て教えてよ」
集中していたのか俺が入ってきたことに気づいていなかったらしい。美幸が頬膨らませるように不満げな表情を浮かべてみせる。
「無茶言うなよ。それより、大丈夫なのか。明日病院だぞ」
「ああ、うん。わたしも寝ようと思ってたんだけどね。書きたいことが多くて。それに昨日は書く前に寝ちゃったからさ、その分も書いておきたかったの」
あはは、と照れ隠しをしてみせる美幸。
「まったく、しょうがないな。俺としては早く寝てほしいんだがな」
「だよねー」
「ただまぁ、止めようとは思わんさ。美幸が満足するまで続けてくれ」
「あれ、いいの?普段ならそんなこと言わないのに」
俺がそう言うと美幸から不思議そうな眼差しが向けられた。俺は近くにある自分の机の前にある椅子を持ってくると、そのまま美幸の横に並ぶ。
「その代わりここで監視させてもらうからな。眠そうにしたらすぐさま布団に直行だ」
美幸が使っている机に肘を置くと、俺はそれを支えにして横にいる美幸の顔を凝視した。美幸は一連の俺の行動に呆気に取られていたが、我に返ると同時に笑いを堪えるかのように身体が震え始めた。すでに寝静まってしまったこの時間帯のこと考えればあまり褒められたことではないため、なんとか噛み殺そうと顔を背けていた。
「なに笑ってるんだ?こっちは真剣だぞ」
「いやっ、うん。それは分かってるんだけどね。どうしたの、悠人?」
「別にどうもしてない。ただそういう気分ってだけだ」
俺は本心を悟られたくなくて気まぐれであると簡潔に伝えるが、美幸がそれを聞いて何を感じ取るのかは分からない。しかし確実に言えることは、それだけが理由じゃないことには感づいてることだろう。
いつものように美幸がそのことに対して問い詰めてくる。そんな風に身構えていたが、美幸は黙々と日記に向かってペンを走らせていた。拍子抜けのような感覚を味わっていた俺だったが、美幸の表情をよく見てみると何故か嬉しそうに表情を緩めていた。
予想外な反応に俺は思わず美幸に問いかけてみた。
「他に聞くことはないのか?」
まるで構ってほしい子供みたいな発言をした自分を少し恥ずかしく思ったが、音になってしまった後では取り消すことは出来ない。
美幸が新たなページを広げる。白紙のページが現れるが数日もすればここにも美幸の言葉によって埋め尽くされることになるだろう。そのページに言葉を刻むのを止めた美幸は優しい眼差しで俺の顔を見詰めた。美幸の落ち着いた声が擽るように耳を撫でる。
「うん、別にないかな。それより、監視するんでしょ?ならちゃんとわたしのこと、見てないとね」
それだけ伝えると美幸は再びペンを片手に日記と向かい合った。視線を下げたことによって、さらりと美幸の髪が自分の視界を遮る。それを片手で耳に掛けると、ただひたすらにペンを走らせ続けていた。
結局、その夜は美幸が日記を書いている間に眠そうな素振りを見せることはなく、美幸の手によって多くの言葉で綴られていった。美幸は終始陽だまりのように優しい笑顔を浮かべていたが、何がそうさせているのか美幸は俺に教えてはくれなかった。
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