草薙先生とメイさん

1

「悠人、起きて」

 桜舞い散る春の早朝、昨夜を連想させるような冷たい風が開かれた窓から入ってくる。

 俺より一足先に起きていた美幸の声が耳に届いてきた。聞き慣れた優しい声に安心する。

 目覚めたばかりの脳を働かせて重たい身体を起き上がらせる。

「おはよ。よく眠れた?」

 傍に居た美幸は既に制服に着替え、身支度を済ませていた。襖の奥からは美幸が作ってくれた朝食の匂いを僅かに感じ取った。

「まぁ、それなりにはな。美幸は?」

「うん。わたしは大丈夫だよ」

 美幸は笑いながら普段と変わらない笑顔を浮かべる。

「父さんはもう出た?」

「お父さんならわたしが起きた時にはもういなかったよ。あ、でも料理美味しかったって置き手紙だけあったな」

「そうか。良かったな、美幸」

「うん。あとね、二人ともいってらっしゃい、だってさ」

「そんなこと書いてたのか?というか、いつもなら置き手紙なんて残して行かないだろ」

「でもこうやってちょっとした言葉を残してもらうだけでも、わたしは嬉しいよ。悠人はどう?」

「……別に何とも。ただいきなりこんな事されたから戸惑ってる。それにいってらっしゃいって言うなら昨日でもよかっただろ」

「あはは、それはそうかもね。でも昨日少し話した後に、何か言いたくなったんじゃないかな。それに、顔を合わせた状態だと言いずらいことだってあるでしょ?」

 そう言われるとわからなくもない。父さんに対して感謝していることはあるが、いざ正面切って話すとなるとどうしても喧嘩腰になることがある。

「それもそうか」

 俺は一言だけ返して重い腰を上げた。眠る直前に変なことを考えていたせいか気分が晴れない。

「とりあえず、俺は洗面所で顔を洗ってくるわ」

「うん。ゆっくりしてていいからね。時間には余裕あるから」

「ああ」

 そう返事はするものの昨日のことを思い出すとあまり悠長にしていられない。俺が一人で通っていた時の時間を基準に考えると確実に遅刻してしまう。

 昨日の登校時間を思い出しながら、とりあえず気持ちを切り替えるためにも洗面所へと向かった。



 結局、家を出る頃には昨日と変わらない時間帯になってしまっていた。

 その原因となった張本人は特段遅刻することを気にしていないのか、呑気に桜並木を歩いていた。

「……美幸」

「ん?どうしたの、悠人」

「どうしたのじゃない。このままだと昨日みたいに遅刻するぞ」

「うん、そうだね。わかってるよ」

 そうは言うものの美幸が足を早める様子はない。美幸の視線は辺りに咲く薄紅色の桜に向けられてた。早朝の時に比べると心地よい風が吹くたびに、周囲の桜が舞い散り、儚くも美しい光景が広がっていた。

「遅刻してもいいじゃん。それよりも見てよ!この景色。綺麗だね」

「確かに綺麗だけど、だからって遅刻していい理由にはならないからな」

 今歩いてる場所だって昨日とは違う道だ。出る前に美幸が今日は違う道から行きたいと言い出し、現在に至る。もはや昨日の登校に要した時間など参考にならなかった。

「わかってるって、遅刻するのが悪いことぐらい。それでも、ここに悠人と見に来たかったの」

「別に放課後でもよかったんじゃないのか?」

「確かにそうかもしれないけど、放課後になったらわたしの体力がなくなってるかもしれないでしょ。そうなったら、ゆっくりこの景色を見ることが出来なくなっちゃうかもしれないじゃん」

「ああ、なるほど。それでこの時間ってわけか」

「そういうこと。それに、ここの桜たちだっていつまでこんな満開でいられるかもわからないじゃん。数日後に来たら跡形もなくなってたりしたら遅いでしょ?」

 同意を求めるようにこちらを見詰めてきた。

「そうだな」

 美幸の言葉に軽く同意する。

 今日からは午後の授業が始まる。昨日と比べると体力を使うのは明白だ。そう考えると今回の行動に納得できた。

 俺は遅刻することを割り切り、美幸とこの景色を堪能することに思考を変えることにした。ちょうど辺りを見渡すと桜の影で見づらくなっている場所に、大人が二人座れるかギリギリの小さなベンチを見つけた。

「美幸、あそこにちょうどベンチがあるぞ」

「あ、ホントだ。よく見つけたね」

 美幸も俺に言われるとベンチの方に視線を向けた。

「どうせならあそこに座るか。歩いてると疲れるだろ」

 普段より歩行距離が長くなってることもあって休憩しておきたかった。

「え、でもいいの?学校に着く時間がさらに遅くなっちゃうよ?」

「それを美幸が言うんじゃない。それにそんなことはもう今更だ。美幸はここに来たかったんだろ?」

 珍しく美幸から行きたい場所がなんて言われたら、断ることもないだろう。

「うん。沙希ちゃんがね、すっごい綺麗な桜並木があるって昨日教えてくれたの」

「なら、もう少しここでゆっくりしよう」

 俺はベンチに向かうと美幸も追いかけてきた。二日連続で遅刻してしまうことに後ろめたさを感じているのか美幸の足取りが重く見えた。

 先に着いた俺がベンチに座ると、美幸も隣にゆっくりと座る。立ち止まってみると、桜を揺らす穏やかな風が鮮明に感じ取れた。桜が舞っていく先を追っていくと、視界に美幸の姿を捉えた。長い髪が風に吹かれ、美しいヴェールを描く。

 俺は出かける時に気になったことを美幸に聞いてみた。

「そういえば、今日はオシャレしないんだな」

「そうでもないよ。今日だってうすーくだけどしてるよ」

「そうなのか?正直、美幸は元の肌が綺麗だから必要ないと思うんだけどな」

 実際に薄くしていると言われるまで俺は気づかなかった。

「そう言ってくれるのは嬉しいけど、化粧って紫外線対策にもなるんだよ」

「へぇそんな効果があるのか。じゃあ昨日はなんで今日みたいに薄くしなかったんだ?」

「ああ、それはねー」

 美幸が楽しげな声色で教えてくれる。話していく中で美幸も諦めがついたのか、俺たちは学校のことなんて気にする素振りすらなかった。

「例えばさ、悠人。今からわたしのことを想像してみて」

「唐突だな。想像って具体的には何を思い浮かべればいいんだ?」

「うーん、何でもいいんだけど。じゃあねぇ、わたしが台所に立ってる姿と悠人が絵を描いてる姿を傍で見てるわたし。この二つを想像してみて」

「一つじゃないのか」

「悠人が考えたなら一つでいいんだけどね。わたしが出すなら二つの方がいいかなって」

「なんだそれ?」

「まぁいいからいいから。とりあえずやってみて」

 何がしたいのかよく分からなかったが、俺は言われた通りにした。幸い台所に立つ姿も隣に座る姿も毎日のように見ていることもあって苦労することなく、思い描くことが出来た。

「それで?俺はどうすればいい?」

「お、もう出来たの?早いね」

「そりゃ毎日見てるからな」

「ふふっ、それもそっか。じゃあ悠人、その時のわたしってどんな服着てる?」

「服?」

「そそ」

 美幸からあまり気にしていなかったことを指摘され戸惑いそうになるが、言われると思いの外すぐに想像の中に組み込まれていった。

「どう?どっちも白のワンピースだったでしょ?」

 俺が何かを言う前に美幸から確信しているような声色で聞かれる。

「……ああ」

 美幸がしたり顔を浮かべるのを見ながら、俺はどういう意図で聞いたのか考えていた。

 そもそも春夏秋冬、季節を問わず美幸は必ずと言っていいほど白のワンピースを着ている。俺の中で美幸が他の服を着ている時は、どこか違和感を感じることさえある。それほどまでに、美幸に対してはワンピースという印象が定着していた。

「まぁそうだよね。わたし、ほとんどワンピースしか着ないし。そうなるよね」

 自分で納得するようにうんうんと美幸は頷いていた。

「それで?これがオシャレにどんな関係があるんだ」

「まぁまぁそんなに急かさないでよ。次に聞くのが本命だから。んー、それじゃ悠人、わたしが制服のときってどんなイメージがある?」

「制服のときかぁ。今なら昨日の美幸を思い出すな」

 珍しく気合を入れて魅せた姿は、初めて見る美幸の制服姿ということもあってか昨日の光景を鮮明に思い起こすことが出来た。

「ホント?昨日のわたしの姿、ちゃんと覚えてる?」

「ああ。あそこまでオシャレすることなんてあまりないだろ?それに初めて制服姿を見たからインパクトがあった。あ、だから今まで見せなかったのか?」

 美幸は頑なに昨日まで制服姿を見せなかった。しかし、どうやらそれ自体に意図があったというわけか。

「うん、そうだよ。せっかくなら、わたしが見せたい姿を覚えててほしいからね」

「ならその思惑は成功したな」

「ふふっ、そうだね。実はこれ、合格が決まった時からやりたかったことなの」

 嬉しそうに美幸が微笑む。

「そうなのか?」

「そうだよ。悠人って白のワンピースを見たら、たぶんわたしのことを連想するでしょ?」

 美幸の発言に対して素直に頷いてみせる。そもそも周りに白のワンピースを着ている人がいないから、他に思い浮かぶ人がいない。

「それと同じだよ。わたしの制服姿を思い出してもらうなら、わたしが胸を張れる姿を見せたかったの。それなら初めて見せるときがいいかなって思ったの」

「じゃあなんで今日はしてないんだ?」

 改めて美幸を見てみるが、昨日のような印象はなく普段通りの美幸にしか見えなかった。

 美幸は視線を宙に向けながら話し始める。

「んー、理由はいろいろあるんだけどね。一回だけしかしなかったらその一回が特別になるでしょ?わたしにとっては昨日のはウェディングドレスみたいなものなの」

「ウェディングドレスって……ちょっと大袈裟じゃないか?」

「でも、わたしは満足できたよ」

 そう言って向けられた笑顔を見て、俺はこれ以上の言葉を無粋に思えた。

「そうか」

 返事だけを送ると俺たちの間に沈黙が訪れる。他の人なら居心地が悪く感じることだが、美幸と共にしている時はむしろ心地よさを感じた。

 先程までの問答はよくわからないこともあった。美幸自身、そもそも説明するつもりがあったのかも怪しいところだ。しかし、それらは春風に流され、俺たちはしばらくこの小さなベンチから咲き散る桜並木をただ見つめていた。

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