8
少し火照った状態に身を任せながら過ごしていると、気づけば深夜が目前にまで迫っていた。
美幸はあくびを噛み殺したり、眠気に襲われ俺に体重を預けたりと、見ているだけでも無理をしているのは明確に伝わっていた。
俺はここまでと判断し、美幸の肩を軽く叩いた。美幸がゆっくりと視線を合わせる。
「……ん、ごめん、ぼーっとしてた。どうしたの?お父さん帰ってきた?」
「いや、そういうわけじゃない。ただ、美幸も今日が初登校ってことでなにかと疲れてるだろ?」
「……それはそうだね」
眠気のせいか普段よりも反応が鈍かった。
「明日も学校はあるんだから今日はもう休め。父さんも無理してまで出迎えられると素直に喜べないだろ?」
直接帰りを待ちたいという美幸の気持ちも理解できるが、父さんがいつ帰宅するかは正確なところは分からない。
ただでさえ人より身体が弱い美幸だ。十分の休息を取っておかないと確実に付けが回ってくる。
美幸は俺の言葉を素直に受け入れると、一度扉の方に視線を向ける。
待ち人は一向に帰ってくる気配はなく、扉は重く閉ざされたままだった。
「……そうだね。悠人の言う通り明日も学校があるんだもんね。ここで無理して倒れたりしたら悠人にも迷惑かけちゃうよね。それは嫌だなぁ」
美幸はこれまで幾度も俺や両親、沙希ちゃんといった人に助けられながら生きてきた。ある程度は人に迷惑をかけてしまうことを受け入れてはいるようだが、全く負い目を感じていないわけではないのだろう。俺に対してはそういった素振りを見せることは少ないが、それ以外の人にはいつも申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
美幸が考えを巡らせている間、部屋は静寂に包まれる。感じ取れるのは美幸の微かな呼吸と体内を駆け巡る脈動だけだった。
俺は美幸がどうするのか待っていると、ようやく閉ざされていた口が開く。
「……うん。今日はもう休もうかな」
「さすがに限界だろ?」
「……そうだね。今はなんとか起きれてるけど、油断したらすぐ寝ちゃいそう。明日からは一日学校だから今日よりも体力使うだろうし、ちゃんと休んでおかないとね」
一年生は分からないが三年生は明日から早速授業が始まる。午前中しかなかった今日でさえ美幸にはかなり疲れたことだろう。もし明日から授業があるなら今日よりも確実に疲弊するのは明らかなことだ。
「……結局、お父さん帰ってこなかったなぁ」
どうしても一度だけ会いたいのか、休むと言ったのに腰を上げる様子がなかった。
俺は部屋に行くよう声を掛ける。
「ほら、部屋に行くぞ」
「……はーい」
渋々といった様子ながら美幸が返事をする。起き上がりやすいように俺が手を差し伸べると、美幸がぎゅっと俺の手を掴んだ。
「ありがと」
二人で立ち上がり部屋に戻ろうとしていると、さっきまで美幸が見ていた扉の方向から音が聞こえてきた。こんな時間に訪れてくるような知り合いなど思いつかない。となれば残る可能性は限られてくる。
鍵がかけられていた扉がゆっくりと開かれた。
「ただいま」
扉の先には美幸が待ち焦がれていた父さんの姿があった。
「おかえり!」
先程まで今にも意識を手放してしまいそうだった美幸がすぐさま父さんの帰りを出迎える。俺も遅れながら父さんがいる玄関に向かった。
「こんな時間まで起きてるとは思わなかった。学校はどうだった?」
「うん、悠人も一緒だし大丈夫だよ。授業はまだ分かんないけど」
「そうか。詳しいことはまた明日にでも聞くから、今日はもう寝るといい。さっきはそのつもりだったんだろ?」
俺たちが立っていたのが部屋に近い場所であるのを見てそう判断したんだろう。普段であれば俺たちは部屋に戻っている頃合いだ。
「そうだけど、せっかくお父さんが帰ってきたなら会いたいじゃん」
目を輝かせながら話す美幸の姿には、先程までの面影を感じさせないほど喜んでいるように見えた。
そんな美幸に対して、父さんはしゃがむと諭すように優しく話し続けた。
「その気持ちは素直に嬉しい。でも今日はもう遅い。美幸が作ってくれた手料理は冷蔵庫に入れてくれてるんだろ?」
「……うん。今日は自信作だよ」
「そうか。じゃあ楽しみにしてる。美幸も眠たいのに待っててくれてありがとな」
そういうと父さんの大きな手が美幸の頭を撫でた。
俺はそんな二人のやり取りを見守っていると父さんと目が合う。
昔から印象深い父さんの瞳。小さい頃はその鋭い眼差しで、全てを見透かされているように感じさせた。唯一母さんには心を許していたようで泣いたり笑ったりと振り回されていたのを今でも覚えてる。母さんが亡くなってからは随分と沈み込み、この世から魂が抜け落ちたようだった。だが、ある日を境に俺たち二人の前で変わらない表情を見せてくれた。少し寂しげではあったが、父さんはまるで母さんに向けるような笑顔を浮かべてくれたのを見て、俺は胸を締め付けられるような想いを刻まれた。
今日だって父さんの眼差しには昔のような視線を彷彿とさせる迫力はなかった。
「悠人もありがとな」
「別に褒められることでもない。家族だし困ってたら助けるのは当たり前だろ」
「ふっ、そうか。ならこれからも美幸のこと、任せたぞ」
「任されなくても俺は勝手にやる」
「ああ。頼りにしてる。じゃあ二人はもう部屋に行け。明日も学校だろ?」
「分かってる。美幸、部屋に行くぞ」
「うん。お父さん、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
美幸は名残惜しいだろうが、これ以上は明日に響く。俺たちは父さんに見送られながら部屋に戻った。
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