7

 その後、俺たちは雑談したり美幸の勉強を見たりしながら過ごしていると、気づけば陽が傾き、外の景色が夕焼けに包まれ始めていた。

 俺が美幸に教えていると台所の方からアラームの音が聞こえてきた。

「あ、もう時間になっちゃった」

「そうみたいだな」

「ありがとうね。最後まで付き合ってくれて」

「いや、俺も基礎を見直すいい機会になるから気にしないでくれ。それに、美幸に教えるのは楽しいからな」

 分からいない部分を素直に聞いてくれるおかげで何が分からなくて、どこまでなら理解できてるのかがはっきりするから、こちらとしても教えやすかった。なによりも、美幸が問題を解くたびに嬉しそうに笑顔を浮かべるのを見ていると俺も嬉しい気持ちになった。

「そう言ってくれるとわたしも嬉しいな。また悠人に教えてもらいたいんだけど、いい?」

「ああ、いいぞ。俺に出来ることなら、いつでも美幸の助けになるからな」

「えへへ、それは心強いなぁ。じゃあ、わたしは夕飯の支度してくるね」

「わかった。もう体調は大丈夫なんだよな?」

 既に体調不良を起こしてから数時間が過ぎていた。俺の目で確認できることはせいぜい呼吸が落ち着いて、問題なく歩くことが出来るようになったぐらいのものだ。本当に問題がないのかは美幸自身にしか分からない。

「うん。心配かけてごめんね。そのかわり今日の夕飯はわたしが腕によりをかけるから楽しみしてて」

「おぉ、それじゃあ期待して待ってるわ」

「任せて。期待を裏切ったりなんてしないから」

 美幸はヘアゴムを使って髪を後ろで結び、エプロンを身に着けると台所に向かった。後ろ姿からは白くて細い、綺麗な首筋が顔を覗かせていた。

 台所に立つと美幸は昼食の時の俺よりも手慣れた動きで準備を進めていく。その手捌きには思わず惚れ惚れする。まだまだ美幸には届かないなと感じさせるほど、料理をする美幸の姿は綺麗だった。

 俺は美幸の後姿をスケッチブックに描きながら待っていると、食欲をそそる香りが台所から流れてきた。俺の胃が刺激され、空腹を訴えてくる。

「もうすぐできるよー」

 美幸の声が耳に届いた。俺は手に持っていたスケッチブックとペンを置くと台所の方まで向かった。その足のまま食器棚の前に立つ。

「あ、今日もお父さん遅いからお皿は二人分でお願いね」

 美幸の言葉を受けると食器棚から必要な分だけ取り出し、盛り付けやすいように並べていった。

「ありがと」

 俺にそういうと美幸が盛り付けていく。瞬く間に皿を色彩が埋め尽くしていった。

「よし。これでいいかな」

 美幸がエプロンを脱ぎ、結んでいた髪を下ろした。

「もう持っていくか?」

「うん、お願い」

 俺は美幸から皿を受け取るとリビングまで運び、置いてあるちゃぶ台の上に並べていく。その間に美幸は冷蔵庫から冷やしてあった飲み物を取り出し持ってきてくれた。

 一通り食事の用意を済ますと俺たちはいつもの場所に腰を下ろした。

「ふぅ、今日もお疲れ様」

「美幸もな。初めての環境だったから疲れたろ?」

「ちょっとだけね。それに、これから毎日通うんだから泣き言なんて言ってられないよ」

「別に泣き言ぐらい言ってもいいだろ。他の人は知らんが、少なくとも俺の前でぐらいは自分に素直になれよ。何も出来ないかもしれないが、話し相手ぐらいにならなれるからな」

「そんなことないよ。そう言ってもらえて嬉しい」

 美幸はそう言うといつもの笑顔を浮かべた。

「とりあえず、今日は風呂でゆっくり疲れを癒してきな。俺のことは気にしないでいいから」

「分かった、お言葉に甘えるね。じゃあそろそろご飯にしよっか。せっかく作ったの冷めちゃったらもったいないからね」

「だな」

 美幸が手を合わせる。俺も美幸と同じようにして手を合わせる。

「いただきます」

 二人でそう口にすると、俺は美幸が作ってくれた料理を味わった。

「どう?」

 美幸が感想を求めてくる。今日作った料理には自身があるのだろう。美幸はまだ自分の料理には口にはせず、少しそわそわしながら俺の言葉を待っていた。

「うん、美味い。やっぱ美幸の料理が一番だな」

「ホント?よかったぁ」

「ああ」

 料理の味もさることながら、やはり最も心を打つのは俺の為に作ってくれたということだ。当たり前のように毎日大変な料理を振る舞ってくれる美幸の想いを感じるほど、胸の内から温かな気持ちがとどめなく溢れていく。

 俺は美幸と共に生きていることの幸せを噛みしめながら、胸と腹を満たしていった。


 夕飯を食べ終えた時、既に日は沈み夜の帳が外を飲み込んでいた。窓からは昼間よりも冷えた風が入り込み、外に咲いている桜が儚くも舞い散っている。

「じゃあわたし、お風呂入ってくるね」

「ああ、洗い物は任せてくれ。美幸はゆっくりお湯に浸かってこい。春になったとはいえ、夜は冷え込むからな」

「わかった。じゃあ洗い物、よろしくね」

 必要なものを抱えると美幸は浴室へと向かった。長い髪のケアには気を遣っていることもあって美幸の入浴時間はどうしても長くなる。その間に俺はいつも食後の洗い物の役目を引き受けていた。いつも美味しい料理を作ってくれている美幸には後のことを考えず、風呂でゆっくり英気を養ってもらうためと思えば洗い物をするぐらい苦ではなかった。

 俺が台所で食器を洗っていると浴室の方から旋律が聞こえてきた。美幸の鼻歌だ。

 余程気分がいいように思えるが、元の曲調はバラードであり、奏でるメロディは悲しみを含んでいた。今の美幸が持つ雰囲気には似合わないように感じるが、美幸は希望に満ちたような曲をあまり好まなかった。それよりも、虚しい余韻が残る歌詞や胸を締め付けるような想いが詰まったものを好んで聞いていた。

 ただ、美幸が好む曲は共通して、誰かを想う気持ちが強く、まるで言葉に出来ない心を代弁してくれているように感じさせる魅力があった。

 俺は美幸の鼻歌に耳を傾けながら洗い物を終えると夕飯前に描いていた絵の続きを進めていった。

 ペンを動かし、線を映し出す。この行為をする度に思い起こされるのは、母さんが居た生活だ。

 俺は別に最初から絵を描いてきたわけじゃない。きっかけはたまたま学校で描いた作品が最優秀賞を取ったことだった。当時はその作品がどうなろうと興味はなかった。ただ、俺はそのこと対してなんとも思っていなくても、家族はそのことを俺以上に喜んでくれた。そのことを知った時、見知らぬ人から認められたことよりも、家族の幸せそうな表情を見れたことに俺は絵を描く意味を見つけた。それ以降、俺は絵を描いてはコンクールに出し続けた。気づけば神童なんて呼ばれ方もしていた。

 持っていたペンに無意識に力が入る。ペン先が折れ、描いていた線の一部が不自然に濃くなっていた。描き直したい気持ちもあるが、美幸から消しちゃダメと言われていることもあって、絵のバランスに亀裂が入る。

思わずため息をつきそうになっていると耳元で囁かれた。

「どうしたの?」

「うぉ、ビックリした」

 傍には風呂上がりの美幸がいた。日中に着ていたものとよく似た白のワンピースにカーディガンという服装だが、まだ髪を乾かしてないこともあって日中とは違う印象を受ける。正確にはワンピースではなくネグリジェというらしいが俺にはよく分からなかった。美幸が言うにはこっち方が楽らしい。

 美幸との距離が近いこともあり、シャンプーと柔軟剤だけではない甘い香りが普段よりも強く感じた。

「お風呂空いたよ」

「そうか、思ったより早かったな」

 まだ美幸が風呂に入ってから二十分も経っていない気がしたんだが。

「そんなことないよ。だってもう一時間近くは経ってるから」

「あれ、そんなにか」

 絵を描いてて全然気づかなかった。部屋の時計に目を向けると、美幸の言う通り二十分以上は時間が経過していた。

「悠人、集中しすぎ。それに表情も暗いし」

 美幸からの指摘に、俺は思わず苦笑いを浮かべる。もはや自分ではどうしようもないと感じている部分のため、美幸に言われても困り果ててしまった。美幸も指摘はするが、それ以上は何も言わなかった。細かな美幸の気遣いが身に染みる。

「とりあえず悠人もお風呂入っちゃって」

「そうだな。俺も入ってくるか」

 スケッチブックを学生鞄の中に片付けると一旦自室に戻った。予め用意しておいた着替えを手に持つとそのまま浴室に向かう。

「そういえば美幸、父さんはまだ帰ってこないのか?」

「うん。また遅くなるって言ってたよ。帰ってくる頃には日付が変わっちゃうかもね」

 美幸は心配そうに外を眺めていた。

「こんな時間まで何やってるんだか……」

「そんな風にお父さんのこと言っちゃだめだよ。家族の為にしてくれてるんだから」

「分かってるって。俺もそのことには感謝してる」

 一人で家族の家計を支えてくれているのは父さんであることは誰の目にも明らかだ。

 俺が高校生になった時、家計を心配してバイトを始めようとしが父さんに反対された。

「せっかく高校生になったのなら今しか出来なことをしておけ。バイトはいつからでも始められるけど高校生活は三年しかないからな」

 父さんはそう言っていた。それに俺がバイトに行くと家に美幸を一人残してしまう。父さんはそのこと自体も危惧していた。それに関しては俺も不安に思っていた事柄ということもあり、俺はバイトを始めるのを断念することにした。

 ただ、母さんが亡くなってから父さんは以前よりも帰宅時間が遅くなっていった。家族のためというのは理解しているけど、せっかくなら行事や祝い事は家族全員で過ごしたいと思う気持ちもある。今日だって美幸の制服姿を父さんにも見てもらいたかった。きっと美幸も父さんの感想を望んでいることだろう思ったから。

 俺はもどかしい気持ちを抱えながら、美幸と同じように外を見た。もちろん、そこに父さんの姿は微塵もありはしない。

「早く帰ってこれるといいなぁ……」

「……そうだな」

 開かれていた窓から春とは思えないほど冷たく、身体の芯を震え上がらせるような風が吹いてきた。

 俺は浴室に向けていた足を変えて、窓を閉めに行った。

「ほら、あんまり夜風に当たると身体を冷やすぞ」

「うん。悠人もお風呂でゆっくりしてきてね」

「ああ、俺も風呂で温まってくるわ」

 美幸に見送られながら、俺は今日の疲れを洗い流しに向かった。

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