6

 おっちゃんの店を離れ商店街を少し回った後、俺たちは自宅への帰路を歩いていた。既に時刻は昼を超えており、俺の腹は空腹を訴え続けていた。幸いなのは気温が焼き尽くすほどの熱を持っていないことだろうか。

「……はぁ、はぁ、はぁ」

 俺の隣では美幸が荒い息を吐きながらなんとか自身の足で歩み続けていた。美幸の荷物と買い込んだ食材は既に俺が持つようにしていた。

「大丈夫か?」

「……だ、大丈夫だよ。そ、それに、もうすぐ家だから」

「……おぶるか?」

「あはは、魅力的だけど今日だけは自分で歩かせて」

 既に家の姿は目視できている。後はただ歩みを止めなければ辿り着く。俺にとっては造作もないことだが、美幸には果てしなく遠く感じていることだろう。

「やっぱり自転車にすればよくなかったか?」

「た、たまにならいいかもね。でも初日ぐらいは自分で歩いてみかったの」

 美幸は懸命に返事を返してくれるが言葉は途切れとぎれになってしまっていた。

「……ごめんね、悠人」

「何か謝ることあったか?」

「……いや、いつも迷惑かけてるのに、また負担を増やすようなことになってるから悪いなって思っちゃって」

「そんな風に考えるなよ。いつも迷惑かけてんのはほぼ俺の方なんだから気にすんな」

 俺はふらふらで今でも倒れそうな美幸の身体を支えると、あまりにも非力で細い身体の感覚が伝わってきた。

「……ありがとね。あと少しだけ付き合ってくれる?」

「ああ、俺ら何年の付き合いだと思ってんだ?これぐらい大したことじゃないぞ」

「……そうだね。初めて会った時と今の悠人の雰囲気、全然違うしね」

「それはお互い様な」

「ふふ、確かにね」

 俺たちは懐かしむように昔のことを思い出していた。幼い頃の美幸はよく俺の背に隠れて怯えていたし、俺はそんな美幸が付いてきているの気にしながら先を駆け抜けていた。だがそれも時が経ち、気付けば明るく年相応の笑顔を浮かべるようになった美幸とそんな美幸がいなければ立ち上げれない弱い俺になっていた。

「わたし、この家族になれてよかったよ」

「……そっか、その言葉を聞けてよかったわ。今の聞いたら母さんもきっと喜ぶぞ」

 俺は美幸の言葉をしっかり受け止めると、なんとか言葉を返すことが出来た。

 美幸は素敵な言葉をくれたが、むしろ感謝するのは俺の方だった。俺たちはたまたま巡り合ったのかもしれない。それでもそんな運命は美幸が居てくれたおかげで、俺の人生を色鮮やかに染めてくれた。一人で見る景色と二人で見る景色は違った様相を見せる。俺は美幸が居てくれたからそのことに気づくことができた。

 俺は懸命に歩き続ける美幸の傍で見守ることしか出来ない現状に胸を痛めた。

「もう着くぞ。あと一息だ」

 美幸に励ましの声を掛けるが返事は返ってこない。それでも美幸は頷いて、成し遂げる意志だけは伝わってきた。

 長い道のりを超え、何とか家の前まで辿り着くと俺は家の鍵を取り出し玄関の扉を開けた。

 ようやく帰ってきて、これでお互い一息つくことが出来る。俺は買ってきた食材を冷蔵庫の中に入れていると、美幸がエプロンを着て台所に立とうとしていた。

「ちょいちょい、何してんだよ」

「え、いやお腹空いてるでしょ?だから、何か作ろうと思ったんだけど」

「まだ疲れてるだろ。休んでていいから。なんなら俺が作ってもいい」

 美幸は悩む素振りを見せたが俺の表情を見て諦めてくれた。

「……ごめんね。じゃあ、お願いしてもいい?」

「ああ、部屋で少し休んで、落ち着いたら着替えてまた戻ってくればいいから」

「うん、わかった」

 美幸が部屋に入るのを確認すると冷蔵庫にある食材を確認した。

 普段なら俺が台所に立つのを嫌がる美幸だが、今回は素直に飲んでくれた。それだけ余裕がないということなんだろう。俺としても美幸が嫌がることはしたくないし、欲を言えば美幸の手料理を食べたいと思うが、帰ってくるまでの様子を見ているとそんなことも言っていられなかった。

 俺は手早く済ませるものを考えながら、さっきまでのことを思い出してた。

 明日からは教材などが詰め込まれ、今日以上に重くなると予想される美幸の学生鞄を俺は最初から持つことを決心した。

 時刻はまもなく二時を過ぎる頃、胃を刺激する香りが家に広まり始めると美幸がいつも着てる白のワンピースに着替えて戻ってきた。

「んー、いい匂いだね。休んでたけどつい見に来ちゃった」

「別にまだ休んでてもいいんだぞ」

「大丈夫だよ、だいぶ落ち着いたから。それに悠人が料理する姿なんて、普段じゃ見られないからちゃんと心に刻んでおかないといけないでしょ?」

 よく分からない理由だったが、美幸は普通に話せるぐらいには回復していた。

「とりあえず、もうすぐできるからちょっと待ってな」

「はーい」

 問題なさそうな美幸に一安心すると、俺は目の前のことに集中することにした。

「よし」

 俺は出来た料理を盛り付けようと棚に向かおうとしたが、既に食器が並べられていた。気づかぬうちに美幸が用意してくれていたらしい。俺はゆっくりしててほしかったが、美幸の小さな気遣いが嬉しくて思わず笑みが零れた。

「どう?できた?」

 機を見ていた美幸が近づいてくる。

「ああ、お待たせ。久しぶりに料理したから手間取ったけど、なんとかなるもんだな」

「傍で見てたけど、そんな風には見えなかったよ?」

「なら、いつも料理してる美幸を眺めてるからだろうな。美幸が料理したがるから、その後ろ姿は俺の目によく焼き付いてるからな」

 毎日欠かさず台所に立ち続けている美幸を、俺は誰よりも傍で見てきた。今回、久しぶりに立っていると何回か料理をしている美幸の動きをなぞっていることがあった。気づいたときは少し驚いたが、俺の中に美幸が存在している気がすると、なんとかなるように感じた。

「しかし、美幸は凄いな。いつもしてくれてるのに文句の一つも言わないなんて」

「あはは、そんな褒められるようなことじゃないよ。それに、料理は好きでやってるだけだからね」

「そうか。じゃあ言わせてくれ」

「ん?」

「いつもありがとな」

 俺は日頃の感謝を伝えると美幸は思わずといった具合に視線を逸らした。

「う、うん。そう言われるのは嬉しいんだけどさ。急に言われたからビックリしたよ」

「いや、美幸がいつもしてることだろ。それに、こういうのは言える時に言っとかないとな」

 傍に居る人がいなくなる。目には見えないだけでそんな可能性なんていくらでもある。伝えたいことが溢れ出てくるのに伝えるべき人がいない。そんな虚しさがいつも纏わりついてくる。俺はそんな後悔なんて金輪際したくなかった。

 美幸も伝えたいことが分かったのか素直に俺の言葉を受け止めてくれていた。

「……そうだね」

 まだ昼間だというのに部屋には暗く、悲しみで包むような空気が漂い始めていた。美幸はそれらを振り払うかのように明るい声を上げた。

「ほら、それよりご飯にしよう!わたし、悠人が作ったの楽しみにしてたんだから!」

 そういうと美幸は並んでた皿をちゃぶ台まで運んでいった。

 美幸の後に続いて行くと、既に美幸は定位置に座って俺が来るのを待っていた。

 俺が美幸の傍に座ると美幸はゆったりとした仕草で手を合わせた。

「いただきます」

 小さく、噛みしめるような声が耳に届いてきた。俺も美幸に続いて済ますとようやく俺たちはいつもより遅い時間だが昼食を取り始めた。



 腹を満たし食器を洗い終えると、俺たちに穏やかな一時がやってきた。美幸は壁にもたれながら本を読んでおり、俺はそんな優雅にくつろいでいる美幸をスケッチブックに映し出していく。

 昼食の時、美幸は隙あらば美味しい、と言い続けていた。ちゃんと聞いていたがどうしても後半になるにつれて軽く流して耳に入れてしまっていた。それでも毎回その言葉を聞くと嬉しさが込み上げてきた。たまには料理するのも悪くないな、と思えるほど心を満たす余韻が今なお残り続けている。ただその場合、料理ができないほどのことが美幸の身に起こってしまっていることになる。そう考えると俺が料理をするようなことが起こるのは歓迎すべきではないのかもしれない。

 そこでふと、俺は下校中の美幸の様子を思い出して、確認しておきたいことを聞いてみた。

「そういえば美幸、今週末だっけ」

「んー?なにかあったっけ?」

 本を読むのに集中していたためか、美幸からは気の抜けた返事が返ってきた。その声を聞いて思わず呆れてしまった。

「忘れたのか?確か病院に行くことになってるよな」

「びょーいん?」

 未だに思い当たるものがないのかはっきりとした意識を持っていなかった。ご飯を食べ終え、窓から運んでくる春の心地よい風に当たっていたからか非常に眠そうにしている。それでも眠たい頭でゆっくり咀嚼し終えると俺が聞いてきたことを理解したようだった。

「あー、そういえばそうだったね。すっかり忘れるところだったよ」

「自分のことなんだからもっとしっかりしてくれよ」

「あはは、ごめんごめん。でも悠人が覚えててくれたでしょ?」

「それはたまたま覚えてただけかもしれないだろ。俺も忘れてたらどうすんだよ」

「大丈夫だよー。それに病院って聞くと大袈裟だけど草薙先生とお話をするだけだから。悠人もそれは知ってるでしょ?」

「そうだとしてもなぁ……」

 俺は不服そうにして見せた。

 美幸のことだから楽観的に捉えいることなんて分かりきっている。当事者じゃない俺が心配して、当の本人が気楽にしているのもおかしな話だった。問題があるから病院に通ってるわけなんだから、美幸にはもっと自分のことを大事にしてもいたいものだ。

 美幸は俺の視線から逃げるように話題を逸らす。

「それよりさ、気になってたことがあるの」

「なんだ」

「帰りの時にちょっと話してたでしょ?仁さんの愚痴とか、悠人のクラスに転校生が来たこととか」

 美幸に言われ思い返してみると確かにそんな話をしていた。

「それがどうかしたのか?」

「その転校してきた人ってどんな人だった?」

「転校してきたヤツか?うーん」

 美幸の期待に沿えるように何か印象に残っているものを探してみるが、俺はそもそも転校生の姿を見ていない。いや、正確には紹介された時に横目で見たような気はするが、全く興味もなかったし、転校生だとしても俺からしたら他のクラスメイトと変わりはしない。どこまで行っても所詮俺の認識にはクラスメイトでしかない。そんなもの、ただの身近な赤の他人でしかない。いちいち赤の他人に価値を見出そうと俺はしない。

「……いや、考えてみたけど話せるような印象がないわ。せいぜいクラスが転校生が来たってことで騒いでたっていうぐらいかな」

「そっかそっか。じゃあ悠人はその転校生に興味がないってこと?」

「まぁどうでもいいな」

 もちろん、今後何か変化があれば見方も変わってくるかもしれないが、現状だと転校生には無関心だ。そもそも美幸がこの話題を振らなければ転校生の存在など忘れていた。きっとこういう部分が仁が指摘する社会性にも繋がってくるんだろうな。

 俺の転校生に対する感想を聞いた美幸は何度か頷いた後、深い息を吐いた。どうやら美幸の中で納得がいく整理がついたようだった。

「それで?こんなこと聞いてどうしたんだ。転校生っていっても美幸は学年が違うから会うこともないだろう」

「そうなんだけどね。でも、もしかしたら悠人と仲良くなれる人かもしれないでしょ?そうだったら話を聞いてみたかったんだけど……」

 美幸は居心地悪そうにしながら少し俯いてしまった。別に怒ってなどいないが美幸は俺の表情を恐るおそる覗き込むようにしていた。

「えっと、ごめん、余計なお世話だったよね?」

 美幸は不安げな面持ちを浮かべていた。俺の気分を害してしまったとか思っているのかもしれない。

 ちゃんと美幸の不安を払しょくするために、俺はスケッチブックを持って立ち上がると美幸の傍に向かい同じように壁に背を預けるようにして座った。

 美幸は俺が近づいてから俯いてばかりいて意気消沈していた。きっと自分のことを責めているのだろう。美幸に落ち度などないし、責める必要など全くないが、その心優しさは美しいと俺には思えた。

 俺は出来るだけ優しい声色で美幸に語り掛ける。

「なぁ、美幸。美幸はお節介って思ったかもしれないけどな。でも、美幸はそうするべきだって考えたんだろ?」

 美幸は声を聞かせてくれはしなかったが僅かに頷いてみせた。

「確かに不要な心配だったかもしれないな。俺からしてみれば、美幸の方こそ初めての学校なんだから上手くやれるか心配してたぐらいだぞ」

「……そうだよね。悠人の心配するよりわたしの方が心配になるよね……」

 美幸の表情がさらに暗くなってしまう。俺は小さい身体を抱え込み閉じこもってしまった美幸を視界に捉えると、収まりのいい小さな頭に優しく触れた。

「美幸、だからってそう自分を責めるじゃないだろ」

 美幸が僅かに顔を上げた。

「俺のことより自分を優先して欲しいっていうのはそうなんだけどな。だからって美幸が俺のことを心配したり、何かしようとすることは悪いことじゃないし、何も間違ったことじゃないだろう?」

「……そうかな。悠人は迷惑じゃない?」

「ああ。家族を心配するなんて当たり前の感情なんだから、それに誰が文句を言う権利があるっていうんだ。それに俺は必要なかったとは言ったけどな、一言も嬉しくなかったなんて言ってないからな」

 そう聞くと美幸の暗かった顔がしっかりと意思を持ったまま、俺に不安げな眼差しを向けた。俺は美幸を安心させるため触れていた頭を優しく撫でた。少しくすぐったそうに目を細めていたが、払いのけるようなことはしなかった。

「確かにいつも心配されてると、たまに鬱陶しいって思うことはあるけど、それでも心配してくれてるって感じると嬉しいもんだ。だって、この世界で俺のことを心配してくれる人なんて一握りしかいないんだぞ」

 数えきれないほど存在する人の中に俺のことを心の底から気にかけてくれる人なんて、指の数だけで足りるぐらいしかいないんだ。その事実を噛みしめるほど、近くにいる人のことがかけがえのない存在に感じることが出来た。

「だから美幸は今のままでいいんだ。むしろ俺の方こそいつも美幸に心配ばかりかけて悪いな」

「ううん、そんなこと気にしなくていいよ。わたしはさ、悠人からいろんなものを受け取ってるからなにか返したいだけなの」

 撫で続けていた手を止めると、俺の瞳と美幸の柔らかな瞳が交差した。

「俺ってそんな美幸にお礼されるようなことしたか?」

 いつも美幸はことあるごとに俺を持ち上げるが、少々過剰に感じることがある。俺としてはただ当たり前のことをしているつもりで、そこに感謝を求めたことはない。

 俺が不思議に思っていると、美幸は笑みを零しながら答えてくれた。

「そうだよ」

 美幸はそう言うが俺はそんな自覚は全くなかった。

「わたしさ、悠人がいなかったらきっと生きてないと思うんだよね」

「……それはちょっと大袈裟じゃないか?」

 美幸の予想だにしない発言に動揺しながらも、なんとか返事をすることが出来た。

「別に大袈裟じゃないよ。わたしからすれば、悠人はお兄ちゃんってだけじゃなくて命の恩人でもあるから。悠人に出会わなかったら、わたしは生きていたいなんて思えなかったよ」

 出会わなかったら、つまり美幸は珍しく俺と出会う前のことを話しているようだった。

 美幸は無意識なのか昔の話をしようとはしないし、俺も話したくないなら聞こうとはしなかった。ただ今でもはっきり覚えていることは、初めて会った時の美幸はおよそ子供とは思えないほど無気力な少女だった。

「じゃあ、美幸は生きる希望みたいなのを見つけたのか?」

「そうだね。わたしは生きる意味、かな。このためなら何も惜しくないって想いを、悠人と出会って見つけることが出来たよ」

「そっか。じゃあそのためにも体調に問題ないか病院でちゃんと検査してもらわないとな」

 俺がそう言うと美幸は微笑みを返したが何も言わなかった。

 夕飯の支度をするにはまだ早い。俺たちはそれまでの時間を肩を並べながら、静寂の中を穏やかに過ごした。

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