3
朝食はいつも美幸が作ってくれている。誰が作るかは明確に決めたことはないが、母さんがいなくなってからは美幸が率先していつも腕を振るってくれている。
美幸が中学生のある日、毎日作るのは大変だろうと台所にいた美幸に手を貸そうかと聞いたことがある。世間話の延長線上。軽い気持ちで投げかけた言葉だった。
だが、俺は予想外の美幸の反応にその先を紡ぐことはできなかった。
満面の笑みで承諾してくれるわけでもやんわりと断るわけでもなかった。返答はない。ただあからさまに美幸の様子が変容していった。
身体は震え、顔には血の気が感じられず、立っていることすらままならないほどだった。
そんな誰が見ても明らかにおかしいのに美幸は笑っていた。
張りぼてに埋め尽くされた虚無の笑み。
尋常じゃない美幸の様子に思考よりも身体が動いていた。俺はどうしたらいいかわからず、震え続ける小さな存在をただ抱きしめることしか出来なかった。
ずっと近くで見てきたはずなのに全く知らない美幸がいて、困惑したことは褪せることなくはっきりと覚えている。
いまなら美幸の力になれるかもしれない。だけど、美幸が弱音を見せたことはあの日きり一度もない。いつだって美幸は気丈に振る舞い、変わらない笑顔で俺の心を照らし続けている。
「はい、今日の朝ご飯ね」
「ああ、いつも悪いな」
「あー、また謝ってる。もう、いつも言ってるじゃん」
文句を言いながらも美幸は作ってくれた朝食が盛られている皿を渡してくれた。皿の上には湯気が立ち上る白米と塩コショウで味付けされた半熟の目玉焼きが盛り付けられている。他にもサラダや豆腐が入った味噌汁の香りが食欲を加速させていた。
何回繰り返してきたかわからない会話。何気ないありきたりな光景。
まだ俺の中に残されているものはどれだけあるだろう。
その中に美幸にしてあげられることはどれだけ存在するだろう。
俺がぼんやりと思案してると、美幸は子供に言い聞かせるようにやさしく話し続けた。
「料理はわたしがやりたくてやってるんだから気にしなくていいって。謝られても嬉しくないよ。それよりも、ほら」
「ああ、そうだった。つい癖でな」
美幸の口元が吊り上がりどこか不機嫌そうな表情ながら、それでも込み上げてくる期待で胸はいっぱいなのか、瞳を輝かせながらぐいっと顔を寄せてくる。
少し居心地の悪さを感じながら相変わらずな態度に思わず笑みがこぼれた。
「ありがとう」
「そう!百回の謝罪より一回のありがとうだよ。そのほうがわたしはうれしいなぁ」
こんないつも通りの光景にどこか安堵している自分がいた。
俺は何度も伝え続けている言葉を美幸の期待通りに紡いでいく。息を吸って、俺の気持ちが少しでも感じてくれるようにと願いをこめて。
それだけのことで美幸が纏う雰囲気は一変する。
目を細め、顔には笑みが広がっていく。心が晴れ渡っていくような柔らかな笑顔。さっきまで浮かべていた不機嫌さとは一ミリたりとも結びつかない、美幸という存在が幸せだと叫んでいるようだった。
たったの一言。子供でも知っているようなありきたりな言葉だ。そんなわずか五文字を聞くだけで、美幸の全ては輝きだす。
その言葉が聞きたいから生きているんだ、これ以上は何もいらない。
そんな風に感じてしまうほど、この時の美幸は満たされた顔をする。
だからだろうか。
「じゃあ、なにか温かいの淹れてくるね」
料理をしてる後ろ姿、冷蔵庫を開ける仕草。
何気ない美幸の一挙手一投足に母さんの影がちらついて離れない。いまも鼻歌交じりで台所に立つ姿は死んだ母さんとそっくりだ。そのたびに脳裏をよぎる不安は消えることなく付きまとい、離れてくれなかった。
「はい、どうぞ。コーヒーでよかった?淹れてから聞くのもなんだけど」
「ああ、ありがとう。自分で淹れるより美幸が淹れてくれたコーヒーの方が美味しいんだよな」
胸の中に残るわずかな懸念を追い払うために、俺はわざとらしく陽気に振る舞った。
美幸は二人分のマグカップを持ってきて、俺の横に座る。自分が淹れたコーヒーを褒められてうれしいのか喜色満面の表情だった。
美幸とはいつも向かい合うのではなく横に並んで食卓を囲んでいる。母さんが居た頃は親と子供が向かい合って食べていた。
大人二人で並ぶと狭そうだから母さんと父さんに離れて食べないのと聞いたことがあった。母さんは満面の笑みでお父さんにあーんってしてあげれない、と幸せそうに話していた。それを聞いて父さんは恥ずかしそうに顔を背けていたが、満更でもなさそうに口元が緩んでいたのを覚えている。
その当時の習慣が未だに消えることなく今でも色濃く残っていた。
そんな物思いに耽っていると美幸がちょんちょんと腕をつついてきた。
「そういえば、もうできてるの?」
「ん?なんの話だ」
「悠人ぉ、ほんとに忘れたの?」
美幸は頬を膨らませ、不機嫌な雰囲気を醸し出していた。
「絵だよ、絵!ちゃんと描けたの?」
「あぁ……絵か。それなんだけどな」
別に仕事でもないし、絶対にやらなければならないことでもないが、いつも見せてる時期に見せれなかったことから後ろめたさを感じていた。
「実はな、先月の時点でそれなりに形にはなってたんだよ」
「そうなの?」
美幸は自分で用意した食事を取りながら俺の話に耳を傾けていた。
「でも、何か欠けてるような物足りなさを感じて見せなかったんだよ」
「へぇ、そうだったんだぁ」
本当に聞いているのか怪しい気の抜けた返事だった。自分から話題を振ってきたのになんてマイペースなんだ。
「聞いてるか、美幸」
「きーてるよぉー」
やはり返ってくるのは気の抜けた声だけだった。描いてとお願いしたのはそっちだというのに。
美幸は機嫌がいいのかいつもよりも早く黙々と食事を進めていく。頬張る姿はとても満足そうだ。
美幸の姿を横目に俺も食べ始めようとすると味噌汁を飲み込んだ美幸がぽつぽつと話しかけてきた。
「それで、いつ見せてくれるの?」
「俺はいつでもいいけど……」
「じゃあ、あとで学校に向かいながら見せてもらおっかな」
「あ、そういえば今日から一緒だったな」
「そうだよぉ。もしかして忘れてた?」
「……まぁ」
母さんのことで頭がいっぱいだったからそんな事実を忘れていた。
「それにしても、よく受かったな」
はぐらかすように俺は話題を変えた。美幸は少しむくれていたが、そこまで気にしていないのか深追いはしてこなかった。
俺たちが通う高校は偏差値が高いわけではないが、決して低いわけでもない。なにより美幸は勉強が得意なほうではない。むしろ苦手の分野だろう。
「そりゃもう、いい先生が教えてくださいましたからねー」
そういう美幸はにやにやとしながらこっちに視線を向けてきた。
「ですよねー、悠人先生」
「……茶化すなよ」
別にそう呼ばれること自体は気にしないが普段とは違う呼び名に気恥ずかしい気持ちになる。
「照れてる?」
「やかましいわ」
「あはは!」
何がおもしろいのか美幸はけらけらと笑っていた。珍しく朝から元気な美幸に振り回されて少し気力を削がれたが、新学期で浮かれてると思うと微笑ましくもあった。
「でも」
徐々に登校時間が近づいてくるのを感じながら朝食を食べ進めていると美幸がぽつりと口を開く。
「楽しかったでしょ。教えるの」
そこにはさっき浮かべていたにやにやとした表情は影を潜め、柔和な眼差しを向けていた。
真っ直ぐすぎる温かなその視線に俺は思わず目を背けてしまう。
俺はこれ以上話すとまた弄られるように感じ、美幸が作ってくれた朝食を黙って頂くことにした。美幸もそれ以上は喋ることはせず、ただニコニコしながら食事を進めていった。
部屋を包む温かな空気と窓から入ってくるまだ少し肌寒い春風を感じながら、俺たちの緩やかな時間が流れていった。
時間に迫られながらも、俺たちは見慣れた道をゆったりと歩いていく。美幸は身体が小さい。必然的に俺たちの歩く速度は亀のようになってしまう。
以前、自分の身体が小さいことで悩みがあるのかと美幸に聞いたことがあった。すると、美幸は別に気にしていないと言っていた。何故、と聞いてみると美幸は「わたしが身長のことで悩んでるなら、自分の身長が高かったとしても悩んでると思うよ。わたしは小さいおかげでむしろいいことがあったから、悩みよりも神様に感謝したいぐらいだよ」と言っていた。その言葉を聞いたとき、ああ、美幸らしいなと思ったことを覚えている。
そんな美幸と慣れ親しんだ地元を歩いていく。別段珍しくない風景が今日は新学期ということもあってか、どこか新鮮に感じた。
「そういえば、どう?」
「どうって、何が?」
隣を歩く美幸が聞いてくる。スカートをはためかせながら俺を見詰める眼差しには何かを期待しているように感じた。
「制服。ちゃんと見るの初めてでしょ?」
美幸はよく制服が見えるようにその場でひらひらと舞ってみせる。
「変じゃない?」
「まぁ、大丈夫だろ。制服なんて全部一緒なんだからおかしなことにはならんだろうし」
そんな姿をまるで興味がないかのように振る舞い、ぶっきらぼうに応える。
きっと美幸はこんな言葉なんて望んでいないだろう。だが、もう少しこの会話を楽しんでいたかった。
「ねぇ悠人」
「なんだ?」
呼ばれた方に視線をやると、そこには不貞腐れたように美幸が立ち止まっていた。
「わたしね、朝からすっごいドキドキしてたんだよ。今日まで一回も見せなかった制服姿だし、悠人に見せたらどんな反応してくれるのかなぁってさ」
美幸は笑顔を浮かべていたが、その身に纏う雰囲気には穏やかさを全く感じられない。
「いつもより早起きして起きたら制服姿で驚くかなぁとか考えたり、ちょっと背伸びしてオシャレとかしちゃったり、それはもう浮かれてたわけですよ」
確かに、いわれてみればいつもより血色がいいように見える。
俺が気付かないだけで、きっと他にも見えない努力をしてきたんだろう。美幸はそういう娘だ。
「まぁ、今朝はいいんだよ。それどころじゃなかっただろうし、わたしだって気にしなかったよ」
早朝と聞いて少し恥ずかしくなった。あんなみっともない姿を晒してしまったことが、今更ながらとてもいたたまれない気持ちにさせる。
「でも、それも限界です」
「限界……」
美幸の言葉を自分の中で反芻させていた。
「そう!だってわたしから話振らないと、悠人全然褒めてくれないじゃん!」
そう言われて俺はどうしたものかと少し困った。
正直なところお互いこの会話にそれほど執着しておらず、いつものじゃれ合いでしかない。いや、褒めてほしいという美幸の主張は本心であろうが、その美幸自身このやり取りを楽しんでいる節がある。だからといって美幸の機嫌を損ねるのは俺としても不本意でしかない。
もちろん、今から「よく似合ってる」と言うこと自体は出来るが、果たしてこのタイミングで伝えるべきなのだろうか。美幸なら確かに喜んでくれるだろうが、もしかしたら俺に言わせてしまったと感じてしまうかもしれない。それならば、この場は御託を並べるのではなく、黙って美幸の言葉に耳を傾けるべきだろう。もはや俺は美幸に言うべき時を逃してしまっていた。どうすることも出来なくなった俺はただ口を閉ざす。
「なーんてね」
そんな中、美幸が一際明るい声を上げる。
「なに困った顔してるのさぁ。そんなに気にすることでもないでしょ?」
「いや、けどさ……」
何でもないかのように振る舞う美幸だったが、俺としてはどうしても確認しておきたいことがあった。
「褒めてほしいって言ってただろう?それってたぶん……」
「そうだね。確かに悠人に褒めてもらいたいっていうのは本当だよ」
「だったら」
「本当だけどさ」
俺が話し続けるのを遮るようにして美幸は言葉を続けた。
「いいんだよ、もう。わたしはさ、てっきりどうでもいいのかな、とか思ってたけど、さっきの困ってる悠人の姿を見れたから、わたしとしてはもう十分満足なわけですよ」
そんなことを真っ直ぐ言い放つ美幸を見て、得も言われぬものが俺を包み込んだ。
俺はまだ何も言っていない、そんなことでいいのか、他にも言ってやりたい言葉はあった。だが、そのような言葉は無粋なように思えた。そう感じさせるほど美幸は嬉しそうな表情を浮かべていた。
「ホントに似てきたな」
そんな美幸の姿を見ていて、俺は無意識にぼやいていた。
「似てきた?誰に似てきたの?」
自分のことだから気になるのか美幸が少し食い気味に聞いてくる。
「母さんだよ。雰囲気とかますます似てきたし」
「あー、なるほどね。そっかぁ、お母さんかぁ。それはちょっと嬉しいなぁ」
「ちょっとだけ?」
「うーん、嬉しいのは嬉しいんだけどね。ちょっと複雑なんだよ」
曖昧な表情を浮かべる美幸に俺は驚きを隠せなかった。
「へぇ、二人の仲って別に悪くなかったよな?」
昔の記憶を掘り起こしてみるものの母さんと美幸が険悪だった風景など一度たりとも目にした覚えがない。
「あはは、そんなわけないよ。これはただ、わたしが一方的に気にしてるだけだから」
「そうなんだ」
さらりと言ってのける美幸だったが、俺は普段見せない美幸の態度に意外さを感じていた。
品行方正、清廉潔白を体現するような美幸が母さんにそんな感情を抱いていたなんて想像もしていなかった。
「そ、それより、言ってたやつ早く見せてよ!持ってきてるでしょ?」
あまり美幸自身は触れられたくないことなのだろう。話を逸らすように別の話題を振ってきた。
「ああ、ちゃんと持ってきてるよ」
そう言うと俺は学生鞄の中から持ってきたスケッチブックを取り出した。歩きながらだと振動で中の物が少し散乱して掴みにくかったが、他よりも僅かに大きいスケッチブックはすぐに見つけることができた。
「おぉー」
学生鞄からスケッチブックを取り出すと美幸は何に対してかよくわからない感嘆の声をあげた。
「そんな感動するもんでもないだろ」
「そんなことないよ!少なくとも、わたしにとってはかけがいのないものだよ」
「はぁ、俺にはよくわからんが、とりあえず見るなら足元に気をつけろよ」
「はーい」
美幸はまだ慣れていないだろうローファーを履いて歩いてるから気をつけるように注意したが、返ってきたのは気の抜けた声だけだった。既に美幸はスケッチブックを開いて、新しく描かれたページに夢中になっていた。
俺はいつもより注意深く美幸を見ておこうと胸の中でそっと決意した。
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