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 俺は春が嫌いだ。中学生の時、俺たち兄妹と父さんを残して母さんは死んでしまった。まだ若く四十歳に達してすらいない母さんはいつも笑顔を絶やさない明るい人だった。傍に居ると何気ない日々が輝いていた。こんな毎日が続いていくと、漠然と無根拠に俺は幼心に信じていた。でも、そんな幸せで変わらないと思っていた日常は、変わっていないように母さんが振る舞っていたからだった。

 ある日、俺と妹が小学校から帰宅しドア前に立つと、俺は家の異変に気付いた。普段聞こえてくる物音が全く聞こえてこず、家に誰もいないと思えるほど静寂に包まれていた。

 ドアを開けると聞こえるいつもの声は、耳を澄ましても聞こえてこない。ここにあるのは、玄関で立ち尽くす俺と妹、外から届いてくる下校中の子供の声だけだった。俺は重苦しい空気の我が家に恐る恐る進んでいった。

 今まで感じたことがない不安を覚えながら自宅を進んでいくと、ダイニングで寝転んでいる母さんの姿があった。最初はただ寝ているだけだと思った。

 俺が暮らしている家は、両親の部屋と子供部屋を除けば他の部屋より少し広いダイニングぐらいしか休める場所がない。だからダイニングで身体を休めているだけなんだと、家事全般は母さんが全てこなしているから毎日の疲れから羽を伸ばしているだけなんだと、そう思った。

 だが、それとは別に俺の中では絶え間なく警鐘が鳴り響いていた。これ以上見てはいけない、そんな感性の絶叫が身の内から聞こえてきた。

「母さん?」

 俺はそんな心の叫びを振り切り、寝ている母さんの傍まで駆け寄った。

 近くで見た母さんの寝顔はとても静かだった。まるで死人だ。もうこのまま目覚めることがない、そんな気さえしてくる。

 こんなに穏やかに寝ているなら起こすのは躊躇われる。傍にいる美幸にどうしようか尋ねようと振り返る。

 だが、そこに立っていたのは俺の頭の中から母さんのことが霞んでしまうほど、血の気を失った美幸だった。

 俺は予想だにしていなかった美幸の反応にどうしたらいいのか分からなくなった。

 死人のように寝ている母さんと愕然と立ち尽くす美幸。

 何をするべきなのか、右往左往していると血の気の引いている美幸と目があった。大丈夫かと声を掛けようとする俺よりも早く、美幸は活動を再開した。

「大丈夫だよ」

 ぎゅっと俺の手を握ってくる華奢な手と、か細いながらも確かな声が耳に届いてくる。

 大丈夫とは何に対していっているのだろうか。母さんは眠っていて、俺は身体を怪我したわけでもない。

 しかし、俺が美幸の発した言葉の意味を理解するよりも早く状況は目まぐるしく変化していった。

 美幸は部屋に置いてある固定電話を手にするとどこかへ連絡を取り始めた。

 俺が状況を理解する前に程なくして父さんが帰ってくると、今まで見たことがない表情で母さんの元へと駆け出していった。救急車が来るまで父さんは絶望とも諦観ともつかない様子を浮かべながら、ただひたすらに自分の中から零れ落ちてしまわないように母さんのことを抱きしめ続けていた。

 この中で誰よりも幼い美幸はこの場で何をすべきなのか分かっているのに、俺は何もせずにただ案山子のように突っ立ているだけだった。現実逃避を繰り返し、問題に直視する強さを俺は持ち合わせていなかった。

 母さんの容態が判明するころには日は沈み始め、空は朝焼けへと変わろうとしていた。その間、病院の待合室にあるソファーに俺達はただ無力にも座っているだけだった。

 今頃、人々は夢を見ているというのに、俺たちはどうしようもない悪夢に襲われていた。体の中には毒のように不安が広がり続ける。この日を境に幸福な日々は崩れていった。



 太陽が輝き始まる前の明け方、母さんは過労と診断された。他の人達よりも体力が低く、虚弱体質な母さんは日々の疲れが溜まっていたんだろうと医者から伝えられた。

 母さんは過労なら十分の休息を取れば元気になる、と虚勢を張っていた。俺はその言葉に縋り、早く治るようにと、存在するのかも分からない神様に祈っていた。だがそんな祈りに意味はなく、俺の希望はいともたやすく踏みにじられた。

 母さんの身体は月日が経つにつれて確実に蝕まれていた。家で生活していた時より体力は低下していき、起きていられる時間も少しずつ減っていった。

 それでも、母さんは自分が苦しんでいることなんて微塵も感じさせないよう変わらぬ態度で俺たちと接していた。

「大丈夫だよ。お母さん、こう見えて結構丈夫なのです!」

 だから安心して、と小さな身体で虚勢を張り、自分は大丈夫と冗談交じりに言い張り続けた母さん。心配させないようにと、決して弱音なんてものを俺達の前で吐きはしなかった。

 俺はずっと傍にいたはずなのになにも知ろうとせず、ただ能天気に母さんの言葉を信じて疑わなかった。母さんがいなくなる、そんな未来から俺は目を逸らし続けた。いなくなるなんてことを俺には受け入れられなかったから。

 俺は少しずつ自分の感情の制御を失っていった。



 凍てつく気温に肌を刺すような冷気、一年が始まる新たな門出の季節が迫る厳冬の候、母さんは病室で静かに息を引き取った。ベッドに眠る母さんはもう今後、決して脈打つことなんてないのに、覚めない眠りにつく姿は今にも変わらず笑顔をむけてくれそうなほど綺麗な亡骸だった。

 降り積もる雪の中、白銀に染まる世界と共に、母さんはこの世からいなくなってしまった。俺にはまだ耳の奥に母さんの声が残っているのに、時間だけは無情にも過ぎていく。

 母さんの傍にいたいのに俺の意思とは無関係に桜舞い散る春がきてしまう。新しいことに心躍らせている人たちで街は溢れている。そのことがさらに俺の心を陰鬱とさせた。

 みんなは希望に向かって歩いているのに、俺はまだ立ち止まったまま動けずにいる。明日に向かう希望を失った俺に歩き続けろと脅迫するように桜が背中を押してくる。

 それでも俺は、未だに歩くことは出来ず、今もここで止まり続けている。




 俺は和室の二人部屋にある窓から見える桜並木を眺めながら昔のことを思い出していた。部屋のもう一人の主は既に起きているらしく、一枚の薄い襖の向こうから耳障りの良いリズムで包丁の音とそれに合わせた鼻歌が聞こえてくる。

 ああ、また新学期が始まる。今日から高校三年生になるが未だに実感が湧いてこない。代り映えしない日々を過ごしていくうちに気付けば将来のことについて否が応にも考えなくてはならなくなった。自分のやりたいことなんて何もないし、将来のことなんて想像すらできない。

「ゆうとー、朝だよー」

 名前を呼ばれ、俺の意識が現実に戻ってきた。襖の奥から明るい声が聞こえてくる。俺が起きる時間にはいつも父さんは家にいない。誰よりも早く家を出て、毎晩最後に帰宅する。家族揃って食卓を囲むなんて母さんが生きていた頃は当たり前だった風景なのに、今では週の大半は俺と妹の二人で食事することばかりになった。

 父さんが家族の為に休みを惜しんで働いてくれているのは理解しているし、感謝もしている。それでも心の何処かで、昔のように家族全員揃って過ごす時間が無くなっていることに寂しさや虚しさがこびりついて離れてくれなかった。

「お、珍しいね。悠人が朝から起きてるなんて」

 声の主は慣れた手つきで部屋の襖を開ける。

「たまにはそんな日もあるって」

 俺を呼んでいた人物。

「ふーん」

 どこか不満げに言葉をこぼしている、俺と人生の半分以上を共に過ごしてきた少女。

 家のことはすべて自分でやろうとするほど家事好きで、どんな時でも気が付けばいつも傍に居てくれた。

「まぁいいや。ほら、ご飯できるから早く出てきてね」

 俺と父さん、そして目の前に立つ妹の美幸。母さんを失った俺たち櫻井家の一員で俺のただ一人の妹。それが、櫻井美幸という少女だ。



 起こしに来てくれた美幸を連れ添って俺は部屋を出た。襖を開け、すぐそばにある家族全員でいつも食卓を囲んでいた長方形のちゃぶ台の前に座る。我が家は狭い。このちゃぶ台がダイニングの中心にあり、部屋のほとんどを占領していた。成長期の子供二人が過ごすには少し窮屈さを感じざるを得ない。

「ねえ」

 俺がちゃぶ台に置いてあるテレビのリモコンに手に取ろうとしていた時、美幸が朝食の配膳に取り掛かりながら話しかけてきた。

「なにかあったの?」

「急にどうした?」

 俺は朝起きたばかりなのにそんな真意が見えない唐突な質問をされるとは思わなかった。だってさ、と美幸は少し躊躇いながらも話を始めた。

「わたしが朝、部屋を見に行って悠人が起きてたことなんてほとんどないじゃん。いつも起こしに行っても悠人って寝たままだしさ。だから、なにかあったのかなって思って」

 美幸はすこし俯きながら聞いてきた。部屋を開けた時に俺が起きていたことが気掛かりらしい。何があったかまでは分からないが些細な変化で普段と違うと感じたようだ。

「別に…つまらないこと」

 俺は素っ気なく美幸に返した。

 母さんが亡くなったと知った時、美幸もその場に居た。その時、俺は母さんを失った喪失感と虚無感に飲み込まれ、他に意識が向けることが出来なかった。美幸がどんな表情で傍にいたのかは分からないが、家族を失って悲しかったはずだ。

 俺は今日から新学期だというのにわざわざ憂鬱な気分になる話題をするのは気が引けた。なによりも美幸は今日から憧れていた高校生になる。俺の個人的な願いとして美幸の高校生活の初日は明るく、楽しんでほしかった。だから自分で受け止めるしかない話題で朝から美幸を巻き込みたくなかった。

 だがそんな気遣いを見透かしているかのような表情を浮かべながら、美幸は俺の向かいに姿勢よく座る。かと思えば、そのまま俺の傍までゆっくり近づいてくる。

 何をするのかと思っているとそのまま俺の後ろに回り、優しく柔らかな感触と共に抱きしめてきた。美幸の細く、華奢な両手が肩から首元に伸びてくる。美幸は体重を俺にかけながら左肩に顎を置き、両腕を少しずつ力を加えて密着してきた。美幸の体温、息遣い、鼓動が五感を通して伝わってくる。

 力任せに引き離すことも出来るが、俺との体格差を考えれば美幸にケガをさせてしまいそうで躊躇われた。何より、俺を抱きしめている美幸は力いっぱいに抱擁するのではなく、傷ついた子供を癒すように優しく、慈愛に溢れた熱で包み込んでいた。触れてしまいそうな程近くにある美幸の微笑みをみて、温かく柔らかな抱擁はただ俺を癒すため、ということを感じずにはいられなかった。

「わたしにはさ、悠人がなにを感じてるかは分かんないけどさ。辛そうにしてる悠人を見てるのはいやなんだ」

「辛そう?俺が?」

 俺は美幸に指摘されるまで、自分がどんな表情をしているのかは気にも留めていなかった。

「そう。お母さんがいなくなってからそういう苦しそうにしてる悠人の顔、よく見るよ」

 俺は美幸の言葉を聞いて何も言えなくなってしまった。あまりにも図星過ぎて何かを言うことすらできなかった。母さんのこと思い出して気が沈んでいたとはいえ、あまり表情には出ていないつもりでいたから悟られることはないと思っていた。それを朝起きただけで見破られるなんて思ってもみなかった。

「わたしはね、悠人にそんな顔してほしくないの」

 ぽつりと静かな声で美幸は呟く。俺は頬が当たってしまいそうなほど近くにある美幸の顔を覗き込む。すると、美幸は柔らかな微笑みを向けた。美幸の抱きしめる力が少し強くなった気がした。

「だから、笑って。きっとお母さんもそれを望んでるはずだから」

 美幸は顔を見つめながら手で俺の頬を小石を摘まむ程の力で持ち上げた。どうやら笑顔を作っているらしい。

 俺は話すべきか迷った。自分のことで気を遣わせたくないと思う反面誰かに話したい思いもある。別にそれで解決しなくてもいい。ただ話すという行為で自分の気を紛らわしたかった。なにより美幸から伝わる純粋な気持ちを無下にするなんて選択肢、俺には存在しなかった。

「……美幸は母さんのことって思い出したりする?」

「お母さんのこと?そりゃあるよ。料理作ってる時とか、洗濯物畳んでる時とか」

 美幸は視線を窓の方に向け、どこか遠くに思いを馳せながら囁くように話し始めていった。

「でも、一番は悠人と話してるときかな」

「俺?どうして?」

 美幸の視線と絡み合う。とても穏やかな表情だった。

「お母さんが元気だった頃は悠人、よく笑ってたでしょ?」

 母さんが倒れたのは俺が小学六年生の時だった。帰宅したら母さんが倒れていたことは今でも記憶の奥底にこべりついている。それ以前、家族や友人と笑いあった日々が俺の中にはある。今思い返せば夢のような日常が確かにあった。

「わたしはさ、悠人が寂しそうにする度に力不足だなぁって思うよ」

 美幸の微笑みに僅かな陰りが生まれた。俺はこうなりたくなかったから話さなかったのに。分かってたのに自分の弱さを殺しきれず、美幸にまで苦痛を与えてしまった。自身の愚かさに嫌気がする。

「でも、わたしはそんな顔をする悠人のこと、素敵だなって思う」

 言葉の意味が飲み込めず思わず美幸の顔を見た。美幸は少し困った表情をしながらどう伝えようか考えているようだった。

「別に趣味が悪いとかそういうことじゃなくてね。寂しいってことは悠人の中にはまだお母さんが居続けてるってことでしょう?」

 吸い込まれそうな美幸の瞳が俺を突き刺す。揺れる眼差しからは俺には読み取ることが出来ない複雑に絡まった感情で乱れていた。

「他の人からしたらそんなことでいつまで悲しんでるんだ、ていう人もいるかもしれない。でもさ、わたしは無理しなくてもいいって思うよ」

 胸にすっと届いてくる聞き慣れた美幸の声。決して大きい声ではない。それでも、これほど心の奥底まで響き渡るものを俺は他に知らなかった。

「自分の気持ちに嘘ついて取り繕う人だって世の中にはいるけどさ。悠人はどれだけ苦しても、辛くても、向き合ってきたでしょう?時には一杯いっぱいで逃げだしちゃうことだってあったよ。でも絶対に目を背けなかった」

 身体を包む柔らかな温もりとは裏腹に、美幸の言葉に力強さが増していく。普段では片鱗すら感じ取れないほど美幸の凛々しい立ち振る舞いに俺は虚を突かれていた。向けられていた視線には――

「忘れてしまえば楽だし、ずっと生きやすいかもしれない。そんなこと分かってても、どうしたって忘れるなんてことが出来ない」

 溢れんばかりの慈しみに満ちていた。

「それはさ、悠人にとって失くしちゃいけない大切なものだからだよ。立ち止まったっていいじゃん。悠人がどんなに傷だらけでも、それでもいつか立ち上がって歩いていくこと。たぶんそれ自体が素敵なことなんじゃないかなってわたしは思うよ」

 うまく言えないけどね、と苦笑しながらも美幸なりの考え方を聞かせてくれた。

 現状がどれだけ辛くて、生きづらいとしてもそれ自体が悪いことではない。大事なのは『辛くても再び立ち上がって、踏み出すことなんだ』と美幸は語る。

 自分よりも年下の女の子に慰めてもらう姿は傍目から見たらきっとみっともなくて、情けないものに違いない。

 それでも俺が美幸の言葉にどれほど救われたかは他人には推し量ることもできないだろう。

 いつまでも過去のことに縛れたまま沈んでいたいなんて思っていない。向き合う苦しみと少しでも這い上がろうとする意志の狭間に俺は彷徨い続けている。

 そんな俺の背中を押すわけでもなく、見捨てることもせず、ただそっと心の拠り所で居てくれるこの小さな温もりは、俺が歩いていくなによりも支えになっていた。

「ありがとう、美幸」

 こんな脆弱な俺を今でも慕ってくれる献身に返せるものはないかもしれない。

 少なくとも今できるのは、たとえ空元気でも虚勢でもいい。せめて美幸が心から笑っていられるように、この瞬間だけでも気張ってみせること。

 俺は悟られないように俯いた。今朝、顔を見ただけで異変を見抜くほど美幸は俺に関しては鋭い洞察力を見せる。僅かでも安心させられるように、首から伸ばされていた美幸の華奢な両手を、優しく包み込むように握りしめる。

 いつまでもこのままではいられない。今日から学校だというのに初日から遅刻するのもよくない。俺はともかく新入生である美幸には同級生に与える印象が悪くなってしまうだろう。

 名残惜しさを感じながらも離れてほしいという意思を美幸の腕を優しく叩いて伝える。美幸も心得ているようで渋々ながらも抱擁を解いていく。

 身体に残る僅かな熱を感じながら、静止していた俺たちの朝はようやく進み始めた。


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