どうか、受け取って……
ことみ
何気ない一日
1
わたしはあの人を呪う必要があった。
そうするしか、わたしには他の方法が思いつかなかったから。
もしかしたらわたしのことを怒るかもしれない。
そのせいでもっと苦しむかもしれない。
それでも、どうかこれだけは覚えててほしかった。
あなたがどれだけ苦しく、つらい人生を歩むことになっても、あなたは生きるの。
それだけがわたしの望みだから。
教卓から荷物を持ち上げると担任の教師が出ていった。それを皮切りにクラスのあらゆる場所から喧騒の空気が舞い上がった。今日は学期始めということもあって授業というほどのことはなかった。本格的な高校三年生の生活は明日から始まるのだろう。それよりもクラスメイトは明日から始まる生活ではなく、午前中に終わり今から始まる放課後の時間に関心が向いているようだった。三年生ということもあり、既に見知った者同士でグループを形成していた。これからカラオケにでも行くのだろうか。
俺はそれらの集団を一瞥すると自分の荷物を持ち、席を立ちあがった。
「お、悠人。お前はクラスの奴らと遊びにいかんの?」
通り過ぎようと思っていたところを仁が呼び止める。
「俺はいいわ。別に話したいヤツなんていないし。それに今日は先約があるから」
「そうなん?」
声には出してないが仁の表情からは珍しいと感じているのが分かった。
「美幸だよ。朝に約束してたんだ」
「美幸ちゃんかぁ。先約があるならしゃあないか。せっかくなら転校生に挨拶でもしていくのかと思ってたけど」
仁は興味あるのかチラチラとその転校生なる存在がいるであろう場所をしきりに気にしている様子だった。
「んじゃ、またな」
そんな様子の仁を無視して下駄箱に向かう。待ち合わせ場所は正門から少し離れた食堂の休憩スペースだ。まだ放課後になったばかりのはずだから人の出入りは少ないだろう。それでも部活動をしている人の一定数やその他何人かは食堂で昼食を済ますはずだ。そうなると、いくら大人数が利用できる食堂といえど人で溢れかえってしまう。そうなる前に合流して学校を出ておきたかった。
俺は駆け足気味な歩みになっていることを自覚しながら目的地に向かっていると、後ろから追従する足音に気がついた。振り向くと荷物を抱えた仁がこっちに接近していた。
「なんでこっちに来たんだよ。転校生はいいのか?」
あれほど興味を示していたからてっきり話しかけるタイミングを計っていたのか思っていた。しかし、仁はそんな転校生には目もくれずに追いかけてきたということは、転校生を気にしていたのは俺の勘違いだったのか。
そう思っていたが回答は思いの外早く知ることが出来た。
「いやぁ、転校生には興味あったんだけどねぇ。やっぱ新しく入ってきた子がみんな気になるのか周りに人が多くてさ。面倒くさくなってやめたわ。どうせ同じクラスだし、いつか話せる機会があるだろ」
「それ話さないだろ……」
「そんなことないって!悠人じゃないんだから、オレにはちゃんと社交性が備わってるからな。気づいたら転校生とも仲良くなってるさ」
自慢げな表情を浮かべている仁に呆れながら、どうせ知らないところで接触を図ることは容易に想像できた。そんなことは俺にとってはどうでもいいことだし、口出すことでもない。ただ、俺に面倒ごとを持ち込まないでくれたらそれでよかった。
俺と仁は特に示し合わしたわけでもないが、付いてくることを特に咎めることでもないと考え、共に待ち合わせ場所に向かうことになった。
下駄箱で靴を履き替え外に出ると、春の温かな日差しと心地よい風が俺たちを出迎えてくれた。目的地はそう遠くない場所にあるため早速美幸を探し始めることにした。幸いまだ人で溢れかえる前だったため、食堂の備え付けられている休憩スペースのベンチに座っていた美幸を直ぐに見つけることが出来た。どうやら友達の沙希ちゃんと話をしていたみたいだった。
二人とも綺麗な長髪がよく目立つが、美幸がストレートに対して沙希ちゃんは後ろで結んでいるのが印象的だ。二人の会話は弾んでいるようで時折ふわりと笑顔を浮かべたり、なんとも微笑ましい光景だった。
俺たちが近づいてくるのに気が付いたのか、美幸は手を振って応えてくれていた。
「悪い、美幸。待った?」
「そんなことないよ。それに待ってる間は沙希ちゃんが話し相手になってくれてたから楽しかったし」
そう言われて嬉しいのか美幸の隣に座っていた沙希ちゃんは照れ臭そうに視線をせわしなく動かしていた。
「そっか。じゃあ、沙希ちゃんにもお礼を言わないとな」
感謝の意を伝えようと俺は沙希ちゃんに向けると、先程までの優しい雰囲気が消え去り、沙希ちゃんの機嫌が悪くなる。
「いえ、別にお兄さんにお礼を言われるためにあたしはユキちゃんと一緒にいるわけではないので、感謝なんていりません」
返ってきたのは冷たい言葉だった。そんな沙希ちゃんに美幸は困った表情を浮かべていた。
「そんな邪険にしないであげて。悠人がなにか沙希ちゃんが嫌がるようなことしたの?」
「そういうわけじゃないけど……」
美幸が悲しげな表情を浮かべると今度は沙希ちゃんが困った様子だった。そんなやり取りを見ていた仁はにやにやとした顔で俺の腕を小突いてきた。
「なんだぁ。悠人はこのサキちゃん?って娘に嫌われてるのか?」
「どうなんだろ。別に嫌われるようなことをした覚えなんてないんだけどな……」
そもそも美幸がいない場所で沙希ちゃんと一緒になることなんてないから、決して接点が多いわけじゃない。それでも出会って間もない頃は屈託ない笑顔を向けてくれていた。あの頃を思うと今では避けられている現状が少し物寂しい気持ちになる。
「まぁ悠人のことはいいや。それより、オレのこと紹介してくれよ」
俺が感傷に浸りそうになっていたところをお構いなしに仁が図々しく頼んできた。相変わらず自由に振る舞う仁に清々しさを覚えたが、それでもやはりこいつにはなぜか人間性が欠如しているように感じてしまう。
「わざわざ俺が紹介する必要あるか?いつもみたいに絡みに行けばいいだろ」
「そうするより悠人から紹介してもらった方が印象いいだろ。せっかく悠人がいるんだから使わないと損じゃん?」
まるで名案とばかりに言い放つ仁に煩わしさを感じながらも、仁が言ってることも一理あると思い直した。俺がいいように使われているような気がするが、仕方なく沙希ちゃんに仁を紹介することにした。
「沙希ちゃん。ちょっといいかな」
「なんですか?」
先程は不機嫌だったが、仁と話してる間に美幸に宥められたのか拒絶するような雰囲気はなかった。沙希ちゃんが耳を貸してくれそうなことに胸を撫で下ろすと、仁を紹介することにした。
「本当は不本意なんだけど、紹介しないとうるさいヤツがいるからさ。いいかな?」
「はぁ……」
あまり興味なさそうだったが仁に頼まれたこともあり、とりあえず言われた通りにすることにした。紹介しないと面倒なことになるのは目に見えている。
「こいつ、仁って言うんだけど。どういうわけか沙希ちゃんと話したいらしい。変なヤツだけど、まぁ仲良くしてやってくれ」
いい加減な紹介に仁が一瞬噛みついてきそうだったが、沙希ちゃんと美幸の前ということもあってか自重して、いかにも人当たりがよさそうな笑みを浮かべていた。
「どうも、沙希ちゃん。悠人のいう変なヤツでーす。よろしくね」
さすがと言うべきか。俺の適当な紹介を上手く利用して自分のペースに持っていった。特に目立った紹介ではないが咎めることもない、当たり障りない挨拶だった。
ただ、そんな平凡な仁の挨拶に対して沙希ちゃんが露骨に嫌そうな表情を浮かべていた。ただ、その表情は俺の時とは全く異なる系統のように感じた。
「なんですか、この人」
沙希ちゃんは仁に直接聞かず俺に聞いてきた。その態度から余程仁と関わりたくないということは誰の目から見ても明らかだった。
「そう嫌わないであげてくれ。善人ってわけじゃないけど悪人ってわけでもじゃないから」
一応紹介した張本人として仁のフォローはしておく。それを聞いた仁は大袈裟に喜んで見せた。
「おぉ!あの悠人がオレを助けてくれるなんて、今世紀最大の驚きだわぁ」
仁の過言な物言いに鬱陶しさを感じていると、俺と同じように沙希ちゃんも嫌悪感を感じたのか美幸に抱き着いていた。抱きしめられた美幸は身長の差もあってか僅かにくすぐったそうにしていた。
「あたし、この人と上手くいく気がしません」
「へぇ、本人の目の前でよく言うねぇ。なにか嫌われるようなことしたかな?」
「いえ、なにもしてませんよ」
「じゃあどうしてかな」
まるで詰め寄るような仁に沙希ちゃんはきっぱりと言い放った。
「あなたの人間性が好きになれないんですよ。だってあなた、人のことどうでもいいと思ってますよね」
およそ初対面で言うべきではないことを沙希ちゃんは堂々と言い切った。だが、そんな言葉を受けた仁は怯むどころか面白そうに口元を歪めていた。まるで新しい玩具を見つけたかのような表情を浮かべた仁だったが、それより先に美幸が沙希ちゃんに反応した。
「やっぱり、沙希ちゃんはすごいね。それも感覚的に分かったの?」
「うん。それよりユキちゃんもこの人と知り合いなの?」
「そうだよ」
沙希ちゃんの質問に美幸が頷いてみせると、抱きしめていた美幸に沙希ちゃんは言い聞かせるように強く告げた。
「絶対関わらないほうがいいって!この人、平気で嘘ついたりするから信用できないよ!」
「あー確かにそうだね。ホントなに考えてるのかよくわかんないんだよね」
沙希ちゃんの言葉に美幸が同意する。その言葉を聞いた沙希ちゃんは少し混乱した様子を見せた。
俺は絶賛話題に上がっている仁の方に視線を向ける。好き勝手言われている本人は別段気にした様子はなく、むしろ面白がってるようにも見えた。
「いいのか?散々言われたい放題だけど」
「いいんじゃない?実際、否定するものもないしな。それにこのままの方が面白そうなことになりそうだろ?」
仁はこの現状を心底楽しんでいた。その神経に俺は感心を覚えていると、どうやら美幸達の方に進展があった。
「ねぇユキちゃん、この人と仲良くするのはやめといた方がいいと思うよ?」
沙希ちゃんはどうしても仁のことが受け入れられないらしい。ただ、沙希ちゃんの気持ちも理解できる。それほど仁という人間は胡散臭さが纏わりついていた。
美幸は沙希ちゃんの話を黙って聞いていると今度は美幸が沙希ちゃんをあやすように抱きしめ返した。
「沙希ちゃんの言いたいこと、わかるよ。それにすごく心配してくれてることもちゃんと伝わってるから」
「だったら!」
「でもね。こんな仁さんでも一つだけ確かなことがあるの」
そういう美幸には仁に対して絶対的な確信を持っているようだった。その答えを仁は待ちわびているように感じた。
「沙希ちゃんの言う通り仁さんって人に対してどうでもいいって思ってる部分はあると思うよ。きっと誰かが亡くなっても平気で笑い飛ばすようなひどい人なんだよ」
仁は期待していた答えとは違ったのか、明らかに気落ちしていた。
「でも、本当は仁さんって人のことが大好きなんだよ。そうじゃなきゃわざわざ沙希ちゃんに挨拶なんてしないでしょ?」
美幸が優しい声色で沙希ちゃんに伝える。相手が美幸ということもあってか沙希ちゃんは大人しく話を聞いていた。
「仁さんは人のことなんてどうでもいいと思ってながら人のことが大好きっていう矛盾した人なんだよ」
「なに、それ。意味わかんないよ……」
「そうだね。でも、人なんてどこかおかしいものじゃない?そう考えると仁さんって分かりやすいよ。だって面白ければなんでもいいと思ってるだけだからね」
「ユキちゃんもおかしいの?」
「きっとね。でもそれでいいんだよ。人にはいろんな一面があるんだからさ」
一通り話し終えた美幸は沙希ちゃんと向かい合った。
「いつも気苦労かけてごめんね。でも、必要なことだって思ったの」
「……ユキちゃんはそれでいいの?」
「わたしはそう信じてるよ」
美幸の返事を聞いた沙希ちゃんは決意が固いことを知ると、説得を諦めたようだった。沙希ちゃんは美幸から離れると仁の傍まで重い足取りながら歩いてくる。納得をしたわけでは決してないだろうがそれでも美幸の意思を汲み取ることにした様子だった。
「鷹野沙希です。言っときますけど、ユキちゃんを悲しませたりしたら殺しますから」
物騒な言葉を残していくとすぐさま沙希ちゃんは美幸の元へと戻っていった。
「沙希ちゃんに嫌われたな、仁」
「それは悠人もじゃん。よかったなぁ、オレと同類だぜ」
「お兄さんは違いますよ」
仁の言葉を美幸の傍に居た沙希ちゃんが即座に否定した。俺と仁はどういうことか気になり、沙希ちゃんの方に視線をやった。仁が沙希ちゃんに向けて疑問を投げかける。
「でも、悠人のこと避けてたよね?それともオレの勘違いかな?」
「勝手に決めつけないでください。あたしは別にお兄さんのこと、嫌いじゃありませんよ」
沙希ちゃんはさっきまでの強気な物言いとは打って変わって、柔らかな雰囲気を漂わせながら教えてくれた。俺の中にあったやるせない気持ちが沙希ちゃんの言葉で少し和らいでいく。てっきり嫌われているのかと思っていたがどうやらそうでもないらしい。出会うことが少ないとはいえ美幸の友達である沙希ちゃんとは仲良くしたいと思っていたし、実際出会った当初の関係は良好だった。それが気付けばどこか距離を置くようになり、沙希ちゃんに対して寂しさを感じていた。
「じゃあどうしてあんな態度を取ってるの?」
仁は純粋に気になったのか沙希ちゃんに問いかける。俺が聞こうとしたことでもあった疑問だったため気持ちがはやるのを自覚した。しかし、沙希ちゃんから答えは返ってこず、ただ美幸を見つめたまま複雑そうな表情を浮かべていた。美幸は沙希ちゃんの言いたいことを理解してるのか何度も首を振っていた。そんな二人の間に仁は迷わず首を突っ込んでいった。
「なにか言えないようなことでもあるの?」
「……女の子同士の秘密です。それにあなたには関係ないことですよ」
そういうと沙希ちゃんは再び美幸を抱きしめていた。しかし、さっきの抱擁よりもどこか感情的で何かに耐えているようにも見えた。力強く抱きしめていた沙希ちゃんの表情は立ち位置的に見づらかったが、僅かに覗かせた顔色には悲しみが刻まれていた。美幸はそんな沙希ちゃんを慰めるような眼差しで見つめながら、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
俺と仁は納得できるような答えを得られなかったが、今はこれ以上追及できる様子ではなかったため二人を見守ることにした。
「えっと、とりあえずここから離れよっか」
数分もしないうちにそう美幸が話しを切り出した。気付けば食堂に向かってくる生徒の数が増えている。初めてということもあってか一年生の姿が多く見られた。
「そうだな。ここに居ても仕方ないし」
俺も美幸の意向に賛同する。
「んじゃ、移動するかぁ」
この気まずくなった空気を断ち切るため、仁の号令を合図に俺たちはベンチから離れ、先に歩く仁の後を追うようにして校門に向かった。
「で、これからどうすんの?」
校門を抜けた先で仁が全員の今後の予定を聞いてきた。
「あたしは特に予定はないので、このまま家に帰ろうと思ってます」
「え、マジで。じゃあこれからみんなでどっか行かない?」
「行くわけないじゃないですか」
仁の言葉に真っ先に反応を示したのは沙希ちゃんだった。さっきのこともあってか仁に対して歩み寄ろうとする姿勢を見せたが、逆に仁の方から踏み込んでくると沙希ちゃんは突き放していた。そもそも今日が初対面なこともあって、現状では距離感を掴みかねているようだった。
「それより、ユキちゃんは?お兄さんと約束してたみたいだけど」
「約束って言っても一緒に買い物をしに行くだけなんだけどね」
「いいねぇ。オレ、沙希ちゃんに振られちゃったから二人に付いていくわ」
美幸と俺が買い物に行くことを知ると、仁は便乗するように同行を名乗り出た。だが、そんな安直な思い付きは沙希ちゃんによって容易く打ち砕かれる。
「そんなのダメに決まってるじゃないですか!」
「でもちょうど良くない?」
「ダメです。せっかく兄妹で仲良く約束してたんですから、部外者が邪魔しないでください。そんなこと考えるならあたしと遊びに行きますよ!」
「え、ちょ、ちょっと待って!君、強引すぎるでしょ!」
「では、あたしたちはこれで。またね、ユキちゃん」
仁が沙希ちゃんに引きずられたまま、二人は俺たちが向かう逆の道に消えていった。俺と美幸は顔を見合わせると思わず二人して笑いだしてしまった。
「珍しいな、仁があんな風に振り回されるなんて」
「ホントだよねー。二人共、仲良くやれるかなぁ」
「仁がいるなら最悪なことにはならないんじゃないか。沙希ちゃんには嫌われてたみたいだけど」
「あはは、確かにね。でも大丈夫かな、沙希ちゃんがあんなに人のことを嫌がってるの初めて見たよ」
既に二人の姿はなく、街を行き交う人々の波に流されている。美幸は心配そうな表情を浮かべながら二人が消えていった方角を見つめていた。俺は美幸の気を逸らすため、本題に入ることにした。
「まぁ気にしても仕方ないし、俺たちも行こうぜ。まだ食べてないからさすがに腹が減ってきそうだわ」
「そうだね。せっかく沙希ちゃんが気を利かせてくれたんだから、わたし達も帰ろっか」
俺が歩き始めると美幸も後に続いた。俺は美幸に向かって手を伸ばす。
「ほら」
両手で持ってる学生鞄を渡してほしいという意図で伸ばしたつもりだったが、俺の思惑とは裏腹に美幸はすぐさま学生鞄を片手に持つと空いた片方で俺の差し出した手を握り始めた。美幸の行動に対して俺は思わず口を挟んだ。
「なんでそうなるんだよ」
「え、違うの?」
「俺は鞄を渡してほしかったんだけどな」
「あ、あはは、なるほどね。でも今日は授業があったわけじゃないから持ってもらわなくても大丈夫だよ」
恥ずかしそうに笑った後、美幸は苦ではないことを示すために学生鞄を持ち上げて見せた。確かにその軽やかさからは然程負担にはなっていないように感じた。
「それに、わたしは悠人と手を繋いで歩くの好きだよ」
美幸は嬉しいのか絶えず微笑みを向けてくる。
「隙あらばすぐ手を繋いでこようとするよな」
「いいじゃん。別に嫌いなわけじゃないでしょ?」
「まぁ気にしてないからな」
俺としては進んで繋ぎたいわけではないが、こんなことで美幸が喜んでくれるなら断る理由もなかった。美幸には悲しみではなくいつも笑っていてほしかった。
「でも、なんでそんな手を繋ぎたがるわけ?」
「え、覚えてないの?わたしが中学生の時に教えたよ。悠人は高校生だったかな」
そう言われ記憶を掘り返してみたが、思い当たる節がなかった。美幸とは一緒にいる時間が長いこともあって数えきれないほど話をしてきた。
日常の他愛も無い会話、お互いの好き嫌い、困りごとの相談。
俺一人だけではなく美幸と共に人生を歩んできた。その中の全てを覚えていることは出来ない。人間は誰しも大切な思い出もそうじゃない記憶も忘れていってしまう。それでも、俺にとって美幸と過ごしたありとあらゆるものはかけがえのない記憶だ。たとえ他人からしたらちっぽけなような記憶だとしても、忘れてしまっていることが俺の胸を締め付けた。
「……いや、ごめん。教えてくれたような気がするけど、思い出せんわ」
出来るだけ深刻にならないように軽い口調で言うつもりだったが、吐き出された声は予想よりも重く、覇気のないものだった。美幸はそのことに対して怒ることも責めることもしなかった。ただ一瞬悲しげな表情を浮かべた後、何でもないかのように笑顔を見せた。美幸に不要な気遣いをさせてしまい俺は自己嫌悪していた。
美幸は恥ずかしそうに髪を弄りながら話してくれる。
「じゃあ、また教えてあげるね。今度は忘れないでよ」
「ああ、分かった」
俺の言葉に笑顔を返すと、美幸は一つ深呼吸を挟みながら繋いでいた手を撫でるように確かめていた。美幸の行動で俺の意識が繋いだ手に向くと耳に囁くような声が届いてきた。
「こうやって手を繋いで歩くとさ、悠人の存在を感じられるんだよね」
「別にわざわざ手を繋がなくても俺は存在するだろ。だからこうやって話が出来るわけだし」
「まぁそうなんだけどね」
美幸は肯定するが歯切れが悪い。俺は美幸の態度から他にも理由があることを察すると、それ以上言わず次の言葉を待つことにした。
「……でも、やっぱり言葉だけじゃなくて、こうやって肌と肌が触れることに意味があると思うんだよね。ただ二人で同じものを見るんじゃなくて、手を繋いで一緒に見ることでしか感じないものがあるんだよ」
柔らかな眼差しを宿しながら囁く美幸の声が、俺の心に自然と優しく響き渡る。
美幸が言わんとしていることは分かる。根拠は持ち合わせていないが、それはきっと美幸と同じ感覚のような気がした。
「それにこうやって何かを感じられるのは、わたし達が生きてるからでしょ?」
「……そうだな」
「わたしはこういう小さなことも大事にしたいんだよ」
俺はそう語る美幸の姿に母さんの面影を感じた。今生きてることを愛おしげに語る姿が俺の心を搔き乱す。美幸と母さんは違うし、不安を感じる必要などない。そう言い聞かせ平静を装いながら、俺は思わず繋いだ手に力がこもった。
美幸がそれに反応する前に、俺は誤魔化す。
「そっか。ありがとな、また教えてくれて」
そう言ってから俺は美幸が話す間を置かず、立て続けに言葉を紡いだ。
「とりあえず商店街に行って、魚屋のおっちゃんに会いに行こうぜ。美幸が合格したの聞いて喜んでくれてたから、制服姿を見せたらビックリするだろうな」
不自然な俺に一瞬視線を向けた美幸だったが、俺の表情から何か感じ取ったのかそれ以上理由の話はしなかった。
「そうだね。龍次郎さん、どんな反応するかなぁ」
「大丈夫だって。美幸の制服姿、よく似合ってるよ。だから安心しろ」
美幸が驚いた顔をした後、その表情は瞬く間に輝き不安を吹き飛ばすほど歓喜で満たされていた。
「えぇ!?このタイミングで言うの?あ、もしかして今朝のこと気にしてくれてたの?」
「……まぁな。あの時は言いそびれちゃったから、今まで言うタイミングを探してたんだよ」
「えへへ、そっかぁ。ありがとね、わざわざ伝えてくれて。嬉しいよ、ほんとに」
俺の言葉がちゃんと届いたことに満足していると、美幸は俺との距離を詰めてきた。元から手を繋いでいて近かった間合いが肩が触れるほどになった。美幸の甘い香りが俺の鼻孔を通り抜ける。
「ねぇ、今日あったこと、聞かせて」
「いいけど、特に何もないぞ」
「いいよ、悠人の話が聞きたいから、話してくれるならどんな内容でもわたしは嬉しい」
「そうか。じゃあ、そうだなぁ」
美幸の言葉を受けて、今日の軌跡をたどるため、桜舞い散る街並みを眺めながら俺は目覚めてからのことを思い返した。
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