4-3 熱に埋もれる
きらりと笑い返してくれたネイレが、皮付きの芋を盛った大皿を食卓にどかんと置いた。チャミンは暖炉で火にかけた鍋から、何かを深皿によそっている。ドゥイルとジンがチャミンから皿を受け取って運んできてくれる。ウルカはぼんやりと突っ立ってしまっていた。
「これは名無し料理だよ」
チャミンが言った。深皿の中は、角が取れてほっくりとやわらかそうな人参と、とろけた豆の煮込み料理だった。ほかほかと湯気の立つ素朴な料理は、なんだかとてもまばゆくて、息が詰まった。
ウルカが皿を見つめているあいだに、みんな席についていた。ジンはドゥイルが持ってきてくれた追加の椅子に座っている。ドゥイルの隣が空いていた。
「どうぞ」
ドゥイルが椅子を示して言ってくれる。ウルカはうなずいて椅子に座った。向かいにはネイレがいて、うれしそうににこりと笑ってくれた。
五人でクェパさまに祈りを捧げると、ジンがさっそく芋を手に取った。素早いなとおもっていると、ジンはそれをウルカに差し出した。ウルカは固まってしまった。
「おいしいよ」
ジンの声で我に返って、用意してくれていた皿を差し出して受け取る。ころりとした重みを感じた。
「ありがとう」
芋を見つめながら言うと、ジンはうん、となんでもなさそうな返事をした。ウルカはあたたかい芋を手に取った。撫でると、するりと皮がむけた。中身は黄金色で、半分に割るとほくりとした手ごたえと一緒に、白い湯気がふわっと立ちのぼる。ひとくち食べたら鼻の奥がつんとして、あわてて芋を皿に置いた。
「おいしいです」
ウルカは言った。
「よかった!」
ネイレが芋の皮をむきながら微笑む。ウルカはゆっくり深く息をして、匙を手に取った。大きめに切られて煮崩れかけた人参に、すっと匙が入った。やわらかい。あたたかい。いい匂いがする。喉がふさがって、ウルカは唇をかんだ。
「ウルカちゃん」
ネイレがはっとしたように言った。
「だいじょうぶ?」
ウルカは焦った。いきなり訪ねてきた迷惑客が、突如として食卓で泣き始めるなんて、それはもう災厄と言っていい。
でも、こらえきれなかった。もう戻れないのに。変わってしまったのに。死に損なって、置いてきて。人を傷つけて。命まで奪われても見ないふりをしていたのに。だからもう、人じゃないのに。人間でないならそれらしく存在しようとおもって、全部どうでもいいって、誰もわたしに触るなって、考えていた。でも本当は、ひとりは嫌だった。心細くて砕けそうだった。本当に触れられたくなければ、なんでもない顔をして生きるか消えちまうかすればいいのだ。それはできなかった。本当は助けてほしいから、やさぐれた態度をとっていた。そう気づいてしまって、だからもう何気ないふうにひとりで生きていこうとおもった。でも、やっぱり無理なんだ。
わたしは、ひとりじゃ生きられないんだ。
嫌いだとおもった。こんな、態度の一貫しない面倒くさいやつなんか嫌いだ。吐き気がする。泣くしかなくなる。
でも、それだけじゃなかった。支えられて包み込まれて、なんて尊いんだろうとおもった。こんなふうになれたらいいのにと淡く願っていた。素直に喜びを感じていた。心地よくて、ずっと手放したくなかった。
胸の悪くなる嫌悪と震えるような感動と、あまやかな歓喜が混ざり合いながら湧き上がってきて、涙が止まらない。
「ごめんなさい……」
ウルカは深く頭を垂れて謝った。膝の上にぽたぽたと涙が落ちた。
「こんな、泣くつもりは……」
「ウルカちゃん」
ふわりと包まれる。ネイレが向かい側からそばに来て抱きしめてくれていた。
「謝らなくていいよ」
ネイレはやさしい声で、きっぱりと言った。
「人間は泣くものだよ」
みんな静かに見守ってくれているのがわかった。ひどい。自分がこんなきれいな人たちと同じ空間にいるなんてありえない。でもネイレの腕の中はあたたかくて、人間に戻ったような気になれてしまう。心が勝手に震えて、震えすぎて苦しい。涙が追いつかない。
「いいよウルカ」
ジンの声が聞こえた。とても穏やかだった。
「何も考えないで」
ウルカはネイレの腕にすがっていた。
***
今日は泣きすぎた。頭が痛くてぼうっとする。抜け殻のようになったウルカは、目の前に用意してもらった薬草茶の器を見つめていた。緑がかった琥珀色の薬草茶の香りは、ウルカをいたわってくれているようだった。ジンが大きな瓶の蓋を開けながら言った。
「蜂蜜入れたらおいしいんだよ」
ウルカはうなずいた。ドゥイルはさっき、薬草茶の器を持って二階の部屋に上がっていった。チャミンとネイレはどこかに行ってしまって、食卓についているのはジンとウルカだけになっている。ウルカの斜め向かいに座ったジンは、瓶に匙を突っ込んで白くかたまった蜂蜜をたっぷりすくいとり、ウルカの前の器に入れてとかしてくれた。
「ありがとう」
ウルカはつぶやいた。声ががらがらしていて、自分でもびっくりした。ジンがふっと笑った。
「お茶飲むといいよ。たぶん喉にもいいとおもう」
ウルカはそっと器に触れた。熱いけれど、離したくないなとおもった。ふと見ると、ジンは黙って薬草茶を飲んでいた。
海と大地がとけあうさなかのようなふしぎな色の瞳は、軽く伏せられた睫毛とまぶたに隠れてよく見えない。黒に近い濃い色の髪が額にかかって、顔に薄くて確かな陰を落としている。おどけた明るい笑みで緩みがちな唇は、今は静かに閉ざされていた。器を包む手は筋張って、荒れている。
「ウルカ?」
ジンの声に、ウルカは飛び上がった。ジンのことをじっと見てしまっていたようだ。頭の中まで腫れぼったくなっていたから、無意識だった。
「ごめん、そんなにびっくりするとおもわなかった」
ウルカはぶんぶんと首を振った。
「いや、なんか見てるのかなとおもって。用があったら呼んでくれていいよ」
ウルカはまた首を横に振って見せた。特に用事があったわけではない。たぶん。無言で否定を続けるウルカを見て、ジンは笑っていた。
「用がなくてもいいし」
そうさらりと付け加えた。ウルカはなんともこたえを返せず、とりあえず薬草茶をひとくち飲んだ。ほんのりとしたあまさとなよやかな香りが、動揺したウルカをなだめてくれる。そこへ、弾むような足音を立ててネイレが戻ってきた。
「ウルカちゃん、部屋の用意できたからね!」
ネイレはさえずるように言った。うしろからチャミンも出てくる。
「狭い部屋だけどね」
ウルカは意味がわからずふたりを見つめた。しばらくして、やっと理解したウルカは椅子から転がるように立ち上がった。
「だいじょうぶです! もうおいとましますので!」
かれてしまった声でウルカは叫んだ。このふたりはウルカを泊めてくれる気である。そしてそうさせたのはウルカだ。好き勝手泣き散らかしたうえにぼんやり座っていた。いったいこいつはいつ帰るのだろうという感じだ。するとネイレが、きょとんと首をかしげた。
「えっ? もし迷惑なら帰ってもいいんだけど。でももう遅いし、泊まっていったほうがいいよ。部屋も布団もあるんだもん」
ウルカは絶句した。
「ありがとうございます」
ジンがのんきな調子でお礼を言った。
***
通された部屋の寝台には、布団がたくさん積み上げてあった。寒いから風邪をひかないようにと、チャミンとネイレが用意してくれたのだ。下宿屋なので布団はたくさんあるんだと言っていたけれど、そんなにたくさん出すのは手間だろうに。こんもりと山になった布団を押して、その横に腰かけた。寄りかかると、布団の山はウルカの身体をしっかり支えてくれた。
両隣はドゥイルとジンの部屋らしい。向かい側の部屋にはチャミンとネイレがいる。夢なのかなと、まだおもう。でもこれは、現実に起こっていることだ。ウルカは目を閉じた。
勝手に涙が出てくる。また泣いている。ぐらぐらした自分にあきれてしまう。でも、今流れてきているのは透明な、さらりとした涙だった。ぐちゃぐちゃで、どろどろしたものは、今日のぶんはもう全部出してしまった。だからもう、苦しくはない。
あたたかくて飾り気のない料理と、蜂蜜たっぷりの薬草茶と、踊る暖炉の火と、壁にぶらさがって見守っているぬいぐるみたちと。ネイレの朗らかな笑い声と、チャミンのにじみ出るやさしさと、ドゥイルのさりげない気遣いと、ジンの穏やかな声に。ありがとう、とウルカはつぶやいていた。すべてがきらめいて眩しかった。きっとこれが、本当はずっと欲しかった、救いなのだとおもった。
今日は、自分で肩を叩かなくてもいい。ネイレがしっかり抱きしめてくれたから、だいじょうぶだ。それから。
ウルカは目を開けた。自分の肩に触れて、腕と頬に触れて、ぎゅっと両手を握りこんだ。
ジンが包み込んでくれたとき、身体じゅうに、ジンの声が染み込む気がした。言葉を発するたびにジンの身体が細かく震えるのがわかって、ウルカはその揺らぎに共鳴していた。
ウルカはかかえた膝に顔をうずめた。その姿勢もすぐにやめて足を投げ出した。安らいだ気持ちのはずなのに、そわそわと落ち着かなくなっている。立ち上がって、また座ってと何度か繰り返した。誰かが見ていたら絶対に、挙動不審だとおもうだろう。おかしいのはわたしだ、とウルカはおもった。今日は慣れないことが、ひさしぶりのことが多すぎて、心が揺れすぎて涙が出すぎて、だいぶおかしくなっている。
もう、つべこべと考えずにこのありがたい布団で寝させてもらうのがいいかもしれない。ウルカは布団の山の中から三枚ほど掴んで、引きかぶった。すると山が倒れ掛かってきた。重たいとおもったけれど、その重みは心地よかった。ずっしりとしたぬくもりに安心して、ウルカは眠りに落ちていった。
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