4. 夢境に覚める

4-1 深淵を跨ぐ

 「また来たの?」

 路地に入ると、毛布を頭からかぶって壁にもたれていた女の子に言われた。同じ毛布にくるまった小さな妹も毛布から顔をのぞかせ、くりくりした目でジンを見ている。足元には焚火の跡があって、薄暗い奥のほうでは壁をさかんに蹴っている人がいた。今日も酒場から、笑い声が聞こえてくる。

 ジンがウルカの店に行くために毎日路地裏に入るようになってから、そこに集まる人は減っていた。迫害して、追い出したような気がした。

 「うん、また来た」

 ジンは笑ってこたえた。

 「でも鍵、閉まってるんでしょ?」

 女の子はあきれたように言う。

 「うん、閉まってる」

 「中にいるのに開けてくれないんでしょ。絶対嫌われてるよ。すっごく嫌いなんだよ」

 そのとおりだ。

 「そうだな、嫌われてる」

 昨日は、ずいぶんいろいろと言われたし。でも全部、まっとうな意見だと思った。

 「じゃあなんで来るの?」

 女の子は眉をひそめている。妹は無垢な瞳でジンをじっと見ていた。

 「好きなんだよ」

 ジンは間髪入れずにそうこたえておいた。

 「ふうん」

 女の子はつまらなさそうな声を出した。

 「行こうか。ご飯の時間だ」

 妹の手を取って、路地の奥へ入っていく。壁と戦っていた人は、ふたりが通るときには道をあけていた。妹のほうは姉に手を引かれながらジンのほうをずっと見ている。ジンが手を振ると、照れくさそうに目をそらした。

 ふたりの背中が見えなくなると、ジンは地下へと続く階段の前に立った。今日は、聖殿に寄るのもすっぽかして走ってきた。いつもより早い。まだ鍵が閉まっていないかもしれない。こんなに意地でも会おうとするなんて怖いし気持ち悪いし、正気じゃない気がしたけれど、あのままウルカと会えなくなるのはいけないと思った。

 「……よし」

 なんのためかわからないが、とりあえず気合いを入れておく。

 ひっそりとたたずむ扉に向かい階段を下りようとしたときだった。中から扉が開いた。

 亜麻色の髪がのぞいて、ウルカが外に出てくる。階段を数段上って、ふと視線を上げたウルカが、ジンに気づく。目が合った瞬間、ウルカはくるりと背を向けた。その拍子に足を踏み外し、無表情な石畳の上に倒れる。ジンは階段を駆け下りた。

 「だいじょうぶですか?」

 座り込んだウルカのそばに膝をつく。

 「ごめんなさい、びっくりさせて」

 今日はまとめていない長い髪がかかって、どんな顔をしているのかわからない。

 「ウルカさん」

 ウルカが、何か声を発した。

 「え?」

 下から覗き込もうとするけれど、やっぱり髪が邪魔だ。

 「……だめ」

 「だめ?」

 ウルカは急に立ち上がった。ぐらりと身体が揺れて、壁に背中をぶつける。

 「えっちょっと、だいじょうぶ?」

 ジンもあわてて立ち上がった。亜麻色のあいだから少し顔が見えるけれど、暗くてよくわからない。

 「あの、こっち向いてください」

 ジンはしっかり自覚的に、図々しいことを頼みながら歩み寄る。

 そのとき、ウルカが叫んだ。

 「だめ!」

 ジンはびくりとして思わず足を止めた。ウルカは壁を背にしたままうつむいていた。

 「近づかないで」

 ウルカは言った。哀願するようだった。

 「あの、不愉快だとは思うんですけどおれ」

 「汚い」

 ウルカの言葉に、ジンは自分の格好を確認した。身に着けているものは全部くたびれている。でも別に、汚れてはいない。

 「手、洗ってくるまで待っててくれます?」

 「……違う」

 ウルカは首を振った。

 「こっちが汚いから」

 「別に汚くなさそうですけど」

 「汚いの」

 ウルカは力なく言う。

 「帰ってください。もう来ないでください。近づいちゃだめです」

 近づいちゃ、だめ。

 「なんで?」

 「なんで来るの」

 ウルカが両手で頭を抱えた。

 「昨日勝手なこといっぱい言ったし、それまでも嫌なやつだったし、今までもこれからもずっと最低なのになんで来るんですか」

 くぐもった声で、途方に暮れたように問われる。

 「ほっとけばいいのになんで」

 ウルカを覆っていた幕が、切れていく気がした。もう一度、気合いを入れる。

 「迷惑だってわかってるんです、怖いし気持ち悪いし正気じゃないって感じだと思います。でもほっとけないんです」

 ジンは伝えた。

 「昨日も言いましたけど、助けになりたいと思って、ウルカさんの。そんなのいらないのかもしれないしおれにはできないのかもしれないけど、たぶんそんなことない気がしたので」

 ウルカは、助けを求めていた。自分のことよりも素直にわかってしまった。

 「救われなきゃいけません」

 指を食い込ませるように頭を押さえているウルカに近づく。

 「ねえ、おれが引っ張り出します」

 ウルカはぐずるように首を振る。ジンは苦笑した。

 「なんで?」

 「人間じゃないから……」

 ウルカはかすかな声でこたえた。

 「もう人間じゃない……。ひどいこと、いっぱいした」

 人間じゃない。

 ジンは微笑んでいた。

 そんなことない。

 ウルカはちゃんと、人間だ。この人は、ちゃんと生きていける人だ。人間じゃないやつは、こんなふうじゃない。

 「ウルカさんは人間だと思いますよ」

 ウルカの背中が壁を滑る。ずるずると崩れ落ちていく。

 「人間じゃないのに、ごめんなさい……」

 うわごとのようにつぶやくウルカは、小さな女の子みたいに見えた。さっきの姉妹よりもずっと、頼りなかった。

 「ごめんなさい……」

 「何が?」

 ジンはかがみ込んだ。ウルカはぺたりと地面に座り込んでしまった。

 「死に損ないなのに、人間じゃないのに、待ってて」

 深くうつむいて、顔を覆ったウルカの声が震える。

 「待っててごめんなさい……」

 ジンは笑った。大きな声を出す。

 「もしかしてそれってあれですか」

 ウルカは頭を垂れたままじっとしている。

 「おれを待っててくれてたんですか?」

 地下の扉前の空間に、声はしっかり響いた。でも、ウルカの反応はない。

 「あれ、自惚れ……」

 ジンはつぶやいた。

 「これは恥だ……」

 そのとき、ウルカの背中が沈んだ。

 「……もう来ないと、思った」

 絞り出すようにウルカが言う。

 「近づいちゃだめだから、もう」

 ジンはうなずいた。

 「会わないようにしたいって」

 昨日の言葉も態度も、本当ではなかったのだ。ぼろぼろとこぼれていた涙が訴えていて、知っていた。泣きながら笑って馬鹿にしてくるのも、なかなか凄みがあったけれど。

 「でも嫌だ……」

 言葉が小さな悲鳴のようになって、肩が震える。

 「なんでこんななんだろう……。ごめんなさい……」

 ウルカはしゃくりあげる。

 「いいですよ。だいじょうぶです」

 ジンはゆっくりと言った。ウルカは泣いていた。

 絡まっていた糸を、するりとほどいたときみたいだった。達成したというような喜びがじわりとこみ上げてくる。そしてそれを追いかけてきたのは、底の見えない虚無の切れ端だった。




***




 しばらくして、ウルカのすすり泣きは止まった。そう長い時間ではなかった。ウルカはこれからどうすればいいかわからないのか、下を向いたまま動かない。

 「ウルカさん」

 ジンはそっと声をかけた。

 「地面に座ってたら冷えるから、とりあえず中に入ってください」

 ウルカは我に返ったように顔を上げてジンを見た。蒼い目は潤んで睫毛まで濡れている。顔色もお約束のように悪いし、くまもそのままだ。でも、唇をかんでジンを見ている表情は、素直なもののような気がした。

 ジンはにっと笑いかけて立ち上がった。ウルカが見上げてくる。

 「どうしました?」

 初めて世界と出会ってびっくりした赤ん坊のような顔をしているので、ジンは少しおかしくなってしまった。ウルカはあわてたように首を振って、立ち上がる。

 足がもつれて、膝がかくりと折れた。

 ジンは手を伸ばして、ウルカがくずおれる前に支えた。

 「足、だいじょうぶですか?」

 うまく力が入らなかったのだろう。ウルカの顔を見ると、まともに視線がぶつかった。

 ウルカの蒼い瞳が、じっとジンを見ている。抱き合うような姿勢になっているからあたりまえだけれど、思いのほか距離が近くて少したじろいでしまう。ウルカが目をそらさないので、ジンもしばしウルカを見つめていた。でもやっぱりこれは、気まずいと思う。

 「えっと? おれの顔、なんかついてますか?」

 ジンが言うと、不意にウルカの顔がくしゃりと歪む。

 「わっ、ウルカさん……」

 ジンはあわてた。ウルカは唇を引き結んですっとジンから離れると、首を振った。

 「何もついてません」

 「そうか、よかった……」

 「ありがとう」

 小さな声だったけれど、しっかり聞こえた。突然の言葉に驚いてしまう。ウルカは目を伏せた。

 「ありがとう」

 もう一度言って、下を向いたまま微笑む。もう手の届かないものを、恋しく見つめているみたいだった。

 違う、手は届く。

 手を伸ばそうとしないだけだ。伸ばしてもいいのだし、この人はそうするべきだ。

 ジンはウルカを引き寄せた。

 そのまま包み込む。ウルカは小さくて、あまりにも細かった。

 「急にすみません」

 でも、これがいいと思った。目の前で人間が苦しんでいたら、人間はこうすると思った。

 「ごめんなさい」

 ウルカがぽつりと言った。

 「汚いのにごめんなさい」

 「まだ言ってるんですか?」

 ジンはあきれて見せた。きっとウルカは、いつまでもこれを言うし、思い続けるのだろう。でも、押し隠して見ないふりをして、ないもののように扱おうとするよりはいいはずだ。ウルカはそれをしながら、助けを求めていたから。ごめんなさいをぶつけられる相手がいたほうが、少しは楽なはずだ。

 「ねえウルカさん」

 ウルカはじっと動かなかった。でも、続きを待ってくれているのがわかった。

 「これからウルカさんのこと、いろいろ教えてください」

 ウルカが顔を上げる気配がする。見下ろしたら近すぎるので、前を見たまま続けた。

 「これからも助けになりたいです」

 頬がちりちりする。すごく見られていると思う。でも気づかないふりをして、ジンはのんびりと言った。

 「あとそうだな、調子に乗るついでに言うと、ウルカって呼んでもいいですか?」

 沈黙が流れた。さて撤回しようと思ったとき、小さな声が聞こえた。

 「なんでもいいです」

 そっけない言い方に、ジンは笑った。

 「じゃあウルカで。おれのことはジンでいいですから」

 ジンでいいですからというか、時計としか呼ばれたことがないことに気づく。時計でもいいが、やっぱり人間でいたいかもしれない。そのために、いろいろとあがいているのだし。

 「……お客さん」

 ウルカが言った。

 「え?」

 「お客さん」

 意味がわかって、ふきだした。

 「いいですよ、お客さんがよければそう呼んでください」

 お客さんは基本的に人間だろうし、許容範囲だ。

 「じゃあ、風邪ひくから中に入って」

 ジンはウルカから離れた。寒いなと、思った。

 「また来ます」

 そう言って表情を確かめると、ウルカは柔らかな笑みを浮かべていた。ジンは目をしばたいた。ウルカはこくんと小さくうなずいて言った。

 「さよなら」

 ひとりにできないと、咄嗟に思っていた。

 「あの、今からうちに来ませんか?」

 ウルカがぎょっとしたように目を見開く。

 「いや、かっこつけました。うちというか、下宿です。おかみさんたちいい人だから、だいじょうぶだと思います」

 ジンは勝手に決めつけた。

 「夕飯、一緒に食べませんか」

 唖然としていたウルカは、すごい勢いで首を振り始めた。

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