3-5 救済と狂気

 背後で鈍い音を立てて扉が閉まる。世界から切り離される。その瞬間、ウルカは床に崩れ落ちていた。

 目の前は消し炭の色で塗り潰されて、何も見えない。刺すような締めつけるような頭痛がして、高音の断末魔が耳の奥でけたたましく響いて、氷のような風で凍てついた肺がか細い悲鳴を上げている。

 這いつくばって床に爪を立てる。うまくできない。息ができない。身体じゅうが脈打つ痛みにとらわれている。急に走ったせいで、べらべらと喋ったせいで、いきなり目の前に現れた人のせいで、ウルカはもうめちゃくちゃだった。


 助けになりたいですと言った。

 救いになりたいと、言った。

 

 狂気じみた耳鳴りの向こうから、無駄に明るい大きな声が聞こえる。

 

 会えてよかったです。

 心配だったので。


 黙ってくれ。

 黙って。

 お願いだから。

 強く強く目を閉じて、世界を真っ暗にして、何か別のものが見えそうなくらいに目を閉じて。てのひらの血管に血が流れる音が聞こえるくらい、それしか聞こえないくらい耳を塞いで。

 でも、消えてくれない。


 つらそうです、ほっとけません。

 ひとりじゃないです。

 おれでよければ教えてください。


 額が床にぶつかる。そのまま擦りつけた。でもまだ。


 覚えてますか?


 うまく息が吸えなくて、声が出ない。ウルカは身をよじって声もなく叫んだ。


 うるさい。

 うるさいよ。

 覚えてますかじゃない。

 毎日毎日飽きもせずに来てたくせに。

 鍵が閉まっててもそれでもいつも、向こう側から話しかけてきてたくせに。

 覚えてますかじゃない。

 頭がおかしい。

 何かが外れてる。

 絶対にどこか狂ってる。

 忘れるわけない。

 どうやったらあんたみたいな、きのふれたくそやろうをわすれられるの。


 もう、気づいてしまったから。

 どうでもいいなんて嘘だった。誰にも近づかないでほしいとか触らないでほしいとかかまわないでほしいとか嘘だった。全部おもい込もうとしていただけだった。本当は助けてほしかった。救いがほしかった。抜け出したかった、引っ張り出してほしかった。

 でもだめだ。もう人間じゃないからだめだ。助けられるのも救われるのも抜け出すのもいけない。出してもらっちゃいけない。

 だからもう、自分で生きていくことにした。この世に救いなんかありません、わたしはおまえらなんかいりません、おまえらに人を救うことなんかできません、という顔をして、これ見よがしに助けを求めていた自分が、恥ずかしくてみっともなくて吐きそうで死にそうだったから、もうやめることにした。ちゃんとひとりで生きていくことにした。ウルカに、人にいたずらに心配をかけるなんてことをする資格はない。

 ある日朝から訪ねてきてくれたヘテヤには、もう平気だからと言った。それだけでは心もとなかったから、後日ヘテヤとディーオの店に行って、もう来てくれなくてもいい、必要なら自分で来ると言った。ヘテヤは通りすがりの人に殴られたみたいに呆然としていたけれど、かまわず帰ってきた。終始黙りこくってそばにいたディーオが何か言ってくれたのか、ヘテヤは来なくなった。やってきたお客には笑って応対するようにした。毎日窓を開けたし暖炉に火を入れたし、水を汲んできてお湯を沸かした。あのおかしな人が来ても入ってこないように、夕方になると戸締りをするようにした。

 夕刻になって初めて鍵をかけた日、ジンはやっぱりやってきた。やたら大きい声で挨拶してから戸を開けようとして、開かないことに気づくとずいぶん戸惑っていた。扉の向こうの様子は見えないのに、声がでかすぎて驚いた様子が筒抜けだった。何度か呼ばれたけれど、返事をしなかった。だからもう、来なくなるとおもった。

 でもつぎの日も、ジンは訪ねてきた。そのつぎも、それから昨日までずっと来た。鍵が閉まっていて、ウルカが中にいるのにうんともすんとも言わないことをわかっているのに、毎日。

 怖い、気持ち悪い、正気じゃない。いつもひとりで繰り返していた。でも、それは本心じゃないって、わかっていた。ウルカはジンを待っていた。

 待ってはいけない、そんなのはだめだ。そんなの、怖い気持ち悪い正気じゃない。だってこんな存在には誰も、近づかせてはいけないし、触らせてはいけないし、かまわせてはいけないのだ。離れるのがいい。まっすぐで純粋すぎる男の子も、ねじが飛んでいる馬鹿なお客も、もっと有意義に時間を使ってほしい。

 それなのに、待ってしまう。あの馬鹿な人が来るから待ってしまう。そればかりか今日は、出くわしてしまって、虹を映したような目を見てしまって、扉越しではない声を聞いてしまって。離れようとおもったのに追いかけてきてつかまえて、ぞっとするような話をしてまで、救いになりたいと言ってくれた。

 でも、それは受け取れない。

 二年続けてきたせいで、当てつけの、見せびらかすための感じの悪さを出すのはとても得意になっていた。でもそれでは今までと同じだから、きっとあの人には通じないから、少し違うことをした。おもいきり見下して、憐れんで、蔑んだ。ひねくれていろいろ考えていたことが、初めて役に立ったとおもう。

 こんな、人をたくさん傷つけて踏みつけにして、それでも醜く生きている死に損ないのことは、二度と顔見たくないとおもって、きれいに忘れてくれるのがいい。

 「だいじょう、ぶ……だいじょうぶ、だから……」

 やっと声が出せるようになって、口からこぼれたのはそれだった。ウルカは自分の肩をあやすように叩いた。寝かしつけるみたいに、ゆっくりと一定の速さで。

 こうすると意外と安心するんだよ、お母さんがいるみたい、とあのときシルーナは笑っていた。


 そのシルーナはもういない。シルーナはウルカと同じ、サンセクエ王国のセポラ特預使領とくよしりょうの出身だった。生まれた村は違ったけれど、同い年だったこともあり会ってすぐに仲良くなった。シルーナは村の聖殿で大祭司の昔話を熱心に聞いていたようで、いろいろなことをよく知っていた。

 シルーナやウルカが生まれたときから、サンセクエ王国は戦争をしていた。なんなら生まれる二十年以上前から、ずっと戦争状態だった。相手は主に、大陸の中央あたりを広く支配しているデウカンデ帝国だった。

 デウカンデ帝国は、大昔に大陸のほとんどを支配していた古代帝国が分裂して消滅したあと、二百年あまり続いた戦乱の時代を勝ち抜いて建国された騎馬民族の国だと、シルーナは言っていた。周囲の国々を従えて、できて百年くらいでとても大きな国になったそうだ。

 地図を見ると、確かにデウカンデはほかのどの国よりも大きく描かれていて、大陸のど真ん中に威風堂々と陣取っているという感じだった。それでもまだ、拡大を続けようとしていた。ただ、デウカンデ帝国の西側には険しい山脈があって、その向こうの国々は攻められていなかった。デウカンデと同じように、騒乱の中を生き抜いてきた東側のサンセクエは、たびたびの侵攻を受けながらもなんとか帝国軍を退けていた。

 でも五十年ほど前に、サンセクエの領地だったセポラ特預使領のドポージュという地域がデウカンデの手に落ちる。ドポージュはチューンと名前を変えられてデウカンデ帝国の支配下に入ることになった。ついにサンセクエは、領地を侵されてしまったのだった。それでもその戦争での痛手が大きく、しばらく何もできずに十年ほどが経つ。

 しかし旧ドポージュの民衆や貴族たちは、黙っていなかった。

 デウカンデ帝国は、ドポージュに帝国中央から派遣した統治者を置いて、人々を帝国の臣民にしようと統制していた。それだけではなく、信じるものも違っていた。異なる教えを信じろと強要されたわけではなかったが、その溝はあまりにも大きかった。

 ドポージュの人々は、帝国から派遣された統治者に対する反乱を起こす。それをきっかけに今から四十一年前、デウカンデ帝国との戦争が始まったのだ。山脈を越えた西のほうの国々も巻き込んで、大陸全体での戦いになった。

 戦争が始まって三十年ほど経った、ウルカが十歳くらいのときから、デウカンデのサンセクエへの攻勢は激しさを増した。サンセクエ王国は農村が略奪を受け、都市が焼かれ、ぎりぎりの状態になっていた。それでも戦いは続いた。

 ウルカは、セポラ特預使領の領主がデウカンデとの戦争のために編成した軍隊に、暮らしの世話をするためつき従っていた。

 サンセクエは主に七つの領に分かれている。領主は特預使と呼ばれ、国王から認められ、預けられるという形でそれぞれの領地を治めていた。そして特預使直属の軍隊も、国王の統括する国軍と協力して国を守ることになっている。

 でも軍隊だけでは戦争ができないから、後方支援をする非戦闘員の部隊も用意されていた。軍に入った兵士の家族や、少しでも故郷の力になりたいという人で構成された隊だった。ウルカも父が兵士となっていたから、一緒に行きたくて十五歳のときに入っていた。ウルカは隊のみんなと一緒に、食事を作ったり洗濯をしたり、武器や物資を運んだりしていた。


 『帝国のやつらは異端だよ』

 シルーナは焚火に手をかざしながらそう言った。炎の影が、シルーナの全身を焼いていた。

 『あいつらが崇めてるのは、皇帝っていう欲まみれの戦狂いなんだよ。でも皇帝はね、クェパさまに世界を治めることをゆるされた唯一の統治者なんだって。つまり皇帝はクェパさまの子供なんだって。ということは、皇帝とクェパさまは同じなんだって』

 話が飛躍しすぎだろ、とシルーナは吐き捨てた。ウルカにはよくわからなかった。

 『超大国みたいなとこのお偉方が言い出すことっていうのは、たいていぶっ飛んでるものだよ』

 そう言ったのは、隊長だった。ほかの隊員たちは、うなずいたり首を傾げたりして聞いていた。よそを向いている人もいた。


 三年前、十六歳になったとき、ついていた軍隊が壊滅した。野営していたウルカの隊のところまで、デウカンデ帝国軍が来た。

 そのころの帝国軍は、非戦闘員でも捕虜にするのではなく、殲滅することが多かった。捕虜を養っている余裕がなかったのかもしれない。だからと言って、何十年も殺し合った敵の端くれを見逃すことも、しなかった。

 『だいじょうぶだよウルカ。クェパさまが癒してくださるから』

 帝国軍が目の前に迫る中、シルーナは微笑んでそう言った。その優しく包み込むような、どこか遠くにあこがれるような、どこまでも澄み切った笑顔が、忘れられない。

 銃声が響いていた。世界が割れるみたいだった。みんな舞い踊るように倒れた。ウルカも地面に伏した。そのまま死んだ。

 それなのに、誰かに叩き起こされた。

 それは、やたら派手な格好をした男たちで。どこかの傭兵の部隊だった。あの戦争では、国や領主の軍だけでなく、傭兵たちも戦っていた。彼らはどこかの王国や領や、もしくは帝国に雇われている。でも帰属意識はあまりなくて、ただ金のために戦う荒くれ者たちが多いと聞かされていた。

 傭兵たちは色とりどりの服を着て、帽子にはそんな大きな鳥はどこにいるのですかと聞きたくなるような迫力ある羽をつけていた。そんな彼らはなぜか、血に染まった草原で死んでいたウルカを仲間に加えた。ウルカは傭兵たちとともに、どこかに向かっていた。

 お互い何も聞かなかった。ただ単に命をつないでいた。

 そのために、彼らは奪った。脅した。怯えさせて泣かせて、命乞いをさせて、殺した。

 ウルカは武器を与えられず、やっと持たされたのは一丁の銃だけだった。弾はもらえなかった。いつもその役立たずをぶらさげて歩いて、人を恐れさせた。その人たちの生きる糧をかき集めて自分のものにした。

 たどり着いたのは王都のガルパだった。小さいころ話に聞いてあこがれていた、美しく洗練された都の姿はどこにもなかった。でもこんなものだろうとおもった。

 傭兵たちは、船に乗ると言った。ウルカはなぜか、わたしは乗らないと言っていた。誘いもせず、理由も聞かなかった彼らとは、そこで別れた。頭がおかしくなっていたのか、しっかりしていたのか、渡された銃と奪ってきたものを元手に、王都での暮らしのめどを立てた。

 そうしていると、戦争は終わった。負けだった。近くの島国のコダコ王国が、急に仲裁を申し出てきて、条約が結ばれた。戦争のもととなった旧ドポージュは、チューン王国という国として独立し、中立を約束するということになったらしい。サンセクエや、仲間として戦った国々は、領土を失い賠償金の支払いを言い渡された。

 ただ、一応勝利したデウカンデ側も相当な痛手を被っていると聞いた。四十年以上も戦えばそうだろう。荒みきった王都では、デウカンデ帝国の荒廃ぶりがおおげさに噂された。

 村に残してきた母と、弟と妹がどうなったかはわからない。父はきっと、隊が壊滅した日に死んでしまっただろう。家族が無事なのか、調べる気はなかった。ウルカはもう、前のウルカではない。生きていてくれたとしても、もう会えない。


 もう、人間じゃない。

 だからだめだよ。全部。

 ウルカは冷たい床にひしゃげたまま、自分で自分の肩を叩き続けていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る