3-4 汚物と子犬

 塔の中に人が入ってきたのを見て、やっと聖殿を出ることができた。背筋を伸ばして前を見て、歩いていた。ふと、道端の露店の前に、見覚えのある姿を見つけた。

 亜麻色の髪を無造作にまとめ、裾を引きずりそうな長い外套を着込んでいる。その人は露店の主人にぺこりと頭を下げ、ジンのほうに背中を向けて歩いていく。

 「ウルカさん!」

 その辺の人がみんな振り返るような声で、ジンは呼んだ。視線の先でびくりと振り返った人は、やっぱりウルカだった。

 ウルカが立って歩いている。貴重な生き物に遭遇できたような気持ちで、ジンはウルカに駆け寄った。

 「ひさしぶりです! 覚えてますか? 今日も行こうと思ってたけど」

 小さいと思ってはいたが、目の前に立っているのを見るとずいぶん小柄だと感じた。ジンの肩までくらいしかない。

 ウルカは目を見開いて固まっている。顔は相変わらず青白くて、目の下に濃い陰があった。

 「元気ですか? ちゃんと食べて寝てます?」

 ウルカはこたえない。無視をしているのではなく、動揺して言葉が出ない様子に見えた。陰りのある蒼玉のような瞳が、揺れながらジンをじっと見つめている。

 「……だいじょうぶですか?」

 ジンは思わずたずねた。するとウルカははっとしたように目をそらした。うつむいてしまったウルカに、ジンは笑いかけた。

 「でも会えてよかったです。生きてることはわかってたけど心配だったので」

 頭にきんと響くような風が吹く。ウルカが突然踵を返し、すたすたと歩きだした。ジンはその背中を追いかけていた。すぐに追いついて前に回り込む。下を向いてひたすら進もうとするウルカはジンの早業に気づかず、まともに衝突してきた。

 「おっと」

 すみません、と笑おうとして、その準備段階で顔が引きつった。ぶつかったジンを咄嗟に見上げてきたウルカは、泣き出しそうな顔をしていた。視界がなくなっていそうなくらいいっぱいに涙をためて、唇をきつく引き結んでいた。

 ウルカはジンなど見ないふりをするように、横をすり抜けていこうとする。ジンはその腕を掴んだ。外套を着ていてもジンの手の中におさまってしまうような腕だ。華奢と言うには細すぎた。

 「ウルカさん」

 道の真ん中で何か繰り広げているウルカとジンの横を、街の人たちは興味なさそうに通り過ぎていく。

 「何かありましたか」

 ウルカは手を振り払おうと必死で、あんまり弱すぎる抵抗をする。

 「つらいですか」

 ジンを振り返らないまま、ウルカは黙っている。

 「つらそうです、ほっとけません」

 手を離したら、消えていきそうな気がした。

 「なんか無理してませんか。おれでよければ教えてください」

 ちゃんと生きるようになったのだと思った。でも、顔色もくまもひどいままだ。すぐにはよくならないのかもしれないけれど、でも今、泣きそうになりながらジンの手に抗おうとするウルカは、ぎりぎりのところでやっと立っているように見える。今にも崩れ落ちて二度と目を覚まさないのではないかと思えてしまう。身体も心も、きっとそうなのではないか。

 「ひとりじゃないです」

 ジンはウルカの小さな背中に訴えた。

 「ひとりだと思ってるかもしれないけど違います。おれも」

 ちゃんと伝えないと、ちゃんと生きていることにはならないと思った。

 「まだ戦争してたとき、ここに出かけてきてるあいだに村がどこかの兵隊の集団みたいなのに襲われて、みんな死んだんです。一緒にこっちに来てた友達は、嵐の日になんか、海見に行って死んじゃって。それで、ひとりになったと思ったけど、でも、助けてくれる人がいて、だから」

 そのとき、ウルカが振り向いた。

 ジンは続きの言葉をすべて忘れた。

 ウルカは笑っていた。

 初めて見る笑顔だった。

 でもそれは、ずいぶんひずんで見えて。

 それでもやっぱり、ウルカは笑っていた。

 涙を流しながら。

 いびつな笑みに曲がっていたウルカの口が、動く。

 「だからどうしたんですか」

 今まで聞いたことがないほどはっきりとした口調で、ウルカは言った。両目から涙をぼろぼろとこぼしていることが嘘のようだった。

 咄嗟に声が出なかった。ジンはただウルカを見つめた。何も感じてはいなかった。ウルカは笑った。

 「だからどうしたんですか」

 明瞭な声で繰り返す。何がどうしたのかわからなかった。でもとにかく何か言わなければと思って、ジンはやっと言葉を継いだ。

 「……助けになりたくて」

 ジンは腹の底に力を込めた。

 「助けになりたいんです、ウルカさんの。救いに、なりたいです」

 きっぱりと言うことができたと、ほんの少し力を抜いた。ウルカはさっき呼び止めたばかりのときと同じように、目を見開いて見つめ返してくると、無意識に決め込んでいた。でも、それは違った。

 ウルカは首を傾げてジンを見上げてきた。濡れて光をなくした蒼が、ジンをまっすぐにとらえている。そのまなざしに、射竦められる。

 動きを封じられたジンに向かって、ウルカは泣きながら、笑いながら口にした。

 「救われなきゃいけませんか」

 そんなことはない。

 そんなものはいらない。

 そんなものは、ない。

 「正気ですか」

 ウルカは続けて、くっきりとそう言った。じっと、憐れむように見つめてくる。

 「みんな救われたいんだって、思ってるんですか。そんなことできると思ってるんですか」

 また笑う。じわりと顔じゅうを蝕むように、笑みが広がる。そのまま、ずいと距離を詰めてくる。

 「ちょっと珍しいこと経験したから、自分の言葉は誰かを動かせるって、思ってるんですか。ほかの人にはなさそうなことが自分にはあったけど、乗り越えたとか、耐えてて偉いとか、思ってますか。だから自分は誰かのこと助けられるとか救えるとか思ってるんですか。たまにいますそういうの。でもそれ」

 ふふっと、ウルカは軽やかな笑い声をもらした。少し下を向いた拍子に、涙が地面にぱたりと落ちる。

 ウルカは言った。

 「片腹痛いです」

 糞尿と泥水にまみれた子犬を見るような目をしていた。

 「滑稽だって気づいたほうがいいと思います。それとあれ、時計が欲しかったらヘテヤのところに行ってください。預けておきます。貸したぶんは返していただかなくて結構です」

 すらすらと言って、ウルカはジンに背中を向けた。

 「さよなら」

 ウルカは言い捨てて、さっさと歩いていった。

 そのうしろ姿は人に紛れて、すぐに見えなくなった。




***




 下宿の戸を開けながら、帰りましたと大きな声で挨拶する。するといつものように、ネイレが台所からひょこりと現れた。そのうしろから、なぜかドゥイルも顔をのぞかせた。

 「おかえりなさいジンくん」

 ネイレが、日が差すような笑顔でジンの鞄を引っ張る。ジンはにっこりしながら鞄を守った。でも、目線がドゥイルのほうへ向いてしまう。帰ってきたときにドゥイルに迎えられたのは初めてだった。ジンがじろじろ見ても、ドゥイルはすました顔で立っていて何も言おうとしない。ジンの疑問いっぱいの視線に気づいたのか、ネイレが鞄から手を離して教えてくれた。

 「ドゥイルくんね、今日は早く帰ってこられたからっていろいろ手伝ってくれてるの。ごめんね疲れてるのに」

 ネイレの言葉に、ドゥイルは静かに首を振る。

 「やらせてもらってるので」

 「やってもらってるんだよ!」

 「そんなことありません」

 「あるよ!」

 「ありません」

 なんだこれは。やや不毛なやり取りに、ジンはあきれてしまった。でも、ふたりともなんだか楽しそうなのを見ていると、やっぱり微笑ましいなと思う。それにしても、ドゥイルはいつも自分からすすんでネイレに近づこうとはしないのに、がんばったのだろうか。がんばったのだろう。目が合ったので、ジンはよかったなという気持ちを込めて、無言で力強くうなずいて見せた。ドゥイルは不思議そうな顔をしていた。わからないやつだな、その調子なのに本当によくやったと思うぞなどと思いながら、ジンは階段を上った。暗い部屋に荷物を放り出し、一階に戻る。

 台所をのぞくと、さわやかな香りがした。チャミンが香草を刻んでいたのだ。ドゥイルとネイレは食卓に並んで座り、作業していた。茹でてつぶした芋を丸めているようだ。それを天火で焼けば芋のつぶてができる。ただ切って焼くより手間はかかるけれど、滑らかな食感で少し贅沢な気分になれる。

 「ちょっとドゥイルくん、それ小さすぎない?」

 ネイレがおかしそうに皿に並んだ芋の球をゆびさす。

 「そうですか」

 「うん見て、わたしが作ったの、それのふたつぶんはある」

 「本当ですね」

 「几帳面だからかな」

 「いや……」

 ドゥイルはきまり悪そうに座り直している。

 「ん?」

 ネイレがドゥイルを覗き込んで、ドゥイルはあわてたように目をそらした。すると、ふたりの話などちっとも聞いていなさそうだったチャミンが突然口をはさんだ。

 「乙女たちの口が小さいからと思って、気を遣ってくれたんでしょ」

 ドゥイルが目をむく。それを見たネイレが、えっそうなのと感動したような声を上げた。

 「そんなに乙女扱いしてくれるの! わたしひとくち大きいのに!」

 「いや、その」

 ネイレのことは、乙女扱いというかなんというかだけれど。

 「わたしのためでしょ」

 チャミンの口調は何を言うにもあっさりしているので、どう返すか迷うこともしばしばだ。

 「いえ、違います」

 ドゥイルは控えめながら言い切った。

 「あらま」

 チャミンが肩をすくめ、ネイレがくすっと笑う。

 「今のはそうですって言うところだよ」

 「そうだよね」

 ネイレとチャミンはうなずき合っている。チャミンがドゥイルを見やった。

 「じゃあやたらに小さくしてるのはどうしてよ」

 たずねられたドゥイルは、少し恥ずかしそうにこたえる。

 「大きさを揃えたほうがいいと思ったので。でも、余計なお世話でした」

 「あらま?」

 チャミンがさっきよりも高い声を出した。

 ドゥイルは説明を終えて安心したのか、もう少し大きくしないと、などとつぶやきながら作業に戻る。ネイレは広げた自分のてのひらとドゥイルの手をちらりと見比べていた。でもすぐに朗らかに言った。

 「じゃあ、今からはちゃんと大きさ揃えよう。見本を作るから待って」

 「はい」

 ネイレのてきぱきとした指示に、ドゥイルはおとなしく従っていた。

 そのあいだずっと、ジンは台所の入り口で立っていた。食事の支度をする三人をぼんやりと眺めていた。入ればいいのだけれど、入りにくい空気が流れているわけではまったくないのだけれど、そこで立ち止まっていた。三人とも、戸の陰にいるジンには気づいていないようだった。

 ふとチャミンが立ち上がった。

 「あとはそれ焼くだけだから、任せるね」

 「うん、任せて」

 「わかりました」

 ふたりにつぶての完成を託したチャミンが戸のほうに向かってくる。ジンはつい今さっき通りかかったという感じにチャミンと顔を合わせた。

 「おかえりジン」

 チャミンは言った。

 「視線が痛いよ」

 「えっ……と」

 「ふたりきりにしてやれってことでしょう」

 チャミンは仕方なさそうに笑っていた。

 そうか、たぶんそうだ、そういうことだ。だから入らなかったんだ。ジンは何度もうなずいた。

 「そうです。そういうことです」

 チャミンはジンの背中にとんと触れて、二階に上がっていった。

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