3-3 慕情と審問

 聖殿内の壁は一面白い布で覆われ、祭壇におさまりきらない花輪が飾られている。まるで建物が花でできているかのようになっていた。灯された明かりが、蝋の涙を流している。

 突然王宮に呼び出されてから十日ほどが経っていた。そのあいだに聖殿では王太子の弔いの儀式が行われ、塔の中は祈りを捧げにくる街の人で連日いっぱいになった。今はもう人の訪問は落ち着いているが、たくさんの人が持ち込んだ花輪で聖殿は楽園のようなありさまになっている。

 ジンは公示係として、半年の服喪期間のあいだは華美な服装や食事は遠慮するようにと言っているが、そもそもそんな派手な暮らしをしている人はあまりいない。子供たちが、弔いの儀式を祭りか何かと勘違いするくらいだったから。王都にはさびれた日常が戻っている。

 ジンは誰もいない聖殿の塔の中に立ち、花に埋め尽くされた壁を見回していた。くっきりと鮮やかな色をした冬の花たちは、冷たくどんよりとした季節の中で、自分を貫いて生きようとするかのようだ。とても、眩しい。

 「おや、ジンじゃないか」

 少しからかうような声が聞こえて、ジンは振り返った。塔の入り口にランサがいた。

 「こんにちは、大祭司さま」

 ジンが頭を下げると、ランサは軽くうなずいた。隣にやってきて、さっきジンがしていたようにあたりをぐるりと見渡す。

 「今日もおつかれ」

 ランサが天井を見上げながら言った。高い天井には、さすがに花はない。ジンは笑った。

 「ありがとうございます」

 ランサはなぜか、しばらく天井を眺めていた。

 「最近、あの人いませんね」

 ジンは足元を見ながら言った。

 「いつもこのくらいの時間に来てた、金髪の男の人……」

 「もう来ないよ」

 ランサはさらりとそう言った。

 やっぱり、と思った。わかっているのに知らないふりをして聞くなんて、卑怯だと思った。ランサにも、とぼけていると見抜かれている気がした。でもランサはそんな素振りは見せず、祭壇に歩み寄りながら続けた。

 「あの子は誰より救われなきゃいけない人だったよ」

 純白の服に赤銅の髪が波打ちながら流れるランサのうしろ姿は、どこか現実離れして、楽園の花畑にとけこんでいた。

 「いつも誰かを救いたいって祈ってたな」

 ランサは祭壇の上の花輪をいくつか手に取って置き直していた。

 「でも救えなかったんだわな。あの子は誰も、誰もあの子を」

 ジンは、ひざまずいて祈りを捧げていた青年の背中と、一度だけ見た柔らかな微笑を思い出していた。王太子という身分なのに、薄汚れた服を着てほとんど毎日聖殿に来ていた。

 「クェパさまの前ではみんな同じ」

 ランサが振り返る。秘密めいた笑みを浮かべて言う。

 「クェパさまは信じる者に癒しを与えてお救いくださる」

 そうですよね、とランサは天井に向かって呼びかけた。ジンはぎょっとした。上を見ていたランサはやがて、ジンに向き直る。わざとらしいくらいまじめな顔をしていた。

 「今のは内緒にしてくれな。この前賄賂渡したろ」

 あの芋の監獄。どうこたえていいのか判断がつかず、ジンは仕方なくこくりとうなずいた。ランサはにやりと笑って、言った。

 「なあジンよ、最近ぼんやりしてないか? ちょっと話しかけづらかったぞ?」

 急に話題が変わったうえに、思ってもみないことを言われて戸惑った。焦った。あわてて声を出す。

 「えっ、いや、だってたぶん、王太子殿下のことが」

 「サジャクのことで落ち込んでた?」

 ランサが首を傾げて、錫色の瞳でじっと見てくる。

 「はい、それは、はい。だって王太子殿下はつぎの王さまになる人で、まだお若いし、おれよりちょっと上くらいで、誰も、なくなるなんて急すぎるし……」

 自分でもどうしたのかと思うくらい気が動転していて、意味のわからないことを言ってしまう。ジンはなけなしの理性でとりあえず口を閉ざした。

 「そうか。ジンはいいやつだからな」

 ランサはそう言って目をそらしてくれた。ジンはふっと力を抜いた。少しだけ余裕ができたから、話を変えようと思って頭の中を探った。取り出せることを見つけて、明るい声を出す。

 「ええっとあと、たぶんふられました」

 「はあ?」

 ランサが何を突拍子もないことを、という反応をする。ジンは笑った。

 「十日前まで毎日会ってた人がいたんです。会ってくれなくなりました」

 ランサは無言で眉を寄せて目を細め、口をとがらせている。どういう感情で聞いてくれているのか、ちょっとわからない。

 「おれがその人のところに行くんですけど。いつも鍵、開けっ放しだったのに急に閉まってて。それからずっと閉まってて」

 ランサの顔に、やっと読み取れるような感情が浮かび始める。それはたぶん、憐みだった。大祭司さまの慈悲深い憐憫である。

 「たぶん中にいるんですけど、呼んでも出てくれないんです。それでも一応毎日通ってたんですけどだめで。生きてるのか教えてほしいだけなんだけどなって」

 ジンはあっけらかんとした感じで喋った。

 王太子がなくなった日、いつもより少し遅くなってからウルカの店に行ったのだ。すると珍しく、鍵が閉まっていた。戸締りなど気にするようになったのかと感心して、その日は帰った。でもつぎの日も、そのつぎも、鍵は閉まっていた。そしてウルカは返事もしない。生きてるのか死んでるのかくらい、こたえてくれてもよさそうなものなのに。三日目に、これはまずいのではと思ってヘテヤの店をたずねると、ヘテヤは今日ウルカが自分から来たと言った。ジンは仰天した。でも、ウルカが無事だとわかってほっとした。

 もうウルカは、きっとだいじょうぶなのだ。どんなきっかけがあったのかは知らないが、ちゃんと生きていくようになったのだ。たぶん。ジンは安心していた。

 「でも生きてることはわかったので、もういいんです。でもやっぱり、ちょっとぼんやりくらいはしますよね」

 しおらしく言ってみた。しばらく黙っていたランサが、しみじみとうなずく。

 「ああ、あんたにそんなことがあったなんてなあ」

 「いやおれだって、ありますよそのくらい人並みに?」

 「だいじょうぶ、出会いはまたあるぞ」

 「ありますかね」

 「あるね、あんたには。二度とないやつもいるけどな」

 「え?」

 「わたしみたいなのはもう、十年死人に焦がれ続けてるからさ。これからもずっとそうだ」

 ランサはジンよりもずっとあっけらかんと、適度に乾いた調子で言った。

 「まあそれはいいとして。そういう人間はわたしで間に合ってるから、あんたは新しい人とかものと出会えよ。いやその人、死んでないのか」

 「……あの大祭司さま。ちょっとお聞きしたいことが」

 ジンはもう一度、話をそらした。

 「何?」

 ランサが目を丸める。

 「えっと、二年前まで孤児院に、ヘテヤっていう子がいませんでしたか? おれ最近その子と知り合ったんですけど」

 ヘテヤは五歳まで聖殿にいたと言っていた。大祭司さまが優しくておもしろかったとも。聖殿で、「いじめられていた」とも。

 ランサは祭壇の前でうなずいた。

 「ヘテヤね、いたよ」

 「そうなんですか、やっぱり」

 「監獄屋さんが引き取ってくれたね」

 ジンはそう、と大声を出した。

 「監獄、おいしそうだからおれも注文したんです。ヘテヤはかわいいやつだし」

 ランサはジンの声におおげさに驚いて背中をそらしていた。

 「まあそうだね。かわいいやつだったと思うね。ジンとつながるとは思わなかったな」

 「ヘテヤ、大祭司さまは優しくておもしろかったって言ってました」

 「そうか。それはなんとも」

 ランサは祭壇から離れてジンに近づいてきた。と思うと、横を通り過ぎていった。扉の前で振り向いて、軽口をたたくように言う。

 「わたしは孤児院の子供のことなんてどうでもいいから気づいてやれなかったんだよ」

 心臓に、鋭い衝撃が走った。なぜだか鼓動が速くなっていく。

 「ヘテヤ、いじめられてたんだよな」

 ジンはランサの横顔を見つめた。変わらず、飄々としていた。

 「監獄屋の男が、あの子を引き取るって聞かないから説明させたらそう言ったんだよ。外の人間でも気づくほどだったんだな」

 ランサは軽く肩をすくめる。

 「ヘテヤはな、どうしてクェパさまがいるのに戦争は起こったんだ、なんでいっぱい人が死んでるんだ、なんで救ってくれないんだって、言ったらしいんだよ。ひねくれてるんじゃなくて本気でな。それで、いじめられたって」

 ヘテヤはそんなことを言ったのか。

 言いそうだなと、思った。きっとあの素直な、純真な紫をたたえた瞳でまっすぐ相手を見て、たずねたのだ。心から疑問に思って、なんの悪気も嫌味もなく、ただそう言った。その、純度が高すぎる透明すぎる言葉の凶器で、相手の曖昧で柔らかくてどろどろしたところを思い切りえぐった。

 ヘテヤが言ったことは、この国では、特に聖殿の孤児院という場所では、口にすることが許されないことだ。たとえ思っていたとしても、黙っていなければならないことだ。でもヘテヤならきっとそうしないし、できないのだろう。まだ幼いというのもあるけれど。きっと。

 生きるのが、へたくそなんだ。

 「そう、なんですか」

 ジンはこたえた。ごく普通に返したつもりだったのに、ずいぶんぎこちなくなってしまってひやりとした。ランサはからりと、笑った。

 「そんな子の話、ここでしないほうがよかったかな。でも、今更だわなクェパさま」

 少しの間のあと、なあジン、とランサが扉の前から呼ぶ。

 「ごめんな、わたしはあんたにも」

 ランサは顔をしかめて言葉を切った。

 「うん、なんでもない。じゃあな、邪魔した」

 ひらりと手を振って、ランサは行ってしまった。


 誰より救われなきゃいけない人。

 救われなきゃいけない人。

 救いたいって祈ってたな。

 救えなかったんだわな。

 どうでもいいから。

 どうして、なんで。なんで。

 救ってくれないんだって。

 救われなきゃ、いけない人。

 わたしはあんたにも。


 ランサの言葉が、形を持ってその場に残っているようだった。だんだん膨らんで、圧迫してくるようだった。周りを取り囲んでいる花の色は、鮮やかすぎて毒々しくて目の前をちかちかと点滅させる。暴れる心臓がまったく落ち着いてくれない。狂って戻らないロンデの懐中時計みたいだ。

 何がこんなに。

 何にこんなにおびえているのか、焦っているのか、わからなかった。

 違う。

 わかっている。

 近づかれそうになった気がして、触られそうになった気がして。

 絶対に、人に気づかれてはいけないはずのところに。

 ジンはひたすら立ち尽くした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る