3-2 断崖と意志

 つぎの日、ジンはピョルダルの店の中にいた。芋のつぶてを食べながら、今日は近くに座っている人たちの勢いのいい会話の真っただ中にいる。ジンはほうぼうから聞こえる、いろいろな話に巻き込まれていた。

 「それでよお、いつも親方がそいつのこと殴るんだよお。もう見てられないけど何もできなくてさあ」

 「そんな、それは」

 「うんうん」

 「あんな国は糞以下だよ! なあ兄ちゃん」

 「えっ? あ、えっと確か、糞以下っていうのは糞も含むんだと」

 「そうだよ、あいつらは糞より汚いからそれじゃだめだ」

 「あ? 糞未満?」

 「たぶんそれが近いんじゃないかな……」

 「なんで戦争やめちまったんだ、あんなのは徹底的に潰さなきゃ」

 「まだそんなこと言ってるの? もうわたしたちもたなかったわよ。止めてくれたコダコに感謝しないと、ねえ?」

 「コダコ、いい国なんだと思います、人が明るくて……」

 「あんなの、高みの見物決め込んで、おいしいとこだけ持っていったんだよ。今どこより栄えてるじゃないか」

 「ねえジン、今日も来てるの、王さまからのお手紙」

 「あ、来てますよ」

 「おもしろい笑えなぁい」

 「それで親方がさあ……」

 「はい、親方さんが?」

 「……わたしはクェパさまを穢す輩の作った国がまだ存在することが許しがたい。きみはどう思う?」

 「うるさい、この人が喋ってるでしょ」

 「おいあんた、おれもそう思うぜ」

 「本当ですか」

 「あんなやつらは糞未満だ」

 「そうです、やつらが戴くのはまったく正統性がないばかりか、汚らしく野蛮な俗物なのです。やつらは異端者なのです」

 「ぶっつぶさなきゃいけないんだよ」

 「そのとおりです」

 「ああうるさい。あんたたちねえ。頭だいじょうぶですか? そんなんじゃこの先すぐ死ぬわよ?」

 「ああんなんだと?」

 「あなたはクェパさまを愚弄するけだものらを許すとおっしゃるのですか」

 「まあまあ落ち着けよ」

 「いいですよ続けて。親方さんが、どうしたんですか?」

 「ジンって……いいやつだなあ……」

 ピョルダルは店の奥で、我関せずとのんびり何かを飲んでいる。

 ジンは、もうほかの音は無視して目の前の人の悩みに集中しようと決意した。そのときだった。

 大きな音を立てて、扉が開いた。人の熱がこもった店の中に冷や水のような風が吹きこみ、急速に冷ます。みんな口を閉ざして一斉に扉のほうを見た。

 「ねえ聞いて!」

 駆け込んできたのは、十歳くらいの少女だった。何度か店で見かけたことがある子だ。少女のうしろで扉が閉まる音が、温度が下がった店内に響き渡る。

 「海でまた人が死んだ……!」

 目を見開いた少女は、ささやいた。ざわりと、店の空気が揺れる。

 「崖のところに巡察官のやつらが来てる! 見に行こうよ! わたしさっき、ちょっと見ちゃった! ぼろきれだった!」

 真っ青な顔をして目をぎらつかせ、少女はひどく高揚しているようだった。

「なんか、こそこそしてたよ。秘密みたいだったから、ほかには誰にも言わずに来たの。ねえみんな、行こうよ!」

 みんな顔を見合わせたり、立ち上がったり、明らかに喜色を浮かべたりした。すると店の奥から、ピョルダルの声がした。

 「おいで」

 少女が目を丸くする。

 「あったかいものをあげよう」

 「えっでもピョルさん、海で!」

 「うん。海は冷えるよ。みんなもわざわざ寒いところに出ていかなくていいだろ」

 ピョルダルの静かな声音は、ほんの少し話しただけで、波立っていた店の空気をすっかりなだめてしまった。

 少女が素直にこくりとうなずく。

 ジンは立ち上がった。

 「すみません、行きますね」

 親方の悩みを吐露していた人に言う。一緒に話を聞いていた人が、この人のことは任せなと請け合ってくれた。そろそろ仕事に戻らなければならない。

 ジンは、ピョルダルのほうへ向かう少女の肩をとんと叩いてすれ違った。

 「気をつけてな」

 ピョルダルが言って、客たちも静かに見送ってくれる。

 「ありがとうございます」

 店を出て扉を閉める。いつもよりも外が明るく感じた。なんとなく上を見て、はっとする。青い空が、見えた。この季節には珍しいことだ。

 自分の存在にうんざりしたような厚い雲に一か所だけ小さく穴があいて、澄んだ色がのぞいていた。そこから差し込んでくる日の光は金糸を織り込んだ紗のようで、麗しく、神々しい。

 でも寒いのは相変わらずだ。ジンは、やっと慣れてきてありがたく思えるようになったまともな靴下に感謝しながら、石畳の道を歩きだした。

 海でまた人が死んだ。

 少女の言葉が頭の中で反響する。

 今日の天気は穏やかで、そう、なぜか青い空まで見えている。ロンデのときとは違うな、とぼんやり思う。あの日は真っ暗で、身体がまっぷたつになりそうな風が吹き荒れていて、街じゅうが悲鳴を上げていた。だから、わからなかった。わからないから、ロンデはそうじゃないかもと思おうとした。事故かもしれないって。でもこの天気では、そうもいかない。

 自分の意志だったんだろうな。自分の意志じゃないけど、自分の意志だったんだろうな。

 ジンは走り出した。気まぐれのように空から差し渡された光の筋に、向かっていく。あのふもとまで行ったらきっと、もう帰ってこられないのだろう。




***




 天からの光が落ちた場所に行くことはできず、ジンはちゃんと四か所目の公示場所に到着した。その広場でジンを待っていたのは、ふたり乗りの馬車だった。ドゥイルと色違いの宮廷役人用の制服を着た人が、光沢のある毛並みをした馬の横に所在なげに立っていた。その人は王宮からの使いとして、公示係を迎えに来たのだと言った。よくわからなかったけれどジンはお礼を言った。迎えに来てくれた人も、よく事情を飲み込んでいないようだった。ジンは馬車に乗せてもらって王宮にたどり着いた。

 城門で、一応携帯することになっている身分証を見せて、ジンは王宮の敷地に入ることを許された。入ってすぐの、胡桃色の石壁に丸く取り囲まれた場所でしばらく待っていると、建物の中に通された。蔦のような模様が一面に描かれたつやめく石の床には、擦り切れた靴の音もよく響いた。ややいびつな曲線を描く形の窓からは、隣の棟の壁だけが見えていた。

 しばらく突っ立っていると、部屋にもうひとりやってきた。王都内の別の地区で公示係をしている人らしいが、会うのは初めてだった。その人は黒いひげをはやしたたくましい体格の人で、朗々と話しかけてくれた。十年くらい公示係をやっているが、突然王宮に呼び出されたことは今までなかったという。もちろんジンも、初めてだった。そのあと長身美声の人もやって来て、急な招集におののいていた。これは命の危機だという。

 公示係はサンセクエの伝統的な仕事だが、人数は減っているし地位も昔より下がっている。文字が読めない人が多い時代はみんな公示係の声を頼りにしていたが、聖殿と、国や地方の領主が協力して学校を作り、識字率が上がってきた今では重要性が薄れているのだ。それに戦争のあとは王家や領主に対する信頼が下がり気味で、まともに公示を聞いている人も少ない。役所とは関係ない聖殿からのお知らせも請け負っているけれど、黙認されているし。

 そのためか、長身の人は歌うようないい声で、ついに免職されるのではないか、自分たちは人員整理の最初の犠牲だと嘆いた。黒ひげの人が、それならきみは歌い手になれとのんきに言うのでジンは賛同した。

 三人でしばらく話していると、床が高い音を立てた。こつこつと靴を鳴らして入ってきたのは、真紅の上衣をまとった人だった。見るのは公示係になったとき以来の、内務大臣だ。大臣は官庁の長にあたる。大臣たちは鮮やかな赤を着ることになっているので、よく目立った。内務大臣のうしろからは、彼と同じ真っ赤な服を着たひとりとそのほか何人かの付き人たちがやって来て、離れたところに並んで立った。ジンはそれを眺めていた。

 黒ひげの人と長身の人が頭を下げるので、ジンも我に返ってお辞儀をする。危ない、上官に失礼なことをしていると本当に仕事がなくなるかもしれない。

 「いやいや、急に呼び出してすまないな」

 まろやかな口調で内務大臣が言った。

 「公示係の諸君。本日はこれから、臨時の公示を申しつけることになった」

 やめさせられるのではないらしい。ジンはこっそりふたりと目配せし合った。

 「では、宮廷庁長官どの、頼みます」

 内務大臣が言うと、隣で立っていた人が進み出た。王族に関わる仕事をする宮廷庁の、大臣らしい。宮廷大臣は喋りだした。

 「あなたがたは、国王陛下の名のもとに発せられたる最新かつ正統な公示を迅速かつ正確に民に知らしめることにより、民をして国および民衆全体の益にかなう適切な意思の決定をなすことを得さしめ、もってサンセクエ王国および国王陛下への忠心を醸成することを目的とした職務を、内務庁大臣の管轄のもとに遂行する内務庁所属官人です」

 ジンは、たぶん横のふたりも、あっけにとられていた。そんなことは身分証を初めて受け取ったときにも言われた気がするが、百年ぶりに聞くと思う。宮廷大臣は滑らかに話しながら、感情を消したような顔で、ジンたちのうしろの壁か何かを見ているようだった。

 「その役割を忘れないようにしてください。これよりあなたがたに頼むのは、重要事項の公示です。まずはあなたがたにお知らせしておきます」

 宮廷大臣が合図をすると、控えていた付き人が紙を差し出した。それを受け取り、大臣は広げて読み上げた。

 「今朝早く、サンセクエ王国国王陛下ご嫡男、サジャク王太子殿下が、いたましい事故によりおかくれになりました。どうかクェパさま、癒しをお与えください」

 



***




 黒ひげの人と長身の人とジンは、宮廷役人用の制服に着替えさせられ、王太子の訃報を知らせに回ることになった。渡された制服はすべてが真っ白だった。異様なほど穢れのないその衣装に袖を通すと、余計なことを口にする気がまったくなくなり、無言の会釈だけでふたりとは別れてしまった。

 真っ白な服に着られたジンは街を歩きまわって、「職務を遂行」した。ジンを見た人々は一様にぎょっとしていた。そのあとの反応は、気味悪そうに顔をしかめたり、死体を見たように目をそらしたり、なぜか崇めるように手を合わせたりといろいろだ。知らせを聞くとみんな静まり返ったけれど、しばらくするとそばの人と顔を見合わせて、何かひそひそと話していた。

 王太子の身に起きた「いたましい事故」については、海に面した崖の上の城壁から落ちてしまったのだと説明され、ジンはそのとおりに人々に伝えた。内務大臣は、あらぬ噂が立たないよう、早めに正式な発表を行う必要があるのだとかなんとか言っていた。ジンが出るころの王宮の空気は、どこかぞわぞわと落ち着かなくなっていた。

 仕事が終わるころも空は晴れていて、灯火のような夕日が見えて、この世の終わりみたいだと思った。

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