3. 美辞と空言

3-1 稚拙と蜂蜜

 ウルカの店を出てから、ジンは前と同じようにヘテヤと手をつないで歩いていた。ヘテヤはしゅんとうつむいている。そのうえ頭巾を深くかぶっているので、表情をうかがうことができない。でも、落ち込んでいることがよくわかった。

「ヘテヤ」

 ジンは合図するようにヘテヤの手をきゅっと握った。

「だいじょうぶだよ」

 ヘテヤがのそりと顔を上げる。

「だいじょうぶかなあ……」

 ほとんど泣きそうな顔でヘテヤはつぶやいた。ジンは笑ってうなずいた。

「だいじょうぶ。今ごろちゃんと食べてるよ」

「うん……」

 泣き声みたいな音を立てて、凍るような風が吹きすぎていった。ヘテヤの頭巾が脱げたので、ジンはそっとかぶせなおした。

「ありがとう」

 意気消沈していても、ヘテヤはちゃんとお礼を言う。ジンは微笑んだ。

「ヘテヤに心配かけるなんて、ウルカさんも罰当たりな人だな」

 ヘテヤはこたえなかった。しばらくして、ぽつりと言った。

「ウルカはへたくそなんだよ」

 ジンはヘテヤを見た。ヘテヤは自分の足元を見ながら歩いていた。

「ぼくは生きるのがへたくそだってディーオが言うんだけど、ウルカのほうがすっごくもっとへたくそだよ」

 ジンは相槌を忘れそうになった。

「……なんで?」

 ヘテヤは首を傾げ、なんだか不満そうにこたえた。

「だってぼくたちの監獄以外食べないし、外に出ないし、いつも寝てるし。へたくそだよ」

 ああいうのをへたくそって言うんだよ、とヘテヤはきっぱりと言い切った。

「ぼくはへたくそじゃないよ。でもディーオは聞いてくれないの。頑固だからね」

 なんだか背伸びしたもの言いをして、ヘテヤはすましている。

「なんで、ディーオさんはヘテヤがへたくそだって言うんだ?」

 ジンはつい、聞いていた。ヘテヤはそれなんですよとばかりに話し出した。

「ぼく五歳まで聖殿にいたんだけどね。そこで、『いじめられてた』んだって」

「誰が?」

「ぼくが?」

 ヘテヤはふしぎそうに言った。

「ぼくが『いじめられてた』って言うんだよディーオが」

 ジンはこたえられなかった。

「ディーオね、ぼくが『いじめられてた』から、聖殿から連れて帰ったんだって」

 聖殿には孤児院もある。ヘテヤはそこにいたのだろうか。そこで、「いじめられていた」。

「ぼくは生きるのがへたくそだからいじめられたんだって。ぼくはいじめられたことないんだけど。でもいじめられてたってディーオは言うし……」

 ヘテヤは頭が混乱してきたのかぶんぶんと首を振った。

「いじめるって悪いことだよね。でもあの子たちは悪い子たちじゃないから」

 手をぎゅっと握られる。

「聖殿は楽しかったんだよ。大祭司さまはやさしくておもしろいし」

 ランサのことだろうか。ランサに聞いてみれば、ヘテヤを知っているのかもしれない。

「だからぼく、聖殿にいてもよかったんだけど」

 ヘテヤは口をとがらせていたが、やがてにこりと笑った。

「でも、今も楽しい。ディーオを世話するの。……あ」

 ヘテヤがぱっと顔を上げてジンを見た。目を見開き、伸びあがっている。

「どうした?」

「ディーオもへたくそだよ!」

 ヘテヤはすごくいいことを思いついたらしく、興奮気味の声で言った。

「ディーオもへたくそだよ、今日帰ったら言おうっと! たぶん怒って頭ぐしゃぐしゃしてくると思う!」

「ぐしゃぐしゃ?」

「うん、いつも怒ったらね、髪をわしゃわしゃってするの、ぼく犬じゃないのに」

 ヘテヤは楽しそうに言った。

「ほら、人間をわしゃわしゃする人って生きるのへたくそだよ!」

「そうかもな」

 ジンは笑った。

「でしょ?」

 ヘテヤはがぜん元気が出てきたようで、空になったかごを振り回し始めた。

「よし、ぼく明日もウルカに会いに行くよ。ぼくは朝行ってみるからね、ジンは夕方ね」

「助かるよ」

 任せてよ、と言ってヘテヤはにやりと笑った。

「ありがとう」

 ジンはヘテヤの肩をぽんと叩いた。

「あとさ、お願いしたいことがあるんだけど」

 言うと、ヘテヤは目を輝かせる。

「いいよ! 何?」

 純粋なまなざしが、とても眩しい。

「あのな、監獄、注文したいんだ」

「ありがとうございます!」

 ヘテヤは勢いよく言ってくれた。救解日に持っていく供え物として、頼もうと思っていたのだ。

「ひとつ、頼めるか?」

「承りました!」

 ヘテヤの大きな声が暗い街に響いた。日時を伝えると、ヘテヤは何度も繰り返して神妙な顔でうなずいていた。




***




 いつものようにネイレと荷物をめぐって争い、ジンは階段を上った。すると向かいの部屋から、チャミンが出てきた。

「あ、戻りました」

 ジンが言うと、チャミンはうなずいた。

「おかえり」

 部屋に入ろうとすると、チャミンがうしろから言った。

「あんた、最近遅いけどいい人でもできたの」

 ジンはわざとらしく目をむいて振り返った。腹に拳を食らったときのようにつぶれた声を出す。

「ああっ、ばれましたか……」

 チャミンは軽く肩をすくめた。

「よかった、あんたにそういう人ができて。楽しむんだよ」

 冗談か本気かわからない調子でチャミンは言った。

「はいっ、ありがとうございます」

 ジンは笑顔でこたえた。なんだか視線を感じて顔を向けると、戸の陰からドゥイルがこちらを見ていた。信じられないというように、大きく目を見開いている。

「あ、ドゥイル……」

 ジンは焦った。

「いいもんだね、若いって」

 チャミンはひとごとのように言ってジンの背中を叩くと、階段を下りていってしまった。

「えっと……」

 ジンは顔をひきつらせた。ドゥイルは固まったまま動かない。

「いや、今のは違って……」

「いや、かまわない」

 ドゥイルは急に訳知り顔で言った。

「何も言わなくていい」

「あのさ……」

「言うな」

「だから」

「だいじょうぶだ」

「だいじょうぶって」

「問題ない。わかってるから」

「……悪い、何を?」

 かたくなに説明を拒むドゥイルに今のは冗談だと理解させるのには、ずいぶん骨が折れた。




***




 なんとかドゥイルをなだめすかして夕飯を食べたあと、ドゥイルはネイレが淹れてくれた薬草茶を持って二階に上がっていった。薬草茶を飲んだらネイレも自分の部屋に行ってしまったが、ジンは食卓に座っておかわりしたお茶をすすっていた。古い蜂蜜のほんのりしたあまさと、その奥のほろ苦さを、口の中で転がしていた。

 斜め向かいにはチャミンが座っている。チャミンもゆったりとお茶をたしなんでいた。ふたりになることは珍しいが気づまりではない。でもなんとなく、ジンは話しかけた。

「チャミンさん」

 チャミンがなんだと言うように目を大きくする。

「ドゥイルに勘違いされてひどかったですよ」

「まだ言ってるの」

 チャミンはあきれたように少し笑った。ジンはまじめな顔で訴えた。

「あいつはその手の話になると無駄に繊細なんです。てきとうなことをされたら困ります」

「そうだねえ」

 チャミンは優雅に器を傾けている。

「おとといくらいも、なんかあったみたいだしねえ」

 ジンは大きくうなずいた。

「そうなんですよ」

 チャミンもジンと同じで、ネイレに対するドゥイルのぽんこつさ加減を海より広い心で見守っている。

「ネイレは、ドゥイルがよくわからないけど急にあわてだしちゃったって、言ってたけどね」

 チャミンはたくましい手つきで蜂蜜の瓶の蓋を開けた。固形になってしまった蜂蜜をたっぷりと匙ですくって、器の中に追加する。

「そうなんですか」

 ジンは渡された瓶を素直に受け取って、白いかたまりを残り少ない薬草茶の中に入れた。

「うん。でも、そうだけど、そうじゃないんだろうね」

 チャミンは器の中をくるくると混ぜながらつぶやく。少し寂しそうに見えた。

「そうかも、ですね」

 ジンも匙を動かしながら、こたえた。

「全部は聞けないからね」

 チャミンが言った。

「全部知ってるつもりでもね、全然知らないことばっかりだよ」

 チャミンは、混ぜるのをやめてもぐるぐる回り続ける液体を見ていた。

「チャミンさんでもそうなんですね」

 ジンが言うと、チャミンは少し眉を寄せる。

「でも?」

「だって、ネイレさんといつもいっぱい話してるから」

 隠し事なんてなさそうに見える。チャミンはふっとやわらかく目を細めた。

「話してるけどね。あんまり取り上げてもいけないと思ってね」

「取り上げる」

「そう」

 チャミンはうなずく。ジンはさりげなく自分の手元に目を落とした。

「昔父親が言ったんだけどね」

 チャミンは器を両手で包み込んで言う。

「人の経験は重いんだって」

 ジンは顔を上げた。チャミンは器を揺らしながら、ジンを見た。

「宙に浮いてる人、見たことある?」

 冗談めかしたような問いに、ジンは少し笑って首を振った。

「ないですね」

 チャミンも小さく笑みを浮かべた。

「わたしもないよ。……父が言うにはね。みんな、自分の今までの経験の重みで地に足つけてるんだって。過去の重みで立ってるんだね」

 ジンは黙って聞いていた。

「宙に浮いてる人がいないってことは、今まで経験してきたことが、軽い人いないってことでしょう」

 チャミンは言って、ひょいと肩をすくめた。

「ということは、なんか知らないけどみんな、重いもの持ってることになるからね。だけどそれを、あんまり取り上げたらもしかして、浮いちゃうかもしれないでしょ」

「でも、生まれたばっかりの赤ちゃんも浮いてないですよ」

 ジンはのんきな声を出した。やけに響いてしまって、少し後悔した。チャミンは何度もうなずいた。

「そうそう、わたしも子供のときそう思ったよ。でも腹の中でもいろいろあるのかもしれない」

 チャミンはいたってまじめな顔で推測する。

「すでに何かしら経験が……」

 ジンはつぶやいた。

「うん、そうかもしれないでしょ。そういう話を聞かされたからね、浮かれたら困ると思って。近しくても、あんまり取り上げないようにしないといけないかなと思ってるわけだよ」

 チャミンは冗談か本気かわからない調子で言う。なぜだかぞわりと迫るような焦燥を感じて、ジンは口走っていた。

「でも、重すぎたら地面にめり込みます」

 するとチャミンが目を見開き、そしてふきだした。くすくすと笑いだす。ジンは驚いてしまった。チャミンが声を上げて笑うのは、なんというか、珍しい。初めて見たわけではないのだが。

「おもしろいね、それ」

 チャミンは愉快そうに言った。

「確かにそうだね、重すぎたらめり込むね」

「はい、めり込みます」

 人が笑うのに驚いてしまうなんて失礼だった。反省しながらも、ジンは自分の主張を貫いた。

「その考えはなかったね。浮かれるのも困るけど、めり込まれるのも困るなあ」

 チャミンは少し、遠い目をした。

「難しいね」

 しみじみとしたチャミンの言葉にはこたえなかった。抱き上げたウルカの、ぞっとするような軽さを、思い出していた。今日も行ったからもう時計は返してもらえないのかなと、関係のないことを考える。

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