2-6 愚劣な氾濫

 うるさい客は帰っていった。

 笑みを含んだ声と、そっと戸を閉める柔らかい音を残していった。

 やっといなくなった。ウルカはふっと身体の力を抜いた。

 なぜか訪ねてくるようになった変わり者。脅しても拒んでもちっともこたえた様子がない。こんなろくでもない存在に、かまおうとする愚か者だ。

 でもさっき、確かにおもってしまった。

 帰らないでと、心の奥底から悲鳴が上がった。ぞっとした。その小さな叫びを握りつぶして、なんとか追い出した。

 ウルカはぎゅっと目を閉じた。横向きに寝転んだまま膝を抱える。

 情けなくて悔しくて、胸の中が焼ける。どうでもいい。全部どうなろうとかまわない。そうおもっているはずなのに、だめだ、心細くて、生きたくて、死ぬのは嫌で。


 ジンが初めて店に来て、ヘテヤと一緒に帰っていった夜、勝手に戸が開いた。そして誰かが入ってきた。店は閉めているとも開いているとも表示していないけれど、普通の客が訪ねてくるようなときではなかった。その人は、床をぎしぎしと鳴らして近づいてきた。

 何かいけないものが来たと直感した。血がざわざわと暴れだして、心臓が壊れそうに早鐘を打ち始めて、それなのに身体は固まってまったく動かなかった。

 その誰かはウルカに気づいていないのか、机の引き出しに手をかけた。鍵をかけ忘れていたから、引き出しは滑るように開いた。誰かは引き出しの中を探り始めた。泥棒だ、とわかった。初めてのことだった。ウルカは長椅子の上で動くこともできず、引き出しを荒らす人に釘付けになっていた。暗いし、顔を布で覆っていてどんな人かはわからなかったと、正気に戻ってからおもいだした。そのときは、目の前で起こっていることを処理しきれずにただ目を開いていただけだった。

 その人はひととおり引き出しの中を引っ掻き回し、苛立ったように机を蹴った。重い机は微動だにしなかった。

 そしてその人は、振り返った。

 黒い影にしか見えなくて。真っ黒に塗りつぶされた怪物に、見つかったとおもった。

 殺されると、おもった。

 忘れていた、忘れようとしていた感覚が腹の底からぼこぼこと湧き上がって、一瞬のうちに喉を、心臓を締めつけて。

 嫌だ。

 死にたくない。

 助けて。

 『おねがい……っ!』

 気がつくとウルカは、影にすがりついていた。嘔吐するように出した声は乾きすぎていて、まともな叫びにはなっていなかった。

 『おねがい、おねがいですころして……!』

 ウルカはごわごわした布に額を擦りつけて懇願した。

 『わたしをころして、ころしてくださいおねがい……』

 嫌だ。

 『はやくして、はやく……!』

 死にたくない。

 『ころして……』

 助けて。

 『おねがい……』

 突然、乱暴に払いのけられてウルカは床に転がった。衝撃で息が詰まり、頭の中身が揺れた。大きな足音が遠ざかっていくのが聞こえた。

 『まって……』

 目の前がぐるぐると回っていた。ひどく頭が重くて冷たくて、どこが床で何が天井かわからなくて、起き上がることができなかった。ウルカがなんとか手だけを伸ばしたとき、がたんと拒絶するような音を立てて戸が閉まった。

 つぎに目を開けると、窓から薄い光がもれてきていた。どうにか長椅子に這い上がると、ひどい疲労を感じた。

 あまりにも愚かしくて、もう笑えた。

 だって、どうでもいいって。

 人間じゃないようなことをした自分なんて、もうどうでもいいって、おもっているはずなのに。

 常にないものが目の前に迫ってきたら、動けないほど恐怖を感じる。

 嫌だ死にたくない助けてと、内側が勝手にうるさくわめく。

 どうでもよくなんて、ないんじゃないか。

 自分の命が、大事なんだ。

 安心していたいんだ。

 生きていたいんだ。

 助けて、ほしいんだ。

 そんなふうにおもう資格はないのに。

 だから全部、どうでもいいって。

 どうでもいいって、おもっているはずなのに、それなのに。

 どうでもいいなら、さっさと消えてなくなればいい。

 でもそれをしない。

 まだかわいいんだ。

 自分がかわいいんだ。

 だからこんなところでずっと寝ていて、人に迷惑をかけて嫌なおもいもさせて、雑に中途半端に生きている。

 ああなんで。どうしてそんなふうに存在しているんだろう。

 全部、どうでもいいからだとおもっていた。

 でも違う。

 どうでもいいなんておもえていない。本当にどうでもいいならもうきっとここにはいない。どうでもよくないのに、それでもおもい込もうとして、でも無理だから、こんなに稚拙に生きている。

 自分なんかどうでもいいなんて、おもえていない。


 きつく閉じたまぶたのあいだから涙がこぼれる。どうして泣いているのか。自分が情けなくて恥ずかしいからか。かわいそうだからか。ひとりで、襲いかかってくる感情に耐えている自分に酔っているからか。

 なんで。

 なんでこんななの。


 泥棒が入ってきたつぎの日から、動く気がなくなって何もしなかった。食べることもしなかった。荒らされた引き出しを片づけることもしなかった。聖域を踏み荒らされたはずなのに、そんなことはちっとも気にせず、ただ自分の身だけが心配だったことに気づいてしまった。

 ウルカは壊れたものを、質草として好き好んで預かっていた。普通の質屋がこれでは金は貸せないと言うような、使いものにならないものを持ってきた人に高い金額を貸していた。だからまともに返しに来る人はあまりいなくて、でもそれでよかった。もう必要とされないようながらくたたちに親近感を覚えて、集めて眺めてうっとりしていた。人間じゃない自分には値打ちのないものがお似合いで、そんなものたちは友達なんだとおもっていた。そのつもりだった。

 でもそれも、違ったのだ。本当にそうなら、友達の部屋が侵されるなんて耐えられなかったはずだ。お金を目立たないほうの引き出しにしまうなんてことはしていないはずだ。

 壊れたものを集めていたのは、価値のないものに陶酔する、壊れた自分を演じて浸るためだった。世界から完全に脱落しているんだとおもい込むためだった。そのことを、おもい知らされてしまった。

 全部どうでもよくて、狂ったような生き方をしているとおもっていたけれど、違った。

 助けを、求めていたんだ。

 救いを、乞うていたんだ。

 みっともない。

 人間じゃないくせに。

 みっともなくて仕方がない。

 ぼんやりと天井や壁を眺めて、ときどき発作のように自分の愚かさをおもって身震いした。

 ほとんど眠れなかった。怖いのだ。また何か入ってきたらとおもうと恐ろしいのだ。そんな自分が、心底気持ち悪かった。怖がって鍵をかけたらおしまいのような気がしたから、鍵はいつも通りに開けっ放しにしていた。

 そうしていたら、ジンが来た。

 めちゃくちゃになった引き出しを整理して、ウルカに監獄を無理やり持たせてから帰っていった。

 今日も来た。

 こんなところに来るなんておかしい。自分のようなものにかまうのは正気の沙汰とはおもえない。でも、ジンの天井を突き抜けそうな声を聞くとなんだかほっとしてしまって。自分が半端な世の中のお荷物だということも、いっとき忘れてしまって。

 ジンが店の中にいたら、なんだか息をするのが楽だった。

 だから今日、ジンが帰ろうとしたときにあわてて起き上がってしまった。

 引き留めようとしたのだ。

 すぐに我に返って、追い出した。


 ウルカを襲って吞み込んでいるのは、吐きそうなくらいの嫌悪だった。搔きむしりたいほど胸の中が荒れていて、叫び出さないと狂ってしまいそうだ。

 でも、叫ぶ力はなかった。ウルカは絞り出すようにうめいた。涙を流しながら身もだえた。

 たすけてと、身体のいちばん奥で、小さな小さな声が訴えている。

 黙れ。

 お願いだから黙ってくれ。

 消えてくれ。

 ウルカは自分の肩をさすって叩いて、ぎゅっと爪を立てた。

 「たすけ、て……」




***




 ウルカは水の中を漂っていた。下のほうにいくほど真っ暗で、底があるのかもわからない水の中だった。ウルカはゆっくり、ゆっくりと沈んでいた。ふと明るい水面のほうから、誰かの声がした。よく聞こえないけれど、呼ばれているのだとわかった。

 呼んでくれてるんだね。でも、そっちには行けないよ。だってわたしは人じゃないうえにすごく馬鹿で、迷惑しかかけない。ねえ、だからもう、わたしのことは放っておいていいんだよ。

 でも、嫌だなあ。

 やっぱりあの暗いところに、沈むのは嫌だなあ。

 怖いよ。すごく怖いよ。

 ねえ、助けて。

 引き上げて。

 「ウルカさん?」

 ウルカは陸にいた。

 そばではっきりと、聞こえる。少し焦ったような、うるさい客の声だった。

 重いまぶたを上げてしばらくすると、ジンの顔が見えた。おおげさなくらい心配そうに覗き込んできていた。

 「だいじょうぶですか? 痛いところ、ないですか?」

 腕が痛いとおもったら、ジンに掴まれていた。

 「頭打ってないのかな……。おれのことわかりますか?」

 ジンはやたらと深刻な表情でこちらを見つめてくる。窓から差し込む弱々しい光の中で、ジンの瞳は虹を映したように見えた。青に、黄みの強い茶色が混ざり切っていないような、不思議な色だ。こんな目をしていたんだなと、ウルカは妙に感心した。

 「ねえちょっと、ウルカさん?」

 ジンが眉をつりあげる。ウルカはこくりとうなずいた。

 「わかる……」

 「誰?」

 「時計……」

 ジンは一瞬目を見張って、仕方なさそうに笑った。

 「そうです。けが、ないですか?」

 さっきから何を言っているのだ。ウルカは目線を動かし、自分が床に寝ていることに気づいた。長椅子から落ちていたらしい。

 「ない……」

 掴まれている腕以外はどこも痛くなかった。落ちても気づかず寝ていたようだし。するとジンはほっとしたようにウルカの腕から手を離した。

 「よかった。びっくりしましたよ下に寝てたから。ほら起きて」

 身体と冷たい床のあいだにジンの腕が入り込んできて、上半身が起こされた。ウルカはされるがままぼんやりとしていた。もう、この客が来るような時間になったのか。一日中死んだように寝ていたものらしい。

 「寝ぼけてますか?」

 ジンがあきれたように聞いてくる。ウルカは首を傾げた。

 「あっ、また何も食べてない」

 ジンの声がとがる。そうかもしれない。なんだかふわふわして、力が入らない。

 「あの、何かありましたか?」

 ジンがウルカを抱えて長椅子に座らせながら言った。

 「食欲なくなるようなことありました?」

 ウルカははっとしてジンから離れた。拒絶しても、自分の馬鹿さ加減を露呈して、おもい知るだけなのに。歯を食いしばってうつむく。

 「えっと」

 ジンが下から覗き込んでくる。

 「なんとなくわかったので、とりあえず何か食べてほしいです」

 ウルカはジンの視線から逃れようと顔をそらした。

 「そのへんをうろうろしてるので。ウルカさんのこととか見てないので。監獄と骨、どっちがいいですか?」

 そのとき、呼び鈴が鳴った。

 「ウルカ! ヘテヤだよ! 入るよ!」

 元気な声が聞こえる。ジンがウルカの代わりにこたえた。

 「どうぞ!」

 「えっ誰? あっ、ジンだ!」

 入ってきたヘテヤは、かぶっていた黒い頭巾をうしろに払ってジンに駆け寄った。

 「ジンも来てたんだね!」

 会えてうれしいとヘテヤの全身が叫んでいる。ジンも笑顔でヘテヤの頭を撫でる。

 「今日もありがとうヘテヤ」

 ウルカが言わないお礼をジンが言った。

 「うん!」

 ヘテヤは輝くように笑ってうなずくと、机の上にかごを置いた。

 「ウルカ、今日はね、魚の監獄だよ!」

 「それはいいな」

 「うん! おいしいよ!」

 ふたりは楽しそうにかごから監獄を取り出している。

 「あれ?」

 ヘテヤの動きが止まる。

 「これ、ウルカ」

 机の上に残っていた林檎の監獄を見つけたらしい。ウルカは黙っていた。

 「ええっ全然食べてない! どうしよう!」

 かぶせていた布をめくったヘテヤは飛び上がって叫び、ウルカの膝にすがりついてきた。

 「ねえどうしたの? だいじょうぶ? ねえウルカだいじょうぶ?」

 ヘテヤは必死になってウルカを心配している。

 ウルカはうなずいた。

 「もう食べるから」

 ヘテヤの肩にそっと触れて遠ざける。

 「食べるから帰って」

 ヘテヤが何か言おうとするのをさえぎった。

 「ふたりとも帰って」

 しばらく部屋の中は静かだった。やがてジンが朗らかに言った。

 「火だけつけていきますよ。また明日も来ます。ちゃんと上で寝ててくださいね」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る