2-5 透明な距離
ウルカの純粋な感情の端に触れたように思って、ジンは身を乗り出していた。
「ピョルさんのこと、知ってるんですか?」
「ピョルさんは……」
言いかけて、ウルカははっとしたように言葉を切る。でも、すぐにこたえようとしてくれた。ジンは何度もうなずきながら言った。
「ピョルさん、かっこいいですよね。助けてもらった人多いんだろうな」
ウルカは否定も肯定もしない。でもジンはかまわず話しかけ続けた。
「ピョルさんに紹介してもらってここに来たんです。ピョルさんも来てたんですか?」
「来てても言わない」
ウルカが返事をした。まともに返してくれたのは、銀貨二枚を借りるやり取りをして以来だ。ジンは思わず大きな声を出した。
「あ、そうか!」
「……うるさい」
ジンは口を押さえた。そのまま喋った。
「ほかのお客のことは言わないってことですね。おれが不躾でした、すみません」
ウルカはこたえなかった。
「ピョルさんの店には行ったことあります?」
「忘れた」
「え?」
「知らない」
忘れたはともかく知らないということはないだろう。ジンに話したくないか、単に話すのが面倒なのかもしれない。
「そうか」
ジンは簡単にこたえた。
「また今度教えてください」
「忘れたから話せない」
ウルカがちゃんと会話らしきことをしてくれるのが新鮮だった。内容は乏しいが、無視されたり「帰れ」ばかり言われたりするよりはましな気がする。
「わかりました、思い出したら教えてください」
ウルカは無言になった。でもそれは、こちらに関心を向けない黙殺ではなく、あきれてものが言えない沈黙という感じがした。あきれ返られても無理はない。かなり鬱陶しい絡み方だとは自覚している。でも、何も気づかず素でやっているふりをする。それにジンのほうでも、ウルカの生活態度にはかなりあきれているからおあいこだ。
「ねえちょっと、骨食べてみません? おいしいですよ」
ジンはウルカのそばに寄って香る骨の袋を差し出した。顔が見えないのでどんな表情をしているのかわからないが、ウルカの周りの空気はとがってはいなかった。でもウルカは、やっぱり受け取らなかった。ジンはウルカの顔のそばに袋を置いた。
「何が好きなんですか?」
壁を見つめて横になっているウルカのそばにかがんで、聞いてみる。
「食べものじゃなくてもいいです。動物でも、色でも場所でも」
「聞いてどうする」
ひとり言のようにぼそりとつっこまれて、ジンは口を曲げた。
「確かにどうもならないけど。特に食べもの以外はどうしようもないですね、買えないから。食べものもあんまり買えない」
「骨買う金があったらわたしに返せ」
「辛辣……」
でも確かにそうだと思った。
「でも、ウルカさん監獄食べてないじゃないですか。ほかのものなら食べるのかなって」
「骨は嫌い」
「あの、絶対口悪くなってますよね。縫いつけられますよ」
ジンはヘテヤの言葉を借りた。
「やれるもんなら」
ウルカはどうでもよさそうに言った。なんだか笑えてしまった。どうでもいい話が続いていることは、うれしいことなんだと思う。
「お客さんは来ないんですか?」
ジンはあたりを見回しながらたずねた。天井などをじっくり見たのは初めてだ。蜘蛛の巣は張っていなかった。ウルカはつっけんどんにこたえた。
「お客は時計以来来てない」
「時計?」
わけがわからずジンが首をひねると、ウルカは投げやりな調子で教えてくれた。
「時計持ってきた人」
「ああ、おれ?」
ジンは笑った。時計呼ばわりされたことはなかった。試しに聞いてみる。
「ウルカさん、おれの名前覚えてます?」
ウルカはこたえなかった。
「ジン・サナルダです」
一応もう一度名乗って、長椅子を叩いて立ち上がる。するとウルカが起き上がって振り向いたので、ジンは驚いてしまった。目が合う。その瞬間、ウルカはびくりと肩を揺らして目をそらした。そしてすぐに、倒れるように長椅子に寝転んだ。
「帰って」
突然、突き刺すようにウルカは言った。
「明日来たら時計流す」
「えっなんで?」
「……帰って」
ウルカの声が平坦になる。
「もう来るな」
「えっと、せっかくちょっと話ができたと……」
「帰れ」
もう全部から、興味を失ったような言い方をした。
でも。
でもそれは、嘘だ。嘘だってわかる。わかってしまう。きっと化けの皮がはがれかけて、怖くなってしまったんだって、痛いくらいに。なぜだか、目をそらしたいくらい鮮やかにはっきりと、理解できてしまう。
「わかりました」
ジンは明るくこたえた。
「また明日」
ウルカが言葉を失っているあいだに、ジンは靴を鳴らして扉に歩み寄り開け放った。
「ちゃんとその骨、食べてくださいね。じゃあ元気で」
言い残して、店を出た。
***
下宿に戻って、チャミンとネイレとドゥイルと、四人で夕飯を食べた。それからそれぞれ部屋に入った。ジンは明かりを消して、寝台の中で布団にくるまっていた。
ドゥイルは隣の部屋できっと本でも読んでいるだろう。ドゥイルは、十五歳まで学校に通っていたと聞いた。ジンは七歳から十歳までの三年間、村の聖殿で読み書きや簡単な計算を習ったくらいで、王国の大部分の人がそうだ。十歳を過ぎても学校に通い続けられるのは、身分のある家の人くらいだった。ドゥイルの家は、家格はそこまで高くないが、由緒があるらしい。チャミンがそれとなく教えてくれた。ドゥイルはいたずらに長く学校に通っていたわけではないらしく、頭がいいしよく本を読む。王宮の書物庫から借りてくることもあった。
普段意識しないが、給金もジンより高い。でもドゥイルはまったく偉そうにはしないし、反対に変な気遣いをしてくることもなかった。倹約をしているらしく、金銭感覚はジンと似ている。
身分がある家の子息なのに、どうして倹約をして下宿しているのかははっきりとは聞いていない。でも、なんとなくわかるような気はしていた。
ジンが下宿に入るころには、ドゥイルはすでに二年ここに住んでいた。年の近い人とお近づきになりたく、ジンはさっそくドゥイルに絡んだ。お互いのことをぽつぽつと教え合った。
ジンは、戦争で家族が死んで逃げてきたと、あながち違うとも言えないくらいのことしか話していないが、ドゥイルはわりと詳しく教えてくれた。それはジンと同じで、当たらずとも遠からずな内容なのかもしれないが。でも、話せるドゥイルになんとなく憧れた。
ドゥイルにはふたりの兄がいて、長兄は今も大蔵庁に務めている。もうひとりの兄は、十五で国軍に志願して戦争に行き、なくなっていた。兄が戦死したという知らせを受けてから、なんとなく家を出ることを決めたのだとドゥイルは話した。
何かがだめだと叫んだのだろう。きっとそうだ。これ以上ここにいてはいけないと、五感以外の何かが警告したのだ。そういう声はきっと大事で、しっかり聞いてやらなければならない。その感覚に従ったドゥイルは賢明だったと思う。ドゥイルは頭がよくて賢くて、落ち着いているのにおもう人のことになると残念な、ちゃんとした人間だ。だから、近くにいたいと感じる。
くすくすと、小さな笑い声が聞こえる。ネイレとチャミンが話しているのだ。笑っているのは主にネイレだ。ふたりはときどき寝る直前までひとつの部屋で話し込んでいる。仲がよくて、なんだか微笑ましい。ネイレもチャミンも、ちゃんと、一生懸命生きている人たちだ。一緒にいて、気持ちがいい人たちだ。
ネイレは働き者でいつも笑顔を絶やさないし、チャミンは少し不器用だが、あたたかくてやわらかい心の人だ。ふたりで協力して下宿を切り回して、お互いを大切にして、本当の親子ではなくてもしっかり結ばれているのがわかる。戦争中の疫病という悲惨な状況の中で、ネイレは両親を、チャミンは姉をはじめとする家族をなくした。それでも、折れてしまうことなく過ごしてきたのだ。ふたりはこれからもきっと、しなやかに生き抜いていくのだろうと思う。
ジンは布団にくるまりなおした。今日はなぜか、なかなかしっくりくる体勢が決まらなかった。いつも同じような姿勢で落ち着いて寝ているのに、今日はその姿勢がはまらなかったのだ。意外と大問題である。
試しに横向きになって背中を丸めてみると、ウルカのことを思い出した。今日は、話ができたと思ったのにまた、帰れ攻撃にあった。でも、一歩くらいは近づけた気がする。最後に、急にうしろに飛びのかれてしまった感じはあるが、一瞬は、確かに距離が縮まった。と思うことにする。気まぐれだったのかもしれないが。
とりあえず今は、濃いくまができていたウルカがちゃんと眠れていたらいいのにと、思う。ろくに食べてもいないし、きっとあまり眠れていないのだろう。ウルカの血色の悪さには慣れてきてしまったが、あれは健康な人の顔色ではありえない。体調最悪だ。くままでできてしまっていたのが、急に重大なことのように思えてきた。監獄が減っていなかった三日のあいだに何かあったのだろうかと思い至る。明日聞いてみようと決めた。
心を閉ざした、ふりをするウルカと同じ姿勢はなんだか落ち着いた。
明日行ったら時計を取り上げられるらしいが、それでも訪ねる。あの人は、ちゃんと生きるなんてごめんだと冷めた口調で言って、本当の気持ちを隠しているから。差し伸べられる手を待っているから。救われたいって、言っているから。それでも素直ではいられなくて、はねつけようとしているのだ。
救われなきゃいけない。
望んでいなくたってみんな、救われるべきだから、求める人には全力で与えに行かなければならない。人間はそうやって生きるべきで、それがきっと正しい。
そうじゃなかったら、そんなのおかしいとか言われたら、この世界が本当にわからなくなる。わからなくたっていいとか、思ってはいけないのだ。
ジンは覚えず薄い笑みを浮かべていた。急に眠気に誘い込まれる。もういいからこっちに来いと、呼んでいる。笑い声と抑えた話し声と、あたたかい気配が急速に遠ざかっていく。沈み込むように、落ちていった。
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