2-4 危うい融解

 つぎの日の朝は、四人で食卓を囲んだ。ネイレの目はもう赤くなかったし、ドゥイルも普段どおりに戻っていた。ジンは鳩が届けてくれた紙と鍋と杓子を鞄に入れて、薄暗い雲に蓋をされた空の下に出た。

 ちらりと光るものが目の前を横切る。なんだと思ったとき、また何かが流れ星のように落ちてきた。ジンは空を見上げた。建物の屋根に四角く切り取られた空から、ちらちらと、おりてくる。ああ雪だなと気づいたときには、もう白い粉雪に周りを取り囲まれていた。ふわふわと頼りなく風にあおられながら、降ってくる。灰色の街がますます寒くなる気がして、ジンは襟巻きを口元まで引き上げた。

 みんな雪には目もくれずに黙々と歩いている。サンセクエでは雪が積もることはあまりないが、降ってくるのは特別珍しいわけではなかった。

 ジンは寒々しいウルカの部屋を思い出した。昨晩暖炉につけた火はもう消えているだろうか。持たせた監獄は食べただろうか。あんな人は、ちゃんと気にかけておかないといけないのだ。

 雪が舞う中を歩いて、ジンは運河の橋の上に到着した。運河をはさんだ両側の道は、無彩色の人でいっぱいだ。船の上では魚がたくさん死んでいた。

 ジンは鞄から鍋と杓子を引っ張り出し、ぶつかり合わせてがんがんと鳴らした。

 「みなさんおはようございます! 今日のお知らせの時間です!」

 雪でかすむ視界の中、ジンは元気よくお知らせを読み上げていった。

 「最後です!」

 今日は、口をはさむ若者はいなかった。

 「国王陛下はおれたち民衆に、いつもお心を寄せてくださっています」

 以上。

 「今日はこれでおしまいです! みなさん雪に気をつけてください!」

 大声を出してあたたまっているはずだけれど、冷たい空気を吸いすぎて冷えている気がする。ジンはかじかむ手で紙をたたみ、鞄にねじ込んだ。




***




 昼を過ぎて、雪は積もらずやんでいた。でも空は煮え切らない色をしたままだ。冬はたいていこうで、青空が見えることは滅多にない。

 ジンは料理屋の隅の椅子に腰かけて、芋の監獄を食べていた。これは店で注文したものではなく、チャミンが持たせてくれたものだ。

 この店は、ウルカの質屋を教えてくれた人が営んでいる。その人はピョルダルという、六十代くらいの男性だ。店はいつも混雑してざわざわと騒がしい。あたたかいというより熱気がこもっていて、ちょっと暑苦しい感じがする。香ばしい匂い、甘い匂い、それから酒の匂いと、いろいろな匂いが主張し合っている。

 ジンはほとんど毎日、ピョルダルの店の中で家から持ってきたものを食べていた。非常識な行為である。ジンもそれくらいはわかっている。だから王都に来たばかりのころの冬は、外で凍えながら食べていた。そんなとき、ピョルダルが中に入れと言ってくれたのだ。お金がなくて何も注文できないから入りませんと断ると、そんなことは気にしなくていいと言われた。それからは、店の前を通るとなぜか客たちに引っ張り込まれるようになった。今では、寒くない季節でも店の中に入り込んでしまっている。

 暖炉の火が揺れる店の中には、統一感のない椅子と机が雑多に並び、客たちはそれをくっつけたり離したりして好き勝手に使っている。何か食べている人もいれば、熱心に喋っているだけの人たちもいた。

 ジンも手前勝手に芋の監獄を味わっていた。監獄は、冷めてもあまり味が変わらず食べられる。チャミンはよく作って持たせてくれていた。ネイレもチャミンも料理が上手で、ほとんど芋ばかりの食材でいろいろと工夫をしてくれる。この芋は不毛の土地でも育つから、農村が荒らされたサンセクエは今、芋王国となっていた。

 「おつかれ」

 不意に声をかけられてびくりとしてしまう。声の主を見て、ジンは立ち上がり挨拶した。

 「こんにちはピョルさん!」

 店主のピョルダルだ。ひげをたっぷり蓄えているので、この季節はあたたかそうに見える。ピョルダルは、たまにジンに声をかけてくれる。

 「質屋、行ってみたんですよ」

 ジンが言うと、ピョルダルはにやりと笑った。緑がかった青色の瞳が謎めいた光を放つ。

 「借りられたか?」

 「はい。ぼろぼろの時計で、金貨二枚って言われたんです。すごいですねあそこ」

 ピョルダルは笑みを浮かべたままこたえず、ジンの前の机に何かを置いた。

 「飲みな」

 それは湯気の立つ器だった。ふわりと、異国を感じるようなさわやかな香りがした。異国に行ったことはないけれど。

 「え、これは」

 ジンはピョルダルの顔と器を見比べた。

 「あったかいぞ」

 器の中には血のような赤がなみなみと注がれていた。

 「ありがとうございます!」

 ジンは頭を下げた。外套の隠しから財布を出そうとすると、ピョルダルが笑った。

 「お代とかいらない」

 「えっと」

 「わしのおごり」

 「そんな、また」

 そのとき、奥のほうから声がした。

 「ピョルさん、これおかわり」

 するとピョルダルは振り返りもせずに言った。

 「勝手に取りな」

 「うんわかったあ」

 この店はずいぶん自由だ。自由なだけでなく、ピョルダルはときどき、ジンに飲みものや食べものを持ってきてくれる。

 ピョルダルは器に向かって顎をしゃくった。

 「雪が降った記念」

 なんだかきざなせりふに、ジンは笑った。

 「ありがとうございます」

 素直にひとくち飲む。香辛料の香りと少しの甘みをつけてあたためた葡萄酒だ。優しいぬくもりが冷えていた身体の中に流れ込んできてとかしていく。なんだか、跡形もなく、全部とけてしまいそうな気がした。

 「おいしいです」

 ピョルダルがゆったりとうなずく。

 「寒いからな、気をつけて仕事しろ」

 「はい、ありがとうございます」

 「飲み終わったら器はてきとうに置いとけ」

 ピョルダルはそう言って、杖をつき片足を引きずりながら店の奥に戻っていった。

 その背中を見送ると、不意にくしゃりと顔が歪んだ。勝手に顔が動いた。ジンは唇をかんだ。ゆっくり息を吸って吐くと、落ち着いた。

 口角を上げて、ジンは葡萄酒がぬるくなるのを待った。




***




 仕事を終え、聖殿に挨拶を済ませたジンは、今日もウルカの店の前にいた。一応呼び鈴を鳴らすが、返事がないことを確かめるようなものだ。

 「こんにちは、サナルダです!」

 扉の前で声を張り、勝手に開ける。部屋の中は相変わらず薄暗く、殺風景だった。

 「こんにちは」

 ジンはもう一度言った。何も返ってこないのはわかっている。ちらりと見ると、暖炉の火は消えていた。

 奥に進むと、やっぱりウルカは長椅子の上に寝ていた。今日は背中を向けている。

 「あの、元気ですか? ちょっとだけいいもの持ってきたんですけど」

 ジンはひとり言みたいに言いながら鞄の中を探った。小さな紙包みを取り出す。中には、途中の店で買ってきた香る骨が入っている。香る骨はさくさくした食感の小さな焼き菓子だ。たいてい生姜で香りづけがしてある。冬によく食べられるものだった。

 「香る骨どうぞ」

 ジンは机の上に包みを置くと、もう三度目になる仕事に取り掛かった。窓を開けて暖炉の火をおこして、水を汲んでくる。なんだか勝手がわかって慣れてきて、手際がよくなった。

 机の上の林檎の監獄は、六切れ残っていた。昨日ジンが無理やり持たせたぶんは、たぶん食べている。でもそれ以上は手をつけていないようだった。

 「明日ですね、ヘテヤが来るの」

 ヘテヤは五日おきに来ると言っていたから。ウルカを見る。

 「これ、食べないとヘテヤに叱られませんか?」

 前はひと切れも残っていなかったので、前よりもひどい状態だ。なぜか三日間食べていなかったことが原因だろう。

 「ウルカさん」

 「帰って……」

 ウルカがだるそうな声を出す。ジンはすぐに言い返した。

 「うん、そんなに居座るつもりはないです」

 「帰って」

 「帰りますよ」

 「もう来ないで」

 ウルカはジンに背中を向けたままつぶやいた。

 「来るな」

 すごもうとしたのか、声がしわがれる。ジンは肩をすくめた。

 「来ますよ」

 机に手をついて上からウルカをのぞく。

 「だってほっとけないですもん」

 ウルカは見ていないけれど、ジンは笑顔で言った。

 「ちゃんと食べてるかなって、凍えてないかなって気になってるんですよ」

 ウルカは押し黙っていた。

 「悪いけど来ます」

 「嘘」

 ウルカが低い声で言った。

 「嘘だ」

 「え?」

 ジンは首を傾げた。申し訳ないけれど嘘ではないのだが。ジンが来るのが嫌すぎて、でたらめを吹聴していると思い込みたいのだろうか。

 「だいじょうぶ、嘘は苦手です」

 ジンは的外れなことを言った。

 「今日雪が降ったの知ってます?」

 関係ないことをのんびりと質問すると、ウルカが起き上がった。ジンのほうを振り返る。

 蒼いまなざしに射抜かれるように思って、ジンは口をつぐんでいた。

 「気分が悪い」

 何かと思えば、ウルカはひと言、そう吐き捨てた。

 「え、だいじょうぶですか……」

 「気分が悪い」

 ウルカはじっとジンを見ていた。

 「あっ、おれがいるから?」

 口走ったジンは、ウルカの目の下がひどく黒ずんでいることに気づいた。

 「……寝てますか?」

 思わずそうたずねていた。

 「えっと、横にはなってるんだと思うんですけど、ずっと起きてるんじゃないですか?」

 ウルカが軽く目を見張るのがわかる。少しだけれど、驚いた表情は初めて見た。でもウルカはすぐに目をそらし、また背中を向けてしまう。

 「ほっとけ」

 やさぐれたせりふに、ジンはふきだした。

 「寝てないんですか」

 食べないし寝ないのでは、また前のように気絶してしまうのではないかと思う。

 「食べてないからじゃないですか? 今からちょっと何か腹に入れましょう」

 ジンは香る骨の包みを破った。勢いでひとつが飛び出してくる。一緒に生姜の香りも広がった。

 「あっすみません落としました」

 ジンは机に落ちたひとつを拾って口に放り込んだ。さくりと軽い食感で、甘さはずいぶん控えめだ。生姜がきいていて少しほろ苦い。

 ざくざくと音を立てながら、ウルカの背中を眺める。

 「おれもう帰るので、食べてください」

 「……違う」

 ウルカがぼそりと言った。背中がぎゅっと丸くなる。

 ジンははっとした。

 「えっと……」

 今までと違う何かを感じ取った。

 なんだか、引き留められているような気がする。帰れとかうるさいとかいらないとかは、やはり本心ではないのだろうと思う。そう感じられて、ジンは思いがけないくらい安心した。もう少し、ここにいてみようと思った。机に寄りかかって、喋り始めてみる。

 「情けない話なんですけど。今日ね、料理屋で家から持っていった監獄食ってたんですよ」

 ウルカは背中を丸めたまま黙っていた。でももちろん、相槌なんて期待していない。

 「その店の人、許してくれてるから甘えてるんです。なのに今日は、あったかい葡萄酒まで持ってきてくれて」

 あたたかすぎて、身体がとけてなくなりそうだった。

 「渋くて、かっこいいんですよその人。店の料理もおいしいし。ピョルダルさんっていうんですけど」

 「ピョルさん……?」

 ウルカが突然、こぼれ落ちるようにつぶやいた。初めて、ウルカの本当の声を聞いた気がした。

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