2-3 待つ壁

 笑い声の残響が夕闇に呑まれるように消えて、ジンはつい黙り込んだ。ドゥイルもジンにもたれかかって斜めになったまま、口を閉ざした。

 そのとき、そばの建物から誰か出てきた。寒そうに襟巻きに顔をうずめていたその人は、おかしな姿勢で黙りこくっている男ふたりをみとめると一瞬立ち止まり、そして足早に通り過ぎていった。

 「ほら」

 ジンはドゥイルの背中を強めに押した。ドゥイルが前につんのめる。

 「卑劣漢かどうかは知らないけど変なやつだと思われた。おれも巻き添えだよどうしてくれるの」

 口をとがらせながら言ってみる。

 「悪かった」

 ドゥイルが振り返って言った。

 「戻るしかないな」

 「そうだよ」

 酒場には行かないほうがいいし、ほかに開いている店はあまりないし、だいたいこれから夜になるのに出かけるのは危ない。盗みをする人もいて、頭が痛いくらい寒くて、ろくなことがないのである。

 「帰るぞ。おれがなんとかしてやる」

 ジンが無責任な発言をすると、ドゥイルは少しだけ口元を緩めた。ふたりでおとなしく、下宿に向かって歩き出す。

 戸を開ける前にふと見ると、ドゥイルの顔は強張っていた。

 「ただいま帰りました」

 中に入りながらジンは言った。すぐに、台所からネイレが顔をのぞかせる。

 「ジンくんおかえりなさい」

 ネイレはいつものように朗らかな笑顔だ。でも少しだけ、目の縁が赤いように見えた。

 「あ、ドゥイルくん」

 ネイレがジンのうしろのドゥイルを見つける。軽やかに、どこか寂しそうに、言った。

 「よかった戻って来て。寒かったでしょ」

 ジンはドゥイルを振り返った。ドゥイルは、首を縦に振るのか横に振るのか迷うようなぎこちない動きをしていた。

 「ドゥイルくんさっきは」

 「すみません」

 ドゥイルがネイレをさえぎる。大きな声に、ネイレが目を見張った。

 「おれが、その」

 「違うよ。ドゥイルくんは謝ること何もしてないよ」

 今度はネイレが大声を出した。

 「でも」

 「だいじょうぶだよ」

 ネイレは押し切るように、にこりと笑った。

 「ごはん食べよう」

 明るく言って台所に戻っていく。今日は荷物も外套も奪おうとしてこなかった。ドゥイルは立ち尽くしている。

 ドゥイルはネイレのことになると、よく挙動が不審になる。だから今回もそれだとすぐにわかった。寝癖がついてるよとネイレに少し髪を触られたあと椅子から落ちたり、転びそうになったネイレを支えたあと盛大にこけたりと、今までもいろいろやっていた。

 いつも冷静なドゥイルが、もたもたよちよちしているのは少しおもしろいけれど、本人は心から真剣なのがわかるのでジンもからかわないようにしていた。というよりあまりに大まじめにてんやわんやしているから、冷やかす気にもならないのだ。だから親の心で見守っているし、真摯に話を聞いているのだけれど、今回は少しいつもと違うようだった。本当に何かが、あったらしい。

 「なあ」

 ジンは呆然としているドゥイルをつついた。声を小さくして聞く。

 「だいじょうぶじゃないよな?」

 ドゥイルはこくりとうなずいた。素直で大変よろしい。

 ジンは外套を脱ぎながら台所に入った。ネイレは天火の中から香ばしい匂いのする料理を取り出している。暖炉の前ではチャミンが鍋をかき混ぜていた。チャミンはジンを見ると、おかえりと静かに言ってくれる。ジンはチャミンにこたえてから、宣言した。

 「あの勝手なんですけど、おれたちあとでいただきます」

 「えっ?」

 ネイレが驚いたように振り返った。やっぱり少し目元が赤い。

 「ちょっと今日最悪で」

 ジンは笑顔で言った。

 「愚痴ぶちまけたいって言ったら、ドゥイルが聞いてくれるそうなので」

 ネイレは目をぱちぱちさせる。

 「そう、なの?」

 「はい」

 「わたしも聞こうか? ぱあっと愚痴大会でもする? ねえ叔母さん」

 ネイレの言葉は威勢がよかったが、ちっとも楽しそうではなかった。無理をしているのがわかってしまう。この人も大概わかりやすい人だ。よくわからないけれど、今はあまりドゥイルと顔突き合わせたくないだろうとなんとなく察しがつく。

 「いや、だいじょうぶです」

 ジンは空元気を出しているみたいに笑ってみせた。

 「チャミンさんとネイレさんは先に食べてください。おれたちのことはおかまいなく、たぶん長くなるから」

 「お腹すくでしょ、だいじょうぶ?」

 「いろいろ蓄えてますよ……部屋に」

 ネイレがふきだした。取り出した芋の天火焼きを机の上にどんと置き、ジンの背中を叩いてくれる。

 「わかった。思う存分ぶちまけておいで」

 「ありがたいです」

 ジンはぺこりと頭を下げた。何も言わずに聞いていたチャミンと目が合う。チャミンはひょいと肩をすくめた。どこまで知っているのかはわからないが、何かあったと知っていて黙っているらしいと直感する。ジンは眉を動かしてチャミンにこたえた。

 「おいドゥイル」

 台所から出て、ドゥイルの首をしめる。

 「来い。おれの話を聞け」

 ドゥイルは何も言わない。なんだか苦しそうに目を伏せている。ジンはドゥイルを引きずるようにして階段を上った。




***




 ドゥイルの部屋に上がり込むと、中はふたつの角灯でほの明るく照らされていた。床には絨毯が敷かれている。古くて薄いけれど、板の間がむき出しのジンの部屋よりずっとあたたかそうに見える。寝台と机が置かれていて、机の上には本が積み上がっていた。

 「まあ座れよ」

 ジンが言うと、ドゥイルは寝台の上に沈み込むように腰かける。ジンは机の前に置いてある椅子を引いてきて、またがった。背もたれに腕を置いてドゥイルを覗き込む。

 「今日は最悪だったよ」

 ジンは顔をしかめて見せた。

 「寒いし、鳩が窓にふんするし、誰もろくに話聞かないし。大祭司さまにはなんかいろいろからかわれた」

 ドゥイルはうなずく。

 「なあもう最悪」

 戸を叩く音がして、部屋の外からチャミンの声が聞こえた。

 「ここに夕飯置いとくから」

 お礼を言う前に、階段を下りる音が遠ざかっていく。

 「ありがとうございます!」

 ジンはあわてて立ち上がり、戸を開けて叫んだ。戸の前には、ふたりぶんの夕飯がのった盆が置いてあった。湯気の立つ盆を寝台の上に置いて、ジンは汁物の深皿を手に取った。冷え切った指先にはあたたかすぎて、沁みるような痛みを感じた。

 「もうわかんないよ」

 ジンははなはだ不服であるという顔を作って言った。

 「なんでこんななのかわかんない」

 ドゥイルも、ゆっくりした動作で皿を持ち上げた。湯気の中に顔をうずめるようにして、ぽつりとつぶやく。

 「おれもわからない」

 ジンはうなずいて、汁物をひとくち飲んでからたずねた。

 「何があったの?」

 ドゥイルは器の中を見つめながら言った。

 「あの人が」

 「ふん」

 ドゥイルが言うあの人というのはネイレのことだ。ドゥイルがネイレの名前を呼んだのを聞いたことはなかった。

 「ときどき泣いてるから」

 「ふん……」

 「今日もひとりで泣いてたから」

 「おん」

 「あの人は子供じゃない」

 「そだな」

 「かまってほしくて泣くんじゃない」

 「そだな」

 「放っておいてほしいのかもしれない」

 ドゥイルが目線を上げて、まっすぐにジンを見た。ジンは咄嗟に目をそらしてしまった。

 「……そうかもな」

 「なのに、おれが勝手にひとりで泣いてほしくないとか、思ったから」

 ドゥイルの声が小さくなる。

 「あの人の、近くに行って」

 ドゥイルはせっかく持ち上げた皿を置き、自分の頬に指先を滑らせた。

 「……こうした」

 ジンは何度かまばたきして、ドゥイルの真似をした。

 「ああ……」

 やってみるとわかった。

 「なるほど、涙、回収してあげたんだ」

 ドゥイルが目をむく。

 「回収してあげた……?」

 「だってそうだろ、こうやって」

 ジンがドゥイルの顔に手を伸ばすと、思い切りのけぞってよけられた。ジンは笑った。

 「ひどいドゥイルくん」

 あの人の流した透明な雫はどこに消えたのだろう、今もどこかに残っているのだろうか。

 「それを気にしてたのか?」

 ジンが聞くと、ドゥイルは靴を履いたまま寝台の上で膝を抱えた。処すぞとか言うくせに、ネイレが関わってくると本当に幼児だ。

 「飛び出すくらい?」

 ネイレの涙を拭って、急に我に返り謝罪しながら外に飛び出すドゥイルの姿は簡単に想像できた。ネイレがあっけにとられて見送る様子も。でもネイレは、ドゥイルを追いかけなかったのだなと、ふと思った。

 「それは気にする。あの人が望んだわけでもないのに、そんなことをするのはおかしい。最大限譲歩して、それであの人が救われるならいい。でもそんなことはまったくない。役にも立たないのに自分の思いだけで勝手に人の領域に入るのは卑劣だ」

 ドゥイルは子供のような姿勢で小難しい講釈をたれた。

 「そうかあ」

 「そうだ。人に勝手に触るのは失礼だ。外も中も」

 「ふうん」

 ジンは芋の天火焼きを手で掴んで口に放り込んだ。ほくりと崩れた中身が熱すぎて、涙がにじんできた。

 「でもさドゥイル」

 ジンはやっと芋を飲み込んで言った。

 「勝手に入って正解なときもあるかもよ」

 ドゥイルが眉をひそめる。

 「助けになりたいの?」

 ジンは意味のない手遊びをしながらたずねた。

 「でもあの人はそんなもの欲しがってない」

 「そうかな?」

 もう三年お世話になっているけれど、ジンはネイレが泣いているところなんて見たことがなかった。でもドゥイルは何度も見ていたのだ。ネイレはわかりやすい人だと思っていたけれど、それは違ったのかもしれない。

 「欲しいのに、欲しくないふりする人もいるかもしれないぞ」

 ドゥイルは難しい顔をして黙っている。

 「ほんとは入ってきてほしいのに、必死になって壁作ってるのかもしれない」

 ドゥイルが顔を上げる。まったく解せぬという表情だった。

 「どうしてそんなことをする?」

 ジンは微笑んで見せた。

 「わかんないけど。でもそういう人もいるかもしれないってこと」

 「会ったのか?」

 ドゥイルの声音が柔らかくなった気がして、ジンはくるりと目を動かして見せた。

 「仕事柄、人間観察するんだよね」

 そうか、とドゥイルがうなずく。皿に盛られた芋を、きちんと肉叉を使って口に入れる。

 「……じゃあその壁はどうしたらいい」

 「おれは馬鹿みたいに叩いて馬鹿みたいに壊す」

 ジンは皿に添えられていた匙をもてあそびながら言った。

 「救われてほしいって思うから」

 「自分の勝手でもか」

 「うん。たいていは勝手じゃないんだと思う。みんな、救われ」

 喉が詰まって、咳払いをしてから言い直す。

 「救われたいんだと思うよ」

 だからクェパさまとか大祭司さまとか、いるんだろう。ひとりで泣いてほしくないとか、ひとりで泣きたくないとか思うんだろう。きっとそれはまともだ。

 「そうか」

 ドゥイルが小さくつぶやいた。

 「あの人が泣かなくなったら、おれはうれしいと思う」

 「愛だね」

 「自己満足だろ」

 「偏屈だなほんと」

 顔を見合わせる。ドゥイルが仕方なさそうに笑った。珍しいなと思いながら、ジンも笑った。

 「自己を満足させないと生きていけないぞ」

 ジンがおどけるとドゥイルは、それはそうかもな、とやけに真剣な様子でうなずいていた。

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