2-2 働く卑劣漢

 「あ、いた……」

 長椅子の上に、ウルカはいた。足を投げ出して横になっている。目が慣れてきた暗がりの中で、ウルカが目を開けているのがわかった。視線がジンのほうを向く。

 「こんにちは」

 ジンは軽く頭を下げた。ウルカはしばらくジンを眺めていたが、けだるげに目をそらしてしまう。ジンの訪問に驚くでも嫌悪を示すでもない。ついでにうれしそうでもないが、もちろん喜ばれるとは少しも思っていなかった。

 三日前に机の上に置いて帰った監獄のひと切れはなかった。皿もなくなっているので、きっと食べて片づけたのだろう。でも、布に包まれたあとの七切れはそのまま残っているように見えた。水の入った器も置いてあった。

 「食べてますか?」

 ジンはたずねた。とぼけたような自分の声がやけに響いて、少しびっくりしてしまう。

 ウルカは黙ってどこかを見つめていた。何もこたえようとしない。

 「調子悪くないですか?」

 時間が止まっているような気がした。動いているのはジンだけで、世界は進むのをやめてしまったみたいだった。

 ジンはひとりで動き続けることにした。前に来たときと同じように、窓を開けて暖炉に火を入れて、井戸から水を汲んできた。

 林檎の監獄は、きれいに七切れ残っていた。この三日間、何も食べていないのかもしれない。想定していたといえばしていた気もするし、でもこんなにひどいとは思っていなかったといえばそんな気もした。なんだかこんちくしょうとでも叫びたいような気分になる。小言のひとつでも言ってやろうとウルカを見て、声を飲み込む。

 横向きに寝転んだウルカの目から、涙が流れていた。

 透明な雫が鼻梁をつたっていく。

 「あの」

 ジンはつぶやいた。ウルカはジンを見なかった。ジンはただ、ウルカを眺めていた。

 不意にウルカが長椅子に手をつき身を起こした。ぎゅっと目を閉じてこめかみを押さえる。残っていた涙が、目尻からこぼれ落ちるのが見えた。

 ウルカはぞんざいな手つきで涙を拭うと、急にジンをまっすぐ見た。

 「帰って」

 ウルカは言った。ひどくかすれた小さな声だった。

 「帰って」

 繰り返して、ウルカは咳き込んだ。近づこうとすると、ウルカは身体を折り曲げながらジンをにらみつけてくる。でもジンはウルカの領域を侵犯した。長椅子に腰かけ、机の上の器を手に取った。

 咳がおさまったウルカに差し出す。

 「水は飲んでるんですね」

 ウルカは顔を背けた。かたくなに何かを拒もうとするなんて、子供みたいだ。ジンは笑った。そしてふと机のほうに視線を向けて、気がついた。

 机の引き出しが開いている。中からは鈍い光がもれていた。ジンは器を机に置いて引き出しの中を覗いた。引き出しは二段になっているようだった。一段目には、宝石や首飾りや髪飾りが乱雑に押し込まれている。仕切りがついているのに、どれもきちんと中におさまっていない。床に落ちているものもあった。それに、割れたり破けたりしていて完全なものが見当たらない。二段目を見ると、首のない人型の置物が倒れていて心臓が縮んだ。そしてそのそばに、見慣れたものを見つけた。

 預けた懐中時計だ。ジンは思わず手を伸ばして拾い上げた。

 時計は相変わらずぼろぼろで、わけのわからない時間を示していた。

 ウルカを振り返る。

 ウルカは虚ろな目で宙を見つめていた。

 「なんで」

 砂を飲み込んだあとのような声で、ウルカがつぶやいた。

 「なんでこんななの」

 何を言っているのかわからない。ジンは時計を握りしめた。引き出しの中身は、質に入れられたものたちかもしれない。壊れているものもあるし、こんなにめちゃくちゃに保管されているのか。怒りのようなかなしみのような何かが、湧いてきたそばから霞のように消えていった。

 ジンは黙って引き出しの中を片づけ始めた。

 仕切りの中に小さなものをひとつひとつしまって、二段目も整理した。そのあいだ、ウルカはずっとほうけたようにジンを眺めていた。

 質草らしきものたちは、ほとんどちゃんとしたものではなかった。壊れていた。

 壊れたものでも質草にして高い金額を貸してくれる、とこの店を紹介してくれた人がいた。でもこれは、壊れたものでも、と言うより壊れたものをすすんで質草にしているのではないかと思ってしまう。

 やっぱり。

 壊れてる。

 こんな人。

 壊れた人は、救われなくてはならない。

 ジンはウルカと向き合った。

 「ウルカさん」

 ウルカはジンを見ようとしない。でもジンは、ウルカの目を見た。

 「とりあえず、食べましょうか」

 ぺたりと長椅子に座り込んでいるウルカに、前のように帰れとかうるさいとか言い始める威勢はなかった。ひとりで知らない道に取り残された小さな子供のようだった。

 「ちゃんと食べてください。とりあえず今日はヘテヤの監獄食べて。今度、何か持ってきます」

 ジンは少しかたくなった林檎の監獄を、鞄から出した紙にくるんだ。ウルカのそばにかがむと、手を掴んで監獄を握らせる。

 「ほら、食べて」

 ウルカの目がジンをぼんやりと映す。部屋をだんだんとあたためている炎の光はほのかで、蒼の瞳は暗い海の色に見えた。

 「おいしいですよ」

 ヘテヤの店の監獄は食べたことがないけれど、ジンはそう口走った。

 ウルカはうつむいた。淡く光る髪が揺れる。ウルカの髪は、ところどころ長さが違っていた。全体は背中に流れるくらい長いけれど、ときどき短い束が混じっている。そのいびつさは、ウルカをますます頼りなく見せた。

 「食べてくださいね」

 ジンは言って、立ち上がった。やっぱり人前では食べないらしいから。

 「帰りますね。急に変なのが来て悪かったけど、また来ます」

 ウルカはなんともこたえなかった。

 「じゃあまた」

 ジンはこちらを見ないウルカに笑って手を振り、店を出た。




***




 ゆっくり流れていく雫と暗闇を閉じ込めた瞳と、長さの違う髪と。ざらついた声音と、折れそうに細い手首の感触が、つかず離れずの距離でずっとそばにある。

 朝、伝書鳩が窓辺におりてきて羽を膨らませていたことや、顔を向けて公示を聞いてくれた人がいたことや、上品な言葉が似合わなくてランサに笑われたことをぼんやりと思い出しながら家路をたどり、いつの間にか着いていた。扉に手を伸ばす。

 そのとき、扉が中から開きぬっと影が出てきた。

 ぶつかりそうになって咄嗟によける。横をすり抜けて外に出てきたのはドゥイルだった。ドゥイルはジンには目もくれず、黙ってどこかへ歩いていく。

 「ドゥイル?」

 ジンは早足の背中に向かって呼んだ。

 「どこ行くんだ?」

 聞こえないのか無視なのか、ドゥイルはどんどん遠ざかっていってしまう。ジンは小走りに追いかけた。

 「おい、何やってんの?」

 追いついたドゥイルの肩を掴む。

 ドゥイルは立ち止まった。何も持っていないし、外套も着ていないという軽装だ。ジンは外套を脱いでドゥイルに頭からかぶせた。

 「風邪ひくぞ?」

 ドゥイルは下宿を飛び出してきたように見えた。

 「けんか?」

 言ってから、首をひねる。ドゥイルはごくたまに言動がおかしくなるときを除き、いつでも落ち着いている。誰かと争ったところなんて見たことがなかった。では、「ごくたまに」に該当する何かが起こったのかもしれない。その原因といえば決まっている。ジンは、気遣いのかけらもなく問いを投げつけた。

 「ネイレさん?」

 ドゥイルがいきなり振り返った。勢いがよかったので、ジンがかぶせた外套がばさりと地面に落ちる。ドゥイルはまじめくさった顔をしていた。口を開く。

 「おれは役立たずの卑劣漢だ」

 あまりにもきっぱりと言うので、ジンはつい、そうかとうなずきそうになった。

 「……えっと?」

 外套を拾ってかぶせなおしながら、理解しようと努めてみる。

 「だめだわからん。何言ってんの?」

 「おれは役立たずの卑劣漢だ」

 ドゥイルはまったく同じことをまったく同じ調子で繰り返した。これは何かあったらしい。そもそもドゥイルが夕方に手ぶらで外に飛び出すなんてことは、よっぽどのことがない限り起こらない。

 「わかったよ。とりあえず帰ろうか」

 ジンは弟に言い聞かせる気分で言った。でも、ドゥイルは首を横に振った。

 「無理だ。もうあそこには帰れない」

 いつもどおりの静かな口調で、ドゥイルはずいぶん悲愴なことを言う。

 「うん……」

 ジンはうなずいて、身震いした。外套がないと、凍えそうな切り裂くような寒さだ。くたびれた外套でもないよりはましだったらしい。ドゥイルがはっと目を見開いて、外套をジンの肩に返してくる。ジンはため息をついた。

 「どこ行くつもり?」

 聞くと、ドゥイルは口を歪めてからこたえた。

 「……酒場」

 ジンはふきだした。

 「無理だろ」

 ドゥイルが心外だというように眉を寄せる。

 「何がだ」

 「いやだって、うるさいよ? 治安悪いよ?」

 街の酒場は人々が憂さ晴らしをする場所だ。ほとんどが路地裏にあって、いつも大きな声が聞こえてくる。けんかが起こることもしばしばだし、度を越えた遊びや悪ふざけも横行しているようだった。戦争が終わりに近づいてからは特にそうだ。国が規制をかけて逮捕者が続出した時期もあるが、それでも効果は見られなかったようだった。

 そんな今のサンセクエの酒場に、ドゥイルがいるところは想像できない。たぶんドゥイルは、酒場での羽目を外したお遊びの理解に苦しむだろう。死ぬような思いをするのではないか。

 「治安が悪くてうるさいところに行きたい」

 ドゥイルは投げやりなことを大まじめな様子で言った。少しだけわかるような気がした。そんな破滅的な願望はあるらしいが、ドゥイルは両手を握りしめ、身体を固くしている。寒いのだろう。

 「行かないほうがいいぞ」

 ジンはドゥイルの肩にぽんと手を置いた。

 「飛び出した手前帰りにくいのはわかるけどさ、その格好じゃどこも行けないって」

 ドゥイルが目を伏せる。

 「あとさあ、内務庁に務めてるんだし。酒場はやめといたほうがいいぞお」

 うしろから無理やり背中を押す。するとドゥイルはジンに体重を預けてきた。いや重い重い。まったく進まない。

 「手離すぞ?」

 ジンが脅すとドゥイルはあきれたようにつぶやいた。

 「黙って離せばいいのに」

 この困ったやつにあきれられる筋合いはないと訴える自分の感性は、正しいとジンは思う。

 「なあ歩いて? 何があったか聞くからさ」

 「もう合わせる顔がない。本当に帰れない」

 「帰らないと凍え死ぬぞ」

 「どちらにしろもう終わりだ」

 ずいぶん情けないことを言っているのに、ドゥイルの声は揺らがない。

 「だいじょうぶだよおれがなんとかしてやるよ」

 「無責任だ」

 「無責任じゃないよ。おれがなんとかするって言ってるんだよ」

 「そんなことを軽々しく言うのが無責任だ」

 「偏屈」

 「それなら役立たずで偏屈な卑劣漢になる」

 ジンはドゥイルの言葉を笑い飛ばしてやろうとした。乾いた空気に、笑い声がやたらと響いた。

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