2. 聖なる規範

2-1 不遜な一歩

 新しく買った靴下は、ちゃんとかかとにも爪先にも布がある。それはあたりまえのことのはずなのに、破れた靴下なんて靴下じゃないと思っていたのに、なんだか妙な気分だった。だから足がきちんと覆われたまともな感触に慣れるには、時間がかかった。

 靴下を買った、雑貨を売る露店の店主はコダコから来た人だった。コダコ王国は大陸東端に位置するサンセクエの南にある島国で、戦争には関わっていなかった。戦争の末期には、瀕死の状態でお互いを蹴落とそうとし合っていたサンセクエとデウカンデ帝国の醜態を見かねたのか、仲裁を申し出てきた。そのおかげと言うのか、三年前に終戦を迎えた。

 戦いが終わってから物資が不足した大陸には、コダコの商人たちがたくさん訪れている。コダコの言葉はサンセクエ語と似ているから、ものを売り買いするにはあまり困らない。ジンも、元気のいいコダコ人の露店主と軽く談笑した。

 それは二日前のことだ。昨日は、毎年お世話になっている店で救解日のための花輪を注文した。村の五十三人のためのものだ。本当は人数ぶん用意するか、ひとつだとしても大きくて立派なものを買いたいけれど、それは難しい。だから毎年、二番目に小さいものを選んでいた。いちばん小さくはないから許してねというところだ。戦争のあとはジンと同じように考える人が多いようで、ほとんど二番目に小さい花輪しか作っていないと店主がこぼしていた。

 今日も、聖殿に寄る。白い壁の中に吸い込まれるように入っていく。人がちらほらいて、みんな無邪気に祈っていた。だからジンもひざまずいて、目を閉じて真剣に数を数えた。それが済んで、敷地を出ようとしたときだった。

 「おいジン」

 軽やかな声に呼び止められて、ジンは振り返る。裾の長い白い服を着た赤毛の女性が、まっすぐ歩いてくるのが見えた。ジンは笑顔でぺこりと頭を下げた。

 「こんにちは、大祭司さま」

 「うん、こんにちは」

 ジンのそばまでやってきた大祭司は、腕を組んでジンの頭のてっぺんから爪先までざっと見回した。

 「ひさしぶり。痩せてはないけど元気にしてたか?」

 重々しい肩書きが嘘のように、近所の人みたいに大祭司は言う。まだ二十代後半くらいで、名前はランサといった。

 「はい、元気にしてます」

 ジンはすぐにこたえた。ランサは腕を組んだままからりと笑う。

 「そうか、よかった。しばらく会わなかったからどうしてるかと思ってたんだわ。わたしも忙しくてさ。今日は集会があったしな、知ってるだろ?」

 「はい」

 三日前にお知らせして回ったから知っている。ジンがうなずくとランサはにやりとして、急に下から覗き込んできた。

 「なあジンよ、いいもんやるぞ」

 そう言って隠しの中から何か包みを取り出すと、ジンの鞄に押し込んできた。

 「賄賂な」

 ジンは苦笑した。ジンはランサにまったく得をさせられない。何が賄賂なのか謎だ。

 「いいですよ。ほかの人に渡してください」

 ジンは賄賂を取り出してランサに差し出した。するとランサは、不意に表情を消す。見慣れたいたずらっぽい笑顔に彩られないランサは、粛然たる「大祭司さま」だった。

 「それはクェパさまからお授けいただいた恩寵たる芋の監獄だ。受け取らないとは何事か」

 ランサは厳かな口調で言った。サンセクエの言葉がわからない人が聞いたら、どんなありがたい託宣かと思うだろう。こんなことに、その尊い名前を出すべきではないと思う。大祭司ともあろう人が。ジンはときどき心配になる。誰にでも気安く話してくれるランサは人気がある一方で、眉をひそめる人もいるのだ。ジンは言った。

 「せっかくですけど、おれは恩寵とか受け取れませんよ」

 「なんで?」

 けろりと元に戻って、ランサは聞いてくる。

 「もっと受け取らないといけない人いると思います」

 ジンは軽くこたえた。するとランサはおおげさに顔をしかめ、のけぞった。

 「なあそんなこと言うけど、わたしがなんで大祭司になったか知ってるか?」

 少し戸惑う。急にそんなことを聞かれても。

 「えっと、いいえ。大祭司さまのなり方とか恐れ多くてとても聞けませ」

 「げろが出るほどびっくりしたよわたしは」

 「大祭司さま、げろは……」

 「うるせえ聞け。あのな、大祭司になるのは、聖殿でいちばん救われるべき人なんだって」

 ジンははっとしてランサを見た。

 サンセクエではあまり見ない錫色の瞳が、赤みがかった髪のあいだからじっとこちらを見つめている。

 ランサはオルトン王国の出身だと聞いていた。オルトン王国は大陸の西のほうにある国だ。大陸中央部を広域にわたって支配するサンセクエの宿敵デウカンデ帝国の、西側に位置している。遠い場所にあるが、反帝国の仲間としてともに戦っていた。

 ランサはオルトン軍の後方支援部隊として従軍していたと、聞いたことがある。デウカンデの捕虜になって、サンセクエ軍に解放されて、そのあとはサンセクエの軍についてここに来たらしい。サンセクエの言葉はそのあいだに覚えてしまったそうだ。ざっくばらんなランサは誰にでも経歴を話すらしく、だいたいみんなが知っていた。ジンも、本人から聞いたのではなかった気がする。

 「ここに来たばっかりのときは、わたし今より荒んでてめちゃくちゃでさ、毎日抜け出して飲んだくれてたのね。そんなふうにやってたら大祭司さまがなくなって、わたしが後釜に座ることになったの。徳ありそうなやついっぱいいるだろなんでわたしなんだって暴れてたら、そうやって言われた」

 ジンは言葉を返せなかった。賄賂の包みをランサに差し出したまま、動けなくなった。

 「でもさあ、救われるべき人ってなんだよって思うよね。意味がわからないよな。かわいそうに見えるやつってことかね」

 ランサは緩く巻いた髪をかきあげて首を傾げた。

 「とか思ってたけど、見事に救われたわな」

 さらりと言う。

 「クェパさまってすごいのな」

 どんな人にも癒しを与えて、救ってくださるクェパさま。

 きっとこの世界に、治らない傷なんてないのだ。

 そんなものは存在しない。

 「とか思うこともあるけどさ」

 包みを持った手を掴まれ、鞄の中に突っ込まれた。そしてふと、ランサは目をしばたく。そういえばジンには聞いてなかったかな、とつぶやいてジンを見た。

 「なあ、ジンは、クェパさまって本当にわたしらを救ってくださると思うか?」

 ジンはぎょっとした。大祭司が言っていいせりふとは思えなかった。でもランサは、何も気にした様子なくジンの返事を待っていた。

 うしろへ飛びすさるように、大声を出す。

 「はいもちろん」

 ジンは笑った。

 「あたりまえですよ」

 ランサの赤銅色の髪がふうわりと揺れるのを見る。なるべく、冗談みたいな調子でたずねる。

 「なんでそんなこと聞くんですか?」

 「いや、みんなに聞くよ」

 ランサはあっさりと言った。にっと、唇の端をつりあげる。

 「わたしはな、救ってくださらないとは思わない」

 わたしはクェパさまにお仕えして助かったしなあ、とあくびするように付け加える。そして少し考えるように上を見てから、言う。

 「でも怠業することもあるわな、クェパさま」

 ジンはあっと叫んで手を打った。

 「あの、大祭司さま」

 「どうした?」

 ランサが目を丸める。

 「その、そろそろ家族とか、村の人たちの救解日なので」

 「ああうん」

 言いかけると、ランサにわかっていると言うようにさえぎられた。

 「わたしも言おうと思ってたよ。今年もお祈りするんだね」

 ジンはうなずいた。

 「いつもの時間においで」

 「ありがとうございます」

 救解日の、祈りの儀式をしてもらうことを頼まなければならないと思っていたのだ。毎年やってもらうようにお願いしてはいるけれど、近くなってきたら直接言うようにしている。

 礼をして顔を上げると、ランサはなぜか仕方のない子供を見るような顔をしていた。ジンは目をしばたいた。隠しの中から金貨を包んだ紙を出してランサに渡す。

 「少しなんですが」

 ランサは複雑そうにそれを受け取った。

 「いらないってみんなに言いたいんだけどね」

 包みを持った手を掲げながら言う。

 「これがないと、聖殿ももたないからさ」

 「大祭司さま」

 不意に塔のほうから声がした。顔を向けると、よく見かける金髪の青年がこちらを見ていた。

 「失礼します」

 青年は言って、静かに頭を下げる。なんだか品のある動作だった。

 「ああサジャク」

 ランサがひらひらと手を振る。

 「気をつけて帰りな」

 「はい、お気遣い痛み入ります」

 青年はもう一度ふわりとお辞儀をした。目が合うと微笑んでくれたので、ジンも笑い返した。青年は帰っていった。

 「じゃあそろそろジンも帰るか。引き留めたのわたしだけど」

 ランサが言う。金貨を持った手を上に挙げたままだった。

 「気をつけて帰るんだよ。風邪ひくなよ」

 「お気遣い、痛み入ります」

 ジンが慣れない言葉を使うと、ランサに豪快に笑われた。




***




 聖殿を出てから鞄の中を探り、無理やりねじ込まれた包みを取り出した。ランサは芋の監獄だと言っていた。監獄という言葉で、質屋のウルカのことを思い出す。ヘテヤが届けた林檎の監獄を、ちゃんと食べているだろうか。質屋を訪ねて三日が経っていた。毎日一回は、ウルカのことを考えるようにしていた。

 質屋は下宿へ帰るまでの道にはないけれど、方向は同じだしあまり遠くもない。押し掛けようかなとふと思う。

 あのあんまり不摂生な人は、すべてを拒絶しているように見える。与えられるものもめぐりあうものも全部、いらないと全身で叫んでいるように見える。そんなものは欲しくなくて、近づかないでほしくて、触らないでほしくて、かまわないでほしいと訴えているかのようだ。何もかも、生きることすらどうでもいいと、放り出しているみたいだ。でもそれは、きっと本心ではない。そう思えるから、ウルカのことが忘れられないし放っておけない。

 きっと助けられるし、助かるべきなんだと思う。できるはずだ。ちゃんと生きていける。あの人なら。

 ジンは芋の監獄を鞄にしまい、帰り道を一本それた路地に入った。途中で、冷え切った石段に座り込んでいる姉妹がいたので、監獄を渡した。

 三日前に訪れた半地下の部屋へ続く階段の前に立つ。今日も、どこからかけたけたと笑い声が聞こえた。階段を下り、扉の前に立って年老いた呼び鈴を鳴らしてみる。

 しばらく待ったが、返事はなかった。そうだろうとは思っていた。

 「こんにちは、入りますよ」

 腹から声を出して、勝手に戸に手をかける。開ける直前に鍵が閉まっているかもと思ったが、そんなことはなかった。中を覗き込みながら、少し音量を絞って声をかける。

 「あの、先日伺ったサナルダです……」

 部屋はほとんど真っ暗で、しんとしていた。暖炉の火は消えている。

 「いますか……?」

 ついそう言ってしまっていた。人の気配がまったくないのだ。外に出ているのだろうか。ジンは床を軋ませながら部屋の奥に入っていった。

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