1-4 人間の条件

 ぱちぱちと、火花がはじける音がする。暖炉に、静かで確かな熱が灯っている。長椅子に横になった姿勢では、直接は見えないけれどわかる。ウルカは、暗闇に沈んだ部屋を揺らぎながら照らす炎の影を、ぼんやりと見つめていた。

 水面を漂うような浅い眠りを繰り返し、いつの間にか夜が来ていた。いつもは夜になったことにも気づかず寝ていることが多いし、夜中に目が冷めても部屋はいつも真っ暗だ。夕焼けのような色が部屋の中に燃えているのは、なんだかおかしな気分だった。

 視線を上げると、机の上に林檎の監獄がのった皿が見える。今日はヘテヤが来た。ヘテヤは五日に一度、大きな監獄を届けにくる。

 一度、ディーオという三十代くらいの男性と一緒にお金を借りに来たのが二年ほど前だ。ディーオとはそれきりだが、ヘテヤはずっと来ている。最初にふたりで来たときにディーオが質に入れた皿は、机の引き出しの中に大切に保管してあった。紺色と赤色の小さな花模様が描かれた皿で、ちょうど半分こしようとでもしたみたいに走ったひびと、ところどころかけたいびつな姿がかわいらしくて、気に入っていた。

 あのときふたりが帰る直前、目の前で気絶してしまったから、ヘテヤがいらない心配をし始めたのだ。このお姉ちゃん、ちゃんと食べてないんだ、ぼくたちの監獄食べてよ、とかなんとか言い出した。

 気にかけられる筋合いなどなかったから無視していたら、じゃあときどき持ってきてあげるからね、と勝手に決めてしまった。どうせ忘れるだろうとおもっていたらつぎの日、本当に監獄をぶら下げてやって来たのだ。今すぐ持って帰れこのちびとすごんだのに、ヘテヤは絶対に置いて帰ると譲らなかった。戦い続けてずっと部屋に居座られるのも面倒なので、折れてお代を払ってしまった。銀貨を受け取ったヘテヤはきょとんとしていた。

 それから五日に一度、欠かすことなくあのうるさい子供はやって来る。こちらはろくに話を聞いたこともないし名前も呼んだことがないしお礼も言ったことがないのに、なぜか捨て置いてくれない。

 ヘテヤが独断で一方的な約束を取り付けるあいだ、ディーオは不機嫌そうな顔で黙りこくっていた。だからどうおもっているのかよくわからなかったのだが、今日わかった。ウルカは金づるらしい。

 ヘテヤのように甲斐甲斐しいけなげな子供にはお小遣いなどやるべきなのかもしれないが、そんなことはしたことがない。でも監獄のお代は毎回払っている。決まった収入源なので、金づるなのだろう。その評価については、本当に何もおもわなかった。金づるなんてそんな立派なものじゃないと、ちらりとおもったかもしれないくらいのものだ。

 ウルカは目を閉じた。いつもならそうすればすぐに意識が遠のいていく。でも今はなぜか、違った。目が冴えている。仕方なく、ゆるゆる起き上がる。くらりと目の前が白くなって、そしてゆっくりと視界が戻った。なんだか、いつも重くて霞んでいる頭がすっきりしていた。どうしてだろう。わけもなくあたりを見回す。

 机の上に、懐中時計を見つけた。

 銀色の時計は、炎の色を映していた。そっと手に取る。時間の感覚が狂ったウルカでもわかるくらいに、ずれた時刻を示している。それだけではない。針は無残に折れ曲がり、表面はひっかいたような傷が無数にあって、痛々しい姿だ。でもそれが、なんとも言えず、どうしようもなく、きれいで。引きずり込まれるようにじっと、見つめてしまう。心が惹かれるというのはこういうことなのだろうと、おもう。手首に絡まった銀の鎖の、冷たい感触に笑みがこぼれる。

 これを預けていった客。夕刻になってやってきた、あの妙な客。

 鍋の取手のようなものがはみ出した鞄を肩に下げた姿が、頭の隅をよぎる。

 ウルカは隠しに手を突っ込んで細い鍵を取り出した。机の引き出しにあいた鍵穴にかちりとはめる。二段になっている引き出しを開けると、中には美しいものがたくさん入っている。

 一段目は小さくいくつもの空間に区切られていて、細かなものを置いておくのに便利だ。透き通った緑の宝石が半分割れてなくなった指輪に、ちぎれた真珠の首飾りに、ずたずたに破れた繊細な透かし模様の手巾。どれもひっそりとやつれて、楚々として、そこにいる。ウルカはあいていた空間に、そっと壊れた時計をおさめた。

 一段目を閉めると見える二段目には、少し大きいものを入れていた。首のない英雄の置物や、ひび割れてかけた皿や、文字がにじんで少しも読めない本が、なんの主張もせず、寡黙にただそこにいる。引き出しの中は、たまに心惹かれないものも入っているけれど、ほとんどがいとおしいものばかりだ。一段目を開けたり閉めたりして上下を交互に眺める。どんなに見ても、飽きることはない。今日仲間入りした時計も、ずっとそこにあったように馴染んでいた。

 引き出しを閉めて、ウルカは机に突っ伏した。よく知っている、慣れすぎた匂いがした。そばに置いてある林檎の監獄の匂いだ。

 ウルカはここ二年くらい、ヘテヤが届けに来る監獄しか食べていなかった。一日ひと切れとか決めているわけでもなく、気が向いたらつまんで、その気にならなければ食べない。それと窓はずっと閉め切って、外に出ることもほとんどない。そんなふうだから、人前でぶっ倒れるのだ。でも、変えようとはおもわない。

 そうしたところでもう、もとには戻れないし。ここでいつか朽ち果てるのを、待っているのかもしれない。よくわからない。

 顔を上げる。ウルカは監獄を掴んでかぶりついた。もごもごと咀嚼して、味も感じず飲み下す。生きていたら、腹は減ってしまう。食べなければひどい気分になるときがある。気絶するときもある。面倒なことだ。煩わしくて仕方がない。どうでもいいんだよ馬鹿野郎。

 半分ほど食べて、器に注がれていた水を飲みほした。冷めた水は喉をさらりと通った。それからもう半分を食べた。一気にひと切れ食べることはあまりないけれど、今日は口を動かしていたらいつの間にかなくなっていた。

 時間をかけて立ち上がり、暖炉のそばに歩いていく。炎の前に、膝を抱えて座った。なんとなく、そうしたくなった。火が身を乗り出して話しかけてくるみたいに見えた。あたたかくて、火の粉が散る音が心地よくて、なんだか自分が人間みたいな気がした。こんなのもう、人じゃないのにな。

 ウルカはしばらく、空白の時間を過ごした。どれくらい炎を見つめていたのか、見当もつかなかった。そうしていたら不意に、よみがえってきた。

 生きてるんだから、ちゃんとしないと。

 なんだそれ。そんなこと誰が、と考えて、あの客が言ったことだとおもいだす。ウルカは覚えず、鼻で笑っていた。

 なにが。

 何がちゃんとしないとだ。

 こっちはもはや人間と呼べる代物ではないのである。ちゃんと、とかきちんと、とか、そんなことを考えたって無駄だ。もう意味がない。だから近づくな。触るな。かまうな。

 座り込んでこちらを見ていたかとおもったら、急に立ち上がってぺらぺらと喋り出して。金貨二枚貸すと言っているのに、銀二枚にしろとか言って。いきなり飯を食えと騒いで、窓を開けて暖炉に火を入れて。そしてやたらに声が大きくてうるさい。あれはヘテヤよりも騒がしいし、今まで会った中でいちばんやかましい生き物だった。

 余計なお世話なのだ。誰にもかまわないでほしいのに。誰にも触らないでほしいのに。厚かましいのだ。かまってはいけないとおもう。触ってはいけないとおもう。

 それなのにあの客は、ここを出るときまた来ますなどと言った。

 変な人。

 馬鹿な人。

 あんなの。

 壊れてる。

 壊れた、人間は嫌いだ。

 ウルカは膝に顔をうずめた。

 そのまま眠ってしまいそうで、すぐにその姿勢はやめた。火のそばを離れて、長椅子の上に座る。服に、熱いくらいに火のぬくもりが移っていた。そのまま寝転んで、足を伸ばす。しばらく天井を眺めた。

 ジン・サナルダ。

 不意に口から、こぼれていた。あの客の名前をつぶやいていた。無意識だった。

 何事かと自分で少し驚いた。でもすぐに、驚きも戸惑いも消えていった。

 もう来るな。来なくていい。二度と。銀貨二枚なんかより、あの時計のほうがずっとずっと欲しい。だから。

 まぶたを閉ざす。

 そのままじっとしていた。時間は黙って流れていって、遠くから、おかしいくらいに明るい笑い声が聞こえた。何人もの声だった。どこかで犬が、狂ったように吠えていた。ウルカはそろそろと手を動かして、自分の肩をさすった。

 ふと、入り口のほうから何か物音がした。そして、軋むような音が忍び込んでくる。今のは、戸が開く音だ。ほかの家のものではなくて、この部屋の戸が。勝手に扉が開いたのだろうか。そんな馬鹿なことあるのかな。床がみしりと、低い鳴き声を上げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る