1-3 筆跡の声

 握った小さな手は冷たくて荒れていた。吹きつけてくる寒風から小さな身体をかばうべきだと思って、ジンは風上を歩いていた。

 隣を歩くヘテヤは、空になったかごを大きく揺らしている。街は、朝とは少し違う忍び寄るような暗さに沈もうとしていた。道行く人たちはみんな家路を急いでいる。

 「ここでいいよ」

 ヘテヤが不意に言った。

 「うち、そこだから」

 どこかをゆびさしているが、のっぺりと同じ顔の建物ばかり並んでいるから、どれのことを言っているのかはわからない。

 「わかった。今日はありがとな」

 ジンは頭巾の上からヘテヤの頭を撫でた。ヘテヤはもったいないくらいうれしそうにうなずくと、するりとジンのてのひらから手を離した。

 「じゃあまたね! ジンも気をつけて帰るんだよ?」

 「うん」

 ヘテヤは建物に吸い込まれていった。その前に一度振り返って、大きく手を振ってくれた。ジンはそれを見届けると、踵を返して歩き出す。地面から凍った空気が立ち上ってくる。つないでいた手は冷たかったはずなのに、離れてしまうとひどく寒く感じた。

 店主はヘテヤとジンの前で食事をしようとはしなかった。なんというか、幻の動物なのだろうか。お湯が沸いたので器に注いで、きれいに切り分けた林檎の監獄も皿にのせてそばまで運んだが、背中を丸めたまま微動だにしなかった。ウルカが食べてるところ見たことないんだよねえとヘテヤが不思議そうに言っていた。ある程度付き合いが長そうなヘテヤの前でも食べないのに、自分の前で食い始めるわけがないと悟ったので、帰ることにしたのだ。

 もう暗いので、家までヘテヤを送ってきた。今日はなんだか、いろいろなことがあった気がする。

 手が冷えるので隠しの中に突っ込むと、がさりと何かに触れた。店主が書いてくれた質札を入れたのだと思い出す。引っ張り出して、風にあおられるのを押さえつけながら眺めると、わりあい几帳面な字がつづられていた。紙の隅のほうには、面倒そうな筆跡で署名がしてあった。ウルカ・ラミーパ。本人はまったく名乗る気なさそうだったが、確かにヘテヤはウルカと呼んでいた。

 口の中で名前をつぶやいてしまった。そんなつもりはなかったのだけれど。風に吹かれて暴れる質札を苦労して折り畳み、隠しに押し込む。

 店主は、ウルカは、ヘテヤとジンがふたりしていろいろ言うと耳を塞いだ。そして言った。

 どうでもいいんだよ。

 小さな悲鳴のような声だった。

 それを聞いた瞬間、ふっと頭が冷たくなった。それはたぶん、いや、どうしてかわからない。

 ヘテヤの言うとおり、放っておいたらウルカは本当に死ぬのかもしれないなと、ジンはぼんやり思った。それは、よくないと思った。とてもよくない。

 生まれるずっと前から戦争があった。負けて終わった。国は貧しくてひどいありさまだ。でも、生きているのだから、生き残ったのだから、これからも命がある限り生きてほしいと思う。そうするべきだ。そうしなくちゃいけない。彼女に何があったのかは知らない。でも、何も食べずに倒れていないで前を向くべきなのだ。それができないわけでは、ないはずだ。

 せっかく会えたから、どうにかして彼女を助けてやりたい。死んだように寝ていたら、きっとたくさん取り逃がしてしまうと教えてやりたい。

 また来ますと言って出てきた。ウルカは何も言わなかった。また乗り込んでやろうと、ジンは決めた。




***




 あくびのような音を立てて軋む戸を開けると、中はほんのりと明るい。小さくため息をつく。

 「あっ、おかえりなさい!」

 小鳥がさえずるような声が聞こえて、入ってすぐの台所からネイレが顔をのぞかせた。ひとつにまとめた豊かな栗毛を揺らして駆け寄ってくる。

 「ジンくん遅かったね、なんかあった?」

 脱いだ外套を回収しようとしてくれるので、渡すまいとがんばりながらジンは笑顔でこたえた。

 「いえ、何も。ちょっと聖殿に寄ってて、大祭司さまとお話してて」

 「そうなの。大祭司さま、ジンくんのこと気にかけてくださってるもんね」

 さらりとついた嘘をネイレは素直に信じてくれた。なんとか外套を取り返してもう一度着る。ネイレが笑いながら軽く口をとがらせた。

 もう三年住んでいる下宿でジンたち下宿人の世話をしてくれるネイレは、二十一歳の働き者の娘さんだ。帰ってきたジンたちを迎えて荷物や上着を受け取ろうとしてくれる。ジンはそんな貴人のような扱いは受けてたまるかと固辞し続けていた。それをネイレはおもしろがっているようで、形式的に攻防が続いている。

 「ドゥイルくん帰ってるよ。みんな先に夕飯食べちゃった。今ジンくんのぶんよそうから着替えてて」

 ネイレは言いながら台所に入っていった。

 「ありがとうございます」

 ジンはこたえて、台所の前を通り過ぎ階段を上る。上着と鞄は渡さないが、食事の用意はしてもらう。しばらく本気で争い続けて、今は黙示の条約が結ばれているというところだ。

 二階には木の廊下の前に五つ並んだ扉がある。今埋まっているのはふた部屋だけだ。いちばん端のジンの部屋と、ひと部屋あけてドゥイルの部屋。廊下を挟んだ向かい側にも部屋があり、ネイレとおかみのチャミンがひとつずつ使っていた。ジンはドゥイルの城の戸を叩いた。

 「はい」

 すぐに顔を出したドゥイルは、ジンを見た瞬間黙って引っ込んだ。ぎりぎりのところで腕を戸の隙間に滑り込ませる。

 「今帰ったよ」

 「音でわかる」

 「あとネイレさんの声でな」

 ドゥイルが無理やり戸を閉めようとする。腕を挟まれたジンは悲鳴を上げた。

 「何事?」

 下からネイレの声がする。

 「なんでもないです!」

 ジンは叫び返した。部屋の中のドゥイルに言う。

 「広告、配ったよ。興味ある人もいそうだった。持って帰ってくれてありがとな」

 「ああ」

 そっけない返事をしたドゥイルはジンの腕を部屋から押し出すと、ぱたりと戸を閉めた。何をするにも大きな音を出さないやつなのである。

 ドゥイルはジンよりひとつ上の二十歳で、王宮の内務庁に務めている。今日ジンが街で配ったちらしは、ドゥイルが役所から持って帰ってきて預けてくれた。

このサンセクエ王国の王都には、ジンのような公示係が地区ごとにひとりずついる。公示係は一応下級の役人だが、聖殿からのお知らせも請け負う。聖殿は国と一体ではなく独立したものなので、両方から仕事を仰せつかる公示係の立場には曖昧なところがあった。

 官庁からの知らせは一枚の紙にまとめられて伝書鳩で届く。今日のように配りたい文書があるときは、内務庁の役人が公示係のところに持っていくか郵送するらしい。ドゥイルはちょうど公示係と同じ下宿に住んでいるから、ちらしを預けられ持って帰ってくるはめになるのだ。

 いつもどおりドゥイルに鬱陶しく絡んだから、自分の部屋に入る。狭い部屋には寝台しかない。ウルカの店を殺風景だと思ったけれど、この部屋も負けてないのかもなとふと思う。いやでも、埃は積もっていないし空気も悪くないから、こっちのほうがましだ。

 暗くてほとんど何も見えない部屋の隅に鞄を置いて、寝台の上に座ろうとすると戸が叩かれた。開けると、角灯を持ったドゥイルがいた。部屋の闇の中にあたたかな色の光が差し込む。

 「渡し忘れた」

 ドゥイルは角灯をジンに押し付けて部屋に戻っていく。

 明かりは下宿のおかみのチャミンが用意してくれるので、先に帰ったほうが預かっておいて、あとから戻ったほうに渡すようにしているのだ。ジンのほうが遅いのは、珍しいことだった。

 「ありがとう」

 角灯の中で揺れる火を見ると、なんだか身体の芯のあたりがほぐれる、気がする。

 「早く夕飯いただいてこい」

 自分の部屋に入る直前、ドゥイルは静かに言った。




***




 夕飯は蕪と豆の煮込みと、茹でた芋だった。ネイレが食後のお茶を淹れてくれた。少し不思議だけれど落ち着く香りがする薬草茶だ。いつも、白く固まりかけたすごく古そうな蜂蜜をとかして飲む。ほのかな甘みと玄妙な香りになぐさめられて、頭の中が空っぽになっていく。

 ネイレはジンの目の前に座ってせっせと繕い物をしていた。その横で、チャミンが薬草茶をすすっている。チャミンは四十代半ばくらいで、ネイレの叔母らしい。ふたりは優しい栗色の髪がよく似ている。でもチャミンはいつも、その髪をもったいないくらいにぎゅっとひっつめていた。

 ネイレの父親と母親は、ネイレが一歳のときに疫病でなくなったと聞いている。それ以来、チャミンがネイレを育ててきたそうだ。ネイレはチャミンが母親ではなく叔母だということを物心ついたときから知っていたという。チャミンは母さんとは決して呼ばせてくれなかったのだそうだ。

 「ジン」

 チャミンに呼ばれて、ジンははっとした。ぼんやりしてしまったようだ。チャミンの目を見る。

 「はい」

 チャミンはひょいと肩をすくめた。

 「いや、なんでもないよ」

 そう言って静かに薬草茶の器に口をつける。ジンは笑ってしまった。

 「チャミンさん最近それ多くないですか? おれなんか変ですか?」

 自分で言って、ちらりと後悔した。首を傾げるチャミンからさりげなく目をそらして、器の中を見る。枯れていく前の森の色をした液体が、揺れている。

 「よっぽどあほ面してるとか……」

 つぶやくと、ネイレがくすりと笑った。

 「だいじょうぶ、あほ面はしてないよ」

 朗らかに言ってくれて、少しほっとする。

 「うん」

 チャミンもうなずいた。

 「今はしてないね」

 「叔母さん」

 不意にネイレがチャミンを呼ぶ。

 「何?」

 顔を向けたチャミンに、ネイレは楽しそうに言った。

 「わたしもなんでもない、呼んだだけ」

 「そう」

 短くこたえたチャミンの口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。ネイレもにこにこしながら繕い物を再開した。ジンは首を伸ばし、二階に向かって大声で呼んだ。

 「おいドゥイル!」

 しばらくして、階段の上からドゥイルの声がする。

 「どうした」

 ジンはへらへらとこたえた。

 「なんでもない、呼んだだけ」

 少しの間のあと、低い声が降ってきた。

 「処すぞ」

 そして、ぱたんと柔らかく戸を閉める音がする。目が合うとネイレがふきだして、くすくす笑い始めた。ジンも笑った。

 「ジンあんた、夜だよ。声が大きすぎる」

 チャミンが冷静に評する。ネイレは肩を震わせながらこくこくとうなずいていた。

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