1-2 林檎の監獄

 そのとき、景色がくるりと回った。なんの前触れもなく、目が開いたのだ。ジンはぱっと立ち上がってよそ見をした。我ながらものすごくわざとらしい。部屋の中は、しばらく静かだった。ジンも何を言えばいいのかわからなくて、言葉を発することができなかったのだ。しばらくしてふと、奇妙な静寂の中に言葉がぽつりと転がった。

「お客さん?」

 ジンは長椅子の上で相変わらず横たわっている人を見た。その人はじっとジンを見上げている。霧を閉じ込めた蒼玉のような、瞳をしていた。

「お客さん……」

 繰り返して、やっと意味を飲み込んだジンは勢いよく何度もうなずいた。

「あ、そう、そうです! ここって質屋さんですよね、ちょっとお金を借りたいんです! おれジンっていいます、ジン・サナルダ。街で毎日公示してるんです、聞いたことありませんか? ……えっと、そうじゃなくて、あの、開いてないと思って戸を引っ張ったら開いたので、勝手に入っちゃってすみません、あと驚かせてごめんなさい、でも怪しい者とかではないので……」

「別に」

 まくしたてていると、寝たまま遮られた。

「こっちは驚いてませんし、怪しい者だとも思ってません」

 落ち着いた声だった。とがってもいないし、気遣ってくれているようでもなかった。ジンは口をつぐんだ。確かにびっくりしてあわてふためいているのはジンのほうだ。

「店主です。何を預けますか」

 淡々と言いながら、店主はやっと起き上がる。髪の毛を邪魔くさそうにまとめながら、机に向かって顎をしゃくった。顔は青白いままだ。ジンがぼけっとしていると、店主はいぶかしげに眉を寄せた。

「質草にするもの。そこに置いて」

 言われて我に返ったジンは、外套の中から懐中時計を取り出して机に置いた。銀色の鎖がちゃらりと音を立てる。これを質入れして、金を借りるためにここに来たのだ。

「高価なものではないんです。傷だらけだし、まともに動いてないですし。でも、友達が使ってた大事なものなので」

 店主はジンの説明を聞いていなかった。時計を手に取って、じっと見つめている。にらみつけるような視線がふっとやわらぎ、口元に笑みが浮かんだ。ような気がした。店主はひたりとジンを見据えた。つい背筋が伸びる。店主はそっけなく言った。

「金二枚ですね」

「はい?」

 ひっくり返った声が出る。

「金貨を二枚貸します。期間は三か月です」

 ジンは机に両手をついて身を乗り出した。

「それ高すぎます!」

 借りたいが、無理ではないかと思っていた額の十倍だった。ジンが持ってきた時計はどう見てもそれだけの価値はない。金貨二枚の十分の一の価値があるのかすら怪しい。というよりきっとない。それに、三か月でその額を返すことはとてもできない。時計を手放すことになってしまう。あわてるジンをよそに、店主は素知らぬ顔で机の引き出しを開け、何やらがさごそとやり始める。ジンは急いで言った。

「そんなにいりません。銀二枚でいいんです。銀貨を二枚でお願いします」

 店主が顔を上げた。焦点が合っていないような、危うい目をしていた。ジンがはっとしてだいじょうぶかと聞きかけたとき、店主の目はしっかりとジンをとらえる。店主は、この世ならざるものを見たような顔をして言った。

「なんで? 金貨二枚です」

 ジンはちょっと混乱した。

「いやなんでって。それでじゅうぶんだから……」

「金二枚です」

「いやえっと、銀二枚で」

「なんで?」

「こっちのせりふなんですけど……」

 そのとき店主が、急に机をどんと叩いた。ジンが首をすくめて黙ると、店主はぼそりとつぶやいた。

「金貨二枚借りてその時計流せばいいのに」

「え?」

 三か月経っても金貨二枚と質料ぶんを返せなければ、質流れしてジンは時計を手放すことになる。でも、時計を取り戻せなくなるだけだと言えば、それだけだ。

「なんでもないです」

 店主は何事もなかったように言った。首を回しながら、また机の引き出しに顔を突っ込む。

「わかりました、銀二枚でいいです。質料は月に一割です。どうぞご確認ください」

 机の上に、手垢にまみれた銀色の硬貨が二枚飛び散る。ジンはそれを拾った。

「質札を書きますから、そのあたりにてきとうにいてください」

 店主は言って、紙を広げていた。なんだか力が抜けてしまって、ジンはぼんやりとその場に突っ立っていた。

 持ってきた時計は、この前売ろうと決意して持っていった店では相手にしてもらえなかったのだ。傷がついているし、針が曲がっているし、この世界とはまったく違う時間を刻んでいる。分解して金物の部品にしても売れないと言われてしまった。落ち込んで、よく行く料理屋の主人にその話をすると、壊れたものでも質草にして高い額を貸してくれる質屋があると教えてくれたのだ。でもさすがに自分の時計は無理ではないかと思っていたのだが。しっかり借りることができてしまった。

「ありがとうございます」

 ジンは店主に言った。店主は手を止めず、反応もしなかった。

「必ず返します」

 店主の羽筆がぴたりと止まる。どうしたのかと首を傾げると、店主は肩をすくめた。

「まあほどほどに」

 なんだか気遣われたような気がして、ジンは微笑んだ。

「ジン・サナルダ」

 いきなり名前を呼ばれる。

「はい」

 何事かと机のそばに駆け寄ると、煙たそうな顔をされた。

「で、間違いないですね」

 名前を確認しただけだった。ジンはあとずさりながらうなずいた。

「間違いないです」

 羽筆を置いた店主は、書き終えたらしい書類をそのままジンに向かって突き出してきた。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 ジンは両手で受け取った。店主は長椅子の上からジンを見上げ、静かに言った。

「ではこの時計みたいなものはお預かりします。さよなら」

「えっと、三か月後にまた来ます、もっと早いかも」

 ジンが言うと、店主はふわりと首を傾げた。平坦な口調で繰り返す。

「さようなら」

「はい、また」

 謎の負けん気を起こしてジンはそう返した。店主は机に肘をついてこめかみを押さえた。

「また来ますから」

 念押しする。すると店主は黙ったまま、額を机に打ちつけた。

 ジンはさすがにぎょっとした。ちょっと思考が停止してしまった。目の前の人がいきなり、頭を机に叩きつけたのである。なんだか鈍い音がしたので、かなりの勢いで打ちつけている。いろいろとだいじょうぶなのだろうか。

「どうしましたか?」

 ジンは店主を覗き込んだ。店主は動こうとしない。

「だいじょうぶですか?」

 店主はだんまりを決め込んでいる。ジンはその様子を横から眺め、なんだか心配になってきた。いろいろと、だいじょうぶじゃないのかなこの人。そう思ったとき突然、店主がむくりと起き上がった。

「わ……っ」

 ジンは言葉を失った。店主はひどい顔色をしていた。さっきまでも決して血色がよかったわけではないが、さらに悪化している。

「まだいたんですか……」

 小さくつぶやいた店主の身体がぐらりとかしいだ。そのまま、ゆっくりと長椅子に倒れ込んでいく。

 ジンはそれを呆然と見守った。店主は、両足を床につけたまま上半身を横たえた姿勢になっている。店に入ってきたばかりのときに見たのと同じ様子だった。それをしばらく眺めたジンは唐突に我に返り、長椅子に駆け寄った。

「ちょっとだいじょうぶですか!」

 横たわって目を閉じている店主の肩を掴む。細くて驚いてしまった。

「どうしましたか? 気持ち悪い?」

 大声で呼びかけると、ぎゅっと眉間にしわが寄った。

「起きてる? 意識ある?」

 店主は顔を歪めたままこたえない。

「顔色ひどいです、貧血?」

「う……」

「何?」

 店主がうめくので、ジンは顔を覗き込んだ。まぶたが薄く開いて蒼の瞳がのぞく。店主は恨めしそうに言った。

「うるさい……」

 ジンははっと口を覆った。声が大きいのは、自他ともに認めていることだ。でも少しだけ、ほっとする。意識はあるようだ。しかし安心している場合ではない。見ているほうまで気分が悪くなりそうな真っ青な顔なのだ。

「医者を呼んできます」

 立ち上がろうとすると、袖を掴まれた。

「いらない……」

 店主はうなった。

「気分悪いだけ……寝てれば治る……」

 袖を力なくとらえた指の、爪の色まで悪いのだが。

「だめだと思います」

 ジンが言うと、店主は目を閉じたまま首を振った。

「だいじょうぶ……元気だから……」

「はい?」

「どこも悪くない……」

 とてもそんなふうには見えない。

「おれが来る前から気分悪かったんでしょ? 何か思い当たることありますか? 変なもの食べたとかは?」

「ない……食べてない……」

「食べてない?」

 聞き返すと、声が大きすぎたのか店主はびくりと肩を震わせた。

「ん?」

 ふと思い至って、ジンは叫んだ。

「飯食ってないってことですか?」

「黙って……」

「いつから?」

 店主は色のない唇をかみしめる。

「ねえいつから?」

「知らない……」

「知らないって、自分のことでしょ?」

「覚えてない……」

 ジンは絶句した。何も買えないのだろうか。そんなことはないはずだ。少なくともジンが借りた銀貨二枚があったはずだ。もし何も買えなかったのだとしても、聖殿で配給をしているからもらいに行くこともできる。

「お腹すかない……」

 何を言ってるんだこの人は。血色最悪なの、絶対そのせいだ。

「ちょっとおかしいと思います!」

 店主が小さく悲鳴のような声をもらした。うるさすぎるようだ。でもそんなことは知らない。関係ない。

「食うもん食わないとだめです! ちょっと死なないで待っててください!」

 ジンは肩を怒らせて外に飛び出した。

「ひゃあっ」

 甲高い叫び声が上がる。

 何事かと思って見ると、蹴破る勢いで開け放った扉の前で誰かがしりもちをついていた。店の中に入ろうとしていたらしいと気づき、ジンは咄嗟に謝った。

「ごめん!」

 そばにひざまずく。裾が長い黒の外套を着た小柄な人だった。頭巾をかぶっていて、顔がよく見えない。蓋の付いたかごを大事そうに抱えている。

「いいよ!」

 はつらつとした声が返ってきた。

「びっくりしたけど、だいじょうぶだよ!」

 頭巾がずれて、笑顔がのぞく。まだ幼い少年だった。

「中もたぶん無事!」

 少年はかごの中をそっと覗き込み、大きくうなずいた。

「全然崩れてなかったよ!」

 太陽のような笑顔で言う。

「そうか、よかった」

 立ち上がって少年に手を差し伸べる。素直に差し出してくれた手を引っ張って立たせると、少年はありがとうとにっこり笑った。

「お兄ちゃん有名な人? なんか見たことある気がする」

 少年は興味津々といったふうにジンを見上げて聞いてくる。そして何か思い出したように大きく目を見開いた。

「ねえ、ウルカいるよね? 林檎の監獄届けに来たの」

 



***




 少年を勝手に店に上げたジンは、店の中を自分の部屋かのようにいじくりまわし始めた。まず窓を開けて、はっきり言って臭い部屋の空気を入れ替え、布巾などというものが見当たらないので襟巻きで机の埃を拭いて、そこで少年が持ってきた林檎の監獄を切り分けてもらうことにした。使われていなかったせいで存在に気づかなかった暖炉に火を入れて、井戸から水を汲んできて火にかけた。

「お兄ちゃん働き者だね!」

 少年は走り回るジンを眺めて楽しそうに言っていた。店主はひどい顔色のまま、なんだかすべてをあきらめたように目を閉じていた。

「じゃあきみ、えっと」

 ひととおり部屋を引っ掻き回して済んだジンがやっと少年のほうを見ると、少年ははじけるような笑顔で言った。

「ぼくヘテヤだよ! ディーオと一緒に監獄焼いてるの。お砂糖も牛酪も卵も使ってないけどおいしいよ! あっこれは言っちゃだめなんだっけ……」

 ヘテヤの朗らかな口調と笑顔は眩しかった。こんなに輝くように笑う人を見たのはいつぶりだろうと思う。

「よろしくヘテヤ。おれはジンだよ。監獄出してくれるか?」

「うん!」

 ヘテヤは元気よくうなずいてかごの蓋を開け、恭しい手つきで中身を取り出した。出てきたのは、大きな丸い焼き菓子だ。濃い蜜のような色にこんがりと焼けた表面には、美しい格子の模様がついている。この国では監獄と呼ばれている料理だ。投獄されるものはいろいろだが、ヘテヤは林檎の監獄と言ったので中には林檎が閉じ込められているようだ。

「うまそうだな」

 ジンが言うと、ヘテヤは得意げににやりとした。

「うまいよ。食べだしたら止まらなくなるからねえ」

 どこで教わったのか、うひひひと不気味な笑い方をしながらヘテヤは小さな包丁を取り出し監獄を切り分けていく。さくさくと小気味よい音がした。

 ジンもヘテヤと一緒になってうへへへとおかしな声を出しながら、店主が寝ている長椅子に近づいた。店主は明らかに不快そうにきつく眉根を寄せている。ジンはおかまいなしにのんきな口調で声をかけてみた。

「監獄、食えそうですか?」

「ねえウルカ、またちゃんと食べてなかったんだね? だめだよ?」

 ヘテヤも、幼い子供に諭すようにやわらかい口調で言う。すると店主は低くうなった。

「黙れ」

 ジンは首をすくめた。案じてくれるかわいらしい子供もいるというのに、その言い草はないのでは。でもヘテヤは、気にしたふうでもなくご機嫌に手を動かしている。

「ヘテヤは監獄屋さんなのか?」

 聞いてみると、ヘテヤはいきなりジンのほうに突進してきた。

「そうだよ! ぼくとディーオが作った監獄ね、すっごくおいしいんだよ! えっと、あとね、お砂糖と牛酪と卵は入ってないけど、いっぱい栄養があるんだよ!」

 ヘテヤは全身から光を放ちながら力説する。ジンは目を細めてうなずいた。ふと見ると、机の上の監獄には刃物が突き刺さったままだった。危ない。

「それはすごいな」

「うん! 今日はねえ、ウルカに届けに来たの。ウルカはぼくたちの金づるなんだ。ディーオが言ってた」

 紫がかった珍しい色の瞳をきらきらさせてヘテヤは言う。ジンはちらりと店主を見た。「金づる」に反応している様子はないが、ジンはかがんでヘテヤと目を合わせた。

「金づるとかあんまり外で言わないほうがいいんだぞ」

「そうなの? なんで?」

「ええっと、その人のこと、大事に思ってないみたいに聞こえることがあるからかなあ……」

「そうなんだ? でもぼくはウルカのこと大事だよ!」

 ジンは頭を抱えた。きっと、この少年には勝てない。

「ごめん。金づるって言ってもいいと思う」

「うん?」

 ヘテヤはとことこと店主のそばに歩み寄ると、やさしく話しかけ始めた。

「ねえウルカ。今度から三日に一回にする? それとも毎日届けに来ようか?」

「いらない……もう来るな」

「だめだよ。ぼくが来なかったらウルカ死んじゃうでしょ」

「そうでもない……」

「ううん、そうだと思う」

 店主はだるそうに寝返りを打ってヘテヤに背を向けた。ヘテヤが店主をねえねえと揺さぶっている。どうもヘテヤは、ディーオという人と監獄を焼いて売っていて、定期的にこの店に届けに来るようだ。それにしてもこの店主は、幼い少年にこんなに心配をかけて、どのような心境で背中を向けているのだろうか。ジンはあきれた。

 ヘテヤが店主と格闘しているあいだに、ジンは監獄に刺さった包丁を抜いて最後まで切り分けた。八つに切ってもひと切れがずいぶん大きい。

「ねえ、食器ありますか?」

 ジンは店主にたずねた。店主は緩慢な動きで壁をゆびさした。壁に取り付けられている戸棚のことらしい。ジンは戸棚を開けてみた。中には深い器と皿と匙がひとつずつ置いてあるだけだった。しかもうっすら埃をかぶっている。ジンはじとりと店主のほうを見た。

「ちょっと……」

「うるさい黙れ……」

「口悪くなってますよね?」

「そうだよ! 口縫いつけられちゃうよ!」

 店主は両耳を塞いで身体を丸める。ジンは薄汚れた食器を取り出しながら言った。

「生きてるんだから、ちゃんとしないと」

 すると店主が、こたえた。一瞬すっと血の気が引いたような気がした。でもジンは平静を装って外に出た。この器たちをすすがなければならない。

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