1-2 林檎の監獄

 ジンはさすがにぎょっとした。

 海に流れ着いてから路地裏に入り、質屋にやって来て銀貨を借りられることになったのはいいが、ちょっと思考が停止してしまった。

 店主がいきなり、頭を机に叩きつけたのである。なんだか鈍い音がしたので、かなりの勢いで打ちつけている。いろいろとだいじょうぶなのだろうか。

 「どうしましたか?」

 ジンは店主を覗き込んだ。店主は動こうとしない。

 「だいじょうぶですか?」

 店主はだんまりを決め込んでいる。ジンはその様子を横から眺め、なんだか心配になってきた。いろいろと、だいじょうぶじゃないのかなこの人。

 突然、店主がむくりと起き上がる。

 「わっ……」

 ジンは言葉を失った。店主はひどい顔色をしていた。さっきまでも決して血色がよかったわけではないが、さらに悪化している。

 「まだいたんですか……」

 小さくつぶやいた店主の身体がぐらりとかしいだ。そのまま、ゆっくりと長椅子に倒れ込んでいく。

 ジンはそれを呆然と見守った。店主は、両足を床につけたまま上半身を横たえた姿勢になっている。店に入ってきたばかりのときに見たのと同じ様子だった。

 ジンは急に我に返り、長椅子に駆け寄った。

 「ちょっとだいじょうぶですか!」

 横たわって目を閉じている店主の肩を揺さぶる。細くて驚いてしまった。

 「どうしましたか? 気持ち悪い?」

 大声で呼びかけると、ぎゅっと眉間にしわが寄った。

 「起きてる? 意識ある?」

 店主は顔を歪めたままこたえない。

 「顔色ひどいです、貧血?」

 「う……」

 「何?」

 店主がうめくので、ジンは顔を覗き込んだ。まぶたが薄く開いて蒼の瞳がのぞく。店主は恨めしそうに言った。

 「うるさい……」

 ジンははっと口を覆った。声が大きいのは、自他ともに認めていることだ。でも少しだけ、ほっとする。意識はあるようだ。しかし安心している場合ではない。見ているほうまで気分が悪くなりそうな真っ青な顔なのだ。

 「医者を呼んできます」

 立ち上がろうとすると、袖を掴まれた。

 「いらない……」

 店主はうなった。

 「気分悪いだけ……寝てれば治る……」

 袖を力なくとらえた指の、爪の色まで悪いのだが。

 「だめだと思います」

 ジンが言うと、店主は目を閉じたまま首を振った。

 「だいじょうぶ……元気だから……」

 「はい?」

 「どこも悪くない……」

 とてもそんなふうには見えない。

 「おれが来る前から気分悪かったんでしょ? 何か思い当たることありますか? 変なもの食べたとかは?」

 「ない……食べてない……」

 「食べてない?」

 聞き返すと、声が大きすぎたのか店主はびくりと肩を震わせた。

 「ん?」

 ふと思い至って、ジンは叫んだ。

 「飯食ってないってことですか?」

 「黙って……」

 「いつから?」

 店主は色のない唇をかみしめる。

 「ねえいつから?」

 「知らない……」

 「知らないって、自分のことでしょ?」

 「覚えてない……」

 ジンは絶句した。何も買えないのだろうか。そんなことはないはずだ。少なくともジンが借りた銀貨二枚があったはずだ。もし何も買えなかったのだとしても、聖殿で配給をしているからもらいに行くこともできる。

 「お腹すかない……」

 何を言ってるんだこの人は。血色最悪なの、絶対そのせいだ。

 「ちょっとおかしいと思います!」

 店主が小さく悲鳴のような声をもらした。うるさすぎるようだ。でもそんなことは知らない。関係ない。

 「食うもん食わないとだめです! ちょっと死なないで待っててください!」

 ジンは肩を怒らせて外に飛び出した。

 「ひゃあっ」

 甲高い叫び声が上がる。

 蹴破る勢いで開け放った扉の前で、誰かがしりもちをついていた。店の中に入ろうとしていたらしいと気づき、ジンは咄嗟に謝った。

 「ごめん!」

 そばにひざまずく。裾が長い黒の外套を着た小柄な人だった。頭巾をかぶっていて、顔がよく見えない。蓋の付いたかごを大事そうに抱えている。

 「いいよ!」

 はつらつとした声が返ってきた。

 「びっくりしたけど、だいじょうぶだよ!」

 頭巾がずれて、笑顔がのぞく。まだ幼い少年だった。

 「中もたぶん無事!」

 少年はかごの中をそっと覗き込み、大きくうなずいた。

 「全然崩れてなかったよ!」

 太陽のような笑顔で言う。

 「そうか、よかった」

 立ち上がって少年に手を差し伸べる。素直に差し出してくれた手を引っ張って立たせると、少年はありがとうとにっこり笑った。

 「お兄ちゃん有名な人? なんか見たことある気がする」

 少年は興味津々といったふうにジンを見上げて聞いてくる。そして何か思い出したように大きく目を見開いた。

 「ねえ、ウルカいるよね? 林檎の監獄届けに来たの」

 救世主が降臨したようだ。




***




 少年を勝手に店に上げたジンは、店の中を自分の部屋かのようにいじくりまわし始めた。まず窓を開けて、はっきり言って臭い部屋の空気を入れ替え、布巾などというものが見当たらないので襟巻きで机の埃を拭いて、そこで少年が持ってきた林檎の監獄を切り分けてもらうことにした。使われていなかったせいで存在に気づかなかった暖炉に火を入れて、井戸から水を汲んできて火にかけた。

 「お兄ちゃん働き者だね!」

 少年は走り回るジンを眺めて楽しそうに言っていた。店主はひどい顔色のまま、なんだかすべてをあきらめたように目を閉じていた。

 「じゃあきみ、えっと」

 ひととおり部屋をひっかきまわして済んだジンがやっと少年のほうを見ると、少年ははじけるような笑顔で言った。

 「ぼくヘテヤだよ! ディーオと一緒に監獄焼いてるの。お砂糖も牛酪も卵も使ってないけどおいしいよ! あっこれは言っちゃだめなんだっけ……」

 ヘテヤの朗らかな口調と笑顔は眩しかった。こんなに輝くように笑う人を見たのはいつぶりだろうと思った。

 「よろしくヘテヤ。おれはジンだよ。監獄出してくれるか?」

 「うん!」

 ヘテヤは元気よくうなずいてかごの蓋を開け、恭しい手つきで中身を取り出した。出てきたのは、大きな丸い焼き菓子だ。濃い蜜のような色にこんがりと焼けた表面には、美しい格子の模様がついている。この国では監獄と呼ばれている料理だ。投獄されるものはいろいろだが、ヘテヤは林檎の監獄と言ったので中には林檎が閉じ込められているようだ。

 「うまそうだな」

 ジンが言うと、ヘテヤは得意げににやりとした。

 「うまいよ。食べだしたら止まらなくなるからねえ」

 どこで教わったのか、うひひひと不気味な笑い方をしながらヘテヤは小さな包丁を取り出し監獄を切り分けていく。さくさくと小気味よい音がした。

 ジンもヘテヤと一緒になってうへへへとおかしな声を出しながら、店主が寝ている長椅子に近づいた。

 店主は明らかに不快そうにきつく眉根を寄せている。ジンはおかまいなしにのんきな口調で声をかけてみた。

 「監獄、食えそうですか?」

 「ねえウルカ、またちゃんと食べてなかったんだね? だめだよ?」

 ヘテヤも、幼い子供に諭すように柔らかい口調で言う。

 「黙れ」

 店主が低くうなる。案じてくれるかわいらしい子供もいるというのに、その言い草はないのでは。ジンは首をすくめた。でもヘテヤは、気にしたふうでもなくご機嫌に手を動かしている。

 「ヘテヤは監獄屋さんなのか?」

 聞いてみると、ヘテヤはいきなりジンのほうに突進してきた。

 「そうだよ! ぼくとディーオが作った監獄ね、すっごくおいしいんだよ! えっと、あとね、お砂糖と牛酪と卵は入ってないけど、いっぱい栄養があるんだよ!」

 ヘテヤは全身から光を放ちながら力説した。ジンはふっと目を細めた。ふと見ると、机の上の監獄には刃物が突き刺さったままだ。危ない。

 「そうか」

 「うん! 今日はねえ、ウルカに届けに来たの。ウルカはぼくたちの金づるなんだ。ディーオが言ってた」

 紫がかった珍しい色の瞳をきらきらさせてヘテヤは言う。ジンはちらりと店主を見た。「金づる」に反応している様子はないが、ジンはかがんでヘテヤと目を合わせた。

 「金づるとかあんまり外で言わないほうがいいんだぞ」

 「そうなの? なんで?」

 「ええっと、その人のこと、大事に思ってないみたいに聞こえることがあるからかなあ……」

 「そうなんだ? でもぼくはウルカのこと大事だよ!」

 ジンは頭を抱えた。きっと、この少年には勝てない。

 「ごめん。金づるって言ってもいいと思う」

 「うん?」

 ヘテヤはとことこと店主のそばに歩み寄ると、優しく話しかけ始めた。

 「ねえウルカ。今度から三日に一回にする? それとも毎日届けに来ようか?」

 「いらない……もう来るな」

 「だめだよ。ぼくが来なかったらウルカ死んじゃうでしょ」

 「そうでもない……」

 「ううん、そうだと思う」

 店主はだるそうに寝返りを打ってヘテヤに背を向けた。ヘテヤが店主をねえねえと揺さぶっている。どうもヘテヤはディーオという人と監獄を焼いて売っていて、定期的にこの店に届けに来るようだ。それにしてもこの店主は、幼い少年にこんなに心配をかけて、どんな心境で背中を向けているのだろうか。ジンはあきれた。

 ヘテヤが店主と格闘しているあいだに、ジンは監獄に刺さった包丁を抜いて最後まで切り分けた。八つに切ってもひと切れがずいぶん大きい。

 「ねえ、食器ありますか?」

 ジンは店主にたずねた。店主は緩慢な動きで壁をゆびさした。壁に取り付けられている戸棚のことらしい。ジンは戸棚を開けてみた。中には深い器と皿と匙がひとつずつ置いてあるだけだった。しかもうっすら埃をかぶっている。ジンはじとりと店主のほうを見た。

 「ちょっと……」

 「うるさい黙れ……」

 「口悪くなってますよね?」

 「そうだよ! 口縫いつけられちゃうよ!」

 店主は両耳を塞いで身体を丸める。ジンは薄汚れた食器を取り出しながら言った。

 「生きてるんだから、ちゃんとしないと」

 すると店主が、何か言った。一瞬すっと血の気が引いたような気がした。でもジンは平静を装って外に出た。この器たちをすすがなければならない。

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