1. 蒼の表層

1-1 空虚の罪

 見えない刃物の群れみたいな北風が、吹き荒んでいる。その中で息をし続けていると、身体の中が傷ついて冷え切って、凍りついてしまいそうだ。くたびれきった外套と襟巻きも穴だらけの靴下も、鋭い冷たさの中でほとんど役割を果たしていない。肩にかけた鞄は水から上がったばかりのようにずしりと重く、擦り切れた靴底で石畳を踏みしめるたびに、こめかみがきんと痛む。

 同じように気休めみたいな防寒をした人々が、下を向いて黙々と歩いている。道の片側に立ち並ぶれんが造りの建物は灰をかぶったような色をして、横を流れる運河はよどんだ水面にところどころ薄氷を浮かべていた。この国の冬は暗い。今日は特に陰っていた。


 さっき、海を見に行ってきた。見に行ったというか、いつの間にか、浜辺にいた。流れ着いたみたいに。

 海も空も、色を忘れてしまっていた。境目がどこかもよくわからなくて。やみくもにかき回されているみたいに揺れて波立って、荒れていて。

 その波の中で、粉々になるのをじっと待っているような桟橋に近づこうとしたら、呼び止められた。痩せた小さな男の子だったと思う。その子はじっとこちらを見つめて、今から死ぬなら金目のものを全部譲ってほしいという趣旨のことを言ってきた。なるほどそういう稼ぎ方もあるのだなと思った。ただ、その子には気の毒だが、死ぬ予定はなかった。だから目線を合わせ、なるべく真摯に説明を試みた。

 その子の不服そうな顔を思い出す。話を最後まで聞かずに、砂をまき散らしながら走り去っていった背中は、とても小さかった。


 運河に架かる木造の橋の真ん中までずかずかと進み、立ち止まる。金物の鍋を杓子で叩くと、落ち着きのない雑音が響いた。ジンは声を張り上げた。

「おはようございます! 今日のお知らせの時間です! 聞き流してください!」

 ざわざわとした王都の街の中、ジンに目を向ける人はいない。みんなせわしなく動き続けている。でも、耳はこちらを向いている。たぶん。ふたつの道にまたがる橋の上で、人々へのお知らせが書かれた紙を広げ、ジンはいつもどおりに仕事を始めた。

「今日のお知らせは六件です。まず一件目、聖殿からです。三日後十時から、集会を開きます。たくさんの参加を待っていますとのことです」

 大陸でほとんどの人が信仰している、人々を癒して救うと言われる存在を祀った聖殿では、月に何度か集会が開かれる。祭司の話を聞いて祈りを捧げる会だ。聖殿の孤児院や、貧民院のための寄付も募っている。まだ余裕のある人たちに向けた行事だった。

「二件目も、聖殿からです。配給に来るときは、各自で器を持ってくるようにしてください。貸し出しを受けた場合も自分で洗ってください、えっと、しっかり」

 これは繰り返すようにと念押しされている。もうずいぶん前から叫んでいることだ。

「繰り返します、聖殿から配給についてお願い……」

 うしろから頭をはたかれたので振り返ると、魚の入った大きなかごを抱えた人が通り過ぎていくところだった。かごが当たったのだ、わざとではない。

「器は自分で持っていくようにしてください、借りたらちゃんと洗ったほうがいいです」

 聖殿は立場上、困っている人たちを放っておくことはできないらしい。でもなるべく負担は軽くしたいだろう。大量に食べるものを用意して、食器も用意してそれを片付けてというのは大変なことだ。人々からの寄付や国からの献金を受けているとはいえ、できることには限りがある。祭司たちだって人間だ。

「三件目は、内務庁から。城壁の補修工事を始めるので、人手を募集します。寒いですが急ぎの工事で、緊急の募集です」

 言うことを言ってから、ジンは肩に下げた鞄から紙の束を取り出し、左右の道にまき散らした。内務庁が作った人員募集の広告だ。紙はひらひらと舞って道や運河に落ちた。沈んだり踏みつけられたり遠くのほうへ飛んでいったり、拾われて服の中に突っ込まれたりしていた。

 左の道から欲しいと手を振っている人がいたので、ジンは広告をぐしゃりと丸めてその人に向かって投げた。見事に受け止めて、ありがとうと言ってくれた。そして雑踏の中に紛れて見えなくなった。

「四件目は、巡察庁からです。近頃路地裏で焚火の跡が見受けられます……。火事の危険があるので、焚火は控えるようにしてください」

 じゃあしなくて済むように、なんとかしてくれればいい。でも、そんなに簡単な話ではないのだろう。

「五件目も巡察庁から。先月の泥棒、ですが、まだ捕まっていません。夜は鍵をかけるのを忘れないようにしてください。暗くてひとけのない場所にはじゅうぶん注意してください」

 目抜き通りの軍人の家に、強盗が入ったのだ。不安に駆られた夫人が毎日巡察庁にやってくるのだという。そこまで言い終えると、ジンは深呼吸した。

「最後、六件目は」

「国王陛下からです!」

 建物の前で座り込んでいる若者に先を越された。見ると、若者はにやにやと笑っている。周りには、同じように上品とは言えない表情を浮かべた若者たちが何人もいた。

「そうです国王陛下からです!」

 ジンは遠くを見ながら声を張った。

「国王陛下は、いつもおれたち民衆とともにいてくださいます」

「それはけっこう!」

「最高の王さまだ!」

「泣いちゃいそう」

「ありがたすぎて死ぬ」

 若者たちが口々に言って、げらげらと笑っている。ほかの人々はそれを無視して、せっせと自分の用事をこなしていた。

 官庁と街の人々をつなぐ公示係であるジンのもとには、伝書鳩で公示内容を記した紙が毎日届く。紙には、宮廷庁からのお知らせとしていつもいつも、「国王陛下からの伝言」が書かれている。それは国王の心はいつでも民のもとにある、というもので、今まで変わったことはない。だからジンのお知らせは一年中例外なく、国王の同じ言葉で締めくくられる。

 若者たちのほうに顔を向けると、ひとりと目が合った。ジンはにこりと笑いかけた。彼は驚いたように目をそらしたが、仲間と顔を見合わせるとあきれたように肩をすくめて鼻を鳴らしていた。

「今日のお知らせはこれでおしまいです! みなさんごきげんよう!」

 ジンは明るく怒鳴ると、大股で橋を渡り切った。




***




 ほか四つの場所を回って同じお知らせを繰り返し、終わるころには夕方が近かった。頼りない明かりが灯り始めた街をどんどん歩いていく。沈みかけているのに、太陽はずいぶん遠い。もう少し近くであたためてくれてもいいのになと思う。

 進む道が広くなりひらけてきた。とがった屋根の塔が見えてくる。聖殿だ。壁は漆喰で白く固められており、街のれんが造りの建物とは違う厳粛な雰囲気を持っている。聖殿は、四つの塔をつなぐ塀のような建物が中庭を囲んでいるというつくりをしていた。その周りには、貧しい人が暮らす施設や療養所、孤児院や学校や、墓地がある。聖殿の敷地は王宮のように広い。

 開け放たれた門をくぐり、中庭に入る。そこには畑があって、根菜が何種類も育てられている。白い服を着た子供たちが、廊下を走っていくのが見えた。

 ジンはまっすぐ奥の塔に向かった。閉ざせば堅牢な大きな扉は、いつも開いている。中に入ると、そこにはしっとりとした静けさが満ちていた。正面の祭壇には、色とりどりの花で編まれた輪があふれんばかりに飾られており、かすかにあまい香りが漂っている。そのそばには、花の世話をしている祭司がいた。

 祭壇の前で、ひざまずいている男性が目に入る。両手を組み合わせて腰をかがめ、何か一心に祈っている。近頃聖殿に来ると、よく見る人だ。着ている服は色褪せているが、金色の髪はろうそくの明かりに照らされて絹織物のようにつやめいていた。

 ジンは塵ひとつない冷たい大理石の床に膝をついた。手を組み合わせて目を閉じる。十を数えて、ジンは立ち上がった。男性はまだ祈り続けていたが、ジンは塔をあとにした。

 前に住んでいた村にも、聖殿はあった。幼いころから毎日祈りを捧げていた。母からは、聖殿の前を通ったらそのまま通り過ぎずに、必ず挨拶するようにと教わった。今でも、ほとんど無意識のようにその言いつけを守っている。住んでいる下宿に帰るまでの道に聖殿があるから、とくにがんばらなくても毎日訪れることができるし。

 いつも来るからか、大祭司によく話しかけられる。大祭司は聖殿の代表で、人々から尊敬を集める存在だ。この聖殿の大祭司は、なんというかずいぶんさっぱりとした人で、仕事も依頼してくれている。今日は会わなかった。聖殿の敷地を出て、痺れるような冷たい風の中を歩いていく。

 隠しに手を滑り込ませる。ほのかなぬるみの中から取り出したのは、銀色の鎖がついた、傷だらけの懐中時計だ。幼馴染のロンデが、父親からもらって大切にしていた。三年前に主を失って、ぼろぼろになっていて、それでもちゃんと動いていたのに去年あたり突然おかしくなった。華奢な黒い針は曲がっていて、いつも冗談みたいな時刻を示している。一定の時間ずれているのではなく、針の動く速さがまちまちになっているようだった。でもこれを、質草にするつもりだ。

 三度目の、みんなの救解日、であろう日が、もうすぐやってくるのだ。みんなが、死んだのであろう日。

 救解日には、聖殿に花輪を持ち込んで、祈りを捧げることになっている。そうすればなくなった人の魂が、癒されるのだと言われていた。祭司に依頼して儀式を執り行ってもらうのが、正式な形とされている。

 今年の救解日も、みんなの魂をなぐさめるために、祭司に祈りを頼むつもりだ。しかし今、費用が出せない状態になっている。そのため借りる必要があった。

 少し前に、内務庁の上司がなくなったのだ。王宮に出仕するわけではないジンは、ほとんど会ったことのなかった人だ。でも何もしないということはできなかったので、花輪を買って届けた。救解日だけでなく、弔いのときも、花輪を送るのだ。仕方がないとはいえ予想外の出費で、これが痛かった。みんなの救解日はもうすぐなので、取り急ぎ、借りることにした。

 担保にできるものが、壊れてしまった時計だけというのは切ない。売ろうともしたが、そんな時計は買えませんと言われてしまった。今日は、いつも行く料理屋の主人に教えてもらった質屋を訪ねてみる。

 なんとか動こうとする、かなしいくらいけなげな時計をしまって、ジンは質屋を目指す。

 それにしても寒い。今日の夕飯はなんだろう。あたたかいものがいいな。あの人、城壁の修繕工事に行くのかな。ちらし受け取ってもらえて、ちょっとうれしかった。でも思うんだけど、宮廷庁はそろそろ王さまからの伝言変えろよ。おれが勝手に感動の演説を捏造しようかな。もしかして期待されてるのかな。気づくの遅くてごめん。

 どうでもよさそうなことを、さまざまに考えてみる。こうして頭の中に何かを垂れ流しておけば、なんとかごまかせているような、気になれるのだ。




***




 ふいと曲がって路地に入ると、壁に風が遮断されるかわりに世界の明度が一段下がる。狭苦しい通路には、寒さをしのぐ人たちがいた。使い古した雑巾のような毛布をかぶって身を寄せ合っていたり、紙を燃やして焚火をしたりしている。家のない人は聖殿が受け入れているが、入りきらないのだ。人々は落ちくぼんだ目でちらりとこちらを見て、でもすぐに興味を失いあらぬ方向に視線を向けていた。どこからか、抑えが効かなくなったような大きな笑い声が聞こえる。確かこのあたりには酒場があった。

 路地を抜けてしばらく歩くと、太い道に出る。まっすぐ行けば王宮という、大通りだ。人がたくさん行き交っており、ときおり馬車も走る。でも、華やかなにぎやかさはない。

 そんな色の抜けた通りを横切り、下宿か、誰かの家だったらしい建物に近づいていく。建物の足元に、地下へと続く階段が見えた。ひとりがやっと通れるくらいの幅だ。奥のほうは暗くて、様子がよくわからない。でも、ここで間違いないはずだ。

 外套の隠しに手を突っ込んであたたまった金属の感触を確かめてから、階段を下りていく。人々の気配が、遠ざかっていく。世界から分離されて、別のどこかに向かっているような気がした。そんなどこかがあったなら、苦労しないのだが。

 階段を下りきると、目の前には重たそうな木の扉が現れた。扉の横には錆びついた呼び鈴がぶら下がっている。鳴らすと、かすれた悲鳴のような音が出た。背筋を伸ばし、風にからかわれた髪をちょっと整えて、外套の襟を正す。中から出てくる人に挨拶する用意はできた。でも、まったく反応がない。

 今日は休みなのだろうか。もう一度、呼び鈴を鳴らしてみたが、返事はなかった。出直そうかと扉に背を向けかけて、思いとどまる。せっかく来たのだし。扉に向かって声をかけてみる。

「こんにちは」

 やけに響いた。

「どなたかいませんか」

 声がふわふわと反響したあと、静寂が降りてくる。どうも、どなたもいないようである。悪あがきとして、丸い輪の形をした取手を掴んで引いてみる。

 開いた。

 開くとは思っていなかったから、驚いてしばらく固まってしまった。どうにか正気に戻って、ジンは中を見渡した。傷だらけでところどころはがれた板張りの床に、黄ばんだ白の壁。その壁には戸棚がはりついていた。奥には鉄格子が取り付けられた、横長の高い窓がある。窓のそばに、重たそうな古びた机が置いてあった。

 半地下の部屋のようだ。なんだか埃っぽくて、濁った匂いのぬるい空気が満ちていた。机の上には墨の瓶と羽筆と埃しか載っていなくて、毛布とか服とかやわらかそうなものはひとつも見えなくて、ひどく殺風景だ。

 やっぱり誰もいないのか。それとも場所を間違えただろうか。そう思いながらも、なぜだか部屋の奥へ誘われる。扉から手が離れる。鈍重な音を立てて閉まる。奥へ歩を進める。一歩ごとに、床が警告するかのように軋む。

 立ち止まる。

 机の向こうに、長椅子があるのが見えた。そしてその上に、布のかたまりが無造作に置いてある。違った。それは横たわっている人だった。

 二十前後の年頃に見える女性だ。座った姿勢から倒れ込んだのか、両足は床についている。長い髪が力の抜けた腕と一緒に、長椅子からはみ出して垂れ下がっていた。細長い窓からもれてくる申し訳程度の明かりの中で、ちらちらと舞う塵とその人の亜麻色の髪が、淡く光っている。

 いろいろと思うべきことはある気がするが、ただじっと、見つめた。血の気の失せた顔で、その人は眠っていた。本当にそうだろうか。眠っているのだろうか。長椅子のそばに寄って座り込む。その人はちっとも動かなかった。青ざめた顔には苦しみも安らぎも浮かんではいなかった。ただひたすらに、まぶたを閉ざしているのだった。

 うつくしいと、おもった。

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