1. 蒼の表層

1-1 空虚の罪

 運河に架かる木造の橋の真ん中に立ち、金物の鍋を杓子で叩くと、落ち着きのない雑音が響く。ジンは声を張り上げた。

 「おはようございます! 今日のお知らせの時間です! 聞き流してください!」

 ざわざわとした王都の街の中、ジンに目を向ける人はいない。みんなせわしなく動き続けている。でも、耳はこちらを向いている。たぶん。

 ふたつの道にまたがる橋の上で、人々へのお知らせが書かれた紙を広げ、ジンはいつもどおりに仕事を始めた。

 「今日のお知らせは六件です。まず一件目、聖殿からです。三日後十時から、集会を開きます。たくさんの参加を待っていますとのことです」

 大陸でほとんどの人が信仰している、人々を癒して救うと言われる存在を祀った聖殿では、月に何度か集会が開かれる。祭司の話を聞いて祈りを捧げる会だ。聖殿の孤児院や、貧民院のための寄付も募っている。まだ余裕のある人たちに向けた行事だった。

 「二件目も、聖殿からです。配給に来るときは、各自で器を持ってくるようにしてください。本当にやむを得ない人にしか貸し出しできません。貸し出しを受けた場合も自分で洗ってください、えっと、しっかり」

 これは繰り返すようにと念押しされている。もうずいぶん前から叫んでいることだ。

 「繰り返します、聖殿から配給についてお願い……」

 うしろから頭をはたかれたので振り返ると、魚の入った大きなかごを抱えた人が通り過ぎていくところだった。かごが当たったのだ、わざとではない。

 「器は自分で持っていくようにしてください、借りたらちゃんと洗ったほうがいいです」

 聖殿は立場上、困っている人たちを放っておくことはできないらしい。でもなるべく負担は軽くしたいだろう。大量に食べるものを用意して、食器も用意してそれを片付けてというのは大変なことだ。人々からの寄付や国からの献金を受けているとはいえ、できることには限りがある。祭司たちだって人間だ。

 「三件目は、内務庁から。城壁の補修工事を始めるので、人手を募集します。寝る場所と食べ物は支給されます。寒いですが急ぎの工事で、緊急の募集です。十八以上の男性で力のある人がいいそうですが……、そうでなくても採用することがあります」

 言うことを言ってから、ジンは肩に下げた鞄から紙の束を取り出し、左右の道にまき散らした。内務庁が作った人員募集の広告だ。紙はひらひらと舞って道や運河に落ちた。沈んだり踏みつけられたり遠くのほうへ飛んでいったり、拾われて服の中に突っ込まれたりしていた。

 左の道から欲しいと手を振っている人がいたので、ジンは広告をぐしゃりと丸めてその人に向かって投げた。見事に受け止めて、ありがとうと言ってくれた。そして雑踏の中に紛れて見えなくなった。

 「四件目は、巡察庁からです。近頃路地裏で焚火の跡が見受けられます……。火事の危険があるので、焚火は控えるようにしてください」

 じゃあしなくて済むように、なんとかしてくれればいい。でも、そんなに簡単な話ではないのだろう。

 「五件目も巡察庁から。先月の泥棒、ですが、まだ捕まっていません。夜は鍵をかけるのを忘れないようにしてください。暗くてひとけのない場所にはじゅうぶん注意してください」

 目抜き通りの軍人の家に、強盗が入ったのだ。不安に駆られた夫人が毎日巡察庁にやってくるのだという。そこまで言い終えると、ジンは深呼吸した。

 「最後、六件目は」

 「国王陛下からです!」

 建物の前で座り込んでいる若者に先を越された。見ると、若者はにやにやと笑っている。周りには、同じように上品とは言えない表情を浮かべた若者たちが何人もいた。

 「そうです国王陛下からです!」

 ジンは遠くを見ながら声を張った。

 「国王陛下は、いつもおれたち民衆とともにいてくださいます」

 「それはけっこう!」

 「最高の王さまだ!」

 「泣いちゃいそう」

 「ありがたすぎて死ぬ」

 若者たちが口々に言って、げらげらと笑っている。ほかの人々はそれを無視して、せっせと自分の用事をこなしていた。

 官庁と街の人々をつなぐ公示係であるジンのもとには、伝書鳩で公示内容を記した紙が毎日届く。紙には、宮廷庁からのお知らせとしていつもいつも、「国王陛下からの伝言」が書かれている。それは国王の心はいつでも民のもとにある、というもので、今まで変わったことはない。だからジンのお知らせは一年中例外なく、国王の同じ言葉で締めくくられる。

 若者たちのほうに顔を向けると、ひとりと目が合った。ジンはにこりと笑いかけた。彼は驚いたように目をそらしたが、仲間と顔を見合わせるとあきれたように肩をすくめて鼻を鳴らしていた。

 「今日のお知らせはこれでおしまいです! みなさんごきげんよう!」

 ジンは明るく怒鳴ると、大股で橋を渡り切った。




***




 ほか四つの場所を回って同じお知らせを繰り返し、終わるころには夕方が近かった。頼りない明かりが灯り始めた街をどんどん歩いていく。沈みかけているのに、太陽はずいぶん遠い。もう少し近くであたためてくれてもいいのになと思う。

 進む道が広くなり開けてきた。とがった屋根の塔が見えてくる。聖殿だ。壁は漆喰で白く固められており、街のれんが造りの建物とは違う厳粛な雰囲気を漂わせている。聖殿は、四つの塔をつなぐ塀のような建物が中庭を囲んでいるというつくりをしていた。その周りには、貧しい人が暮らす施設や療養所、孤児院や学校や、墓地がある。聖殿の敷地は王宮のように広い。

 開け放たれた門をくぐり、中庭に入る。そこには畑があって、根菜が何種類も育てられていた。白い服を着た子供たちが、廊下を走っていくのが見える。

 ジンはまっすぐ奥の塔に向かった。閉ざせば堅牢な大きな扉は、いつも開いている。中に入ると、そこには純粋な静けさが満ちていた。正面の祭壇には、色とりどりの花で編まれた輪があふれんばかりに飾られている。かすかに甘い香りがした。

 祭壇の前で、ひざまずいている男性が目に入る。両手を組み合わせて腰をかがめ、何か一心に祈っている。近頃聖殿に来るとよく見る人だ。着ている服は色褪せているけれど、金色の髪はろうそくの明かりに照らされて絹織物のようにつやめいている。祭壇のそばには、花の世話をしている祭司がいた。

 ジンは塵ひとつない冷たい大理石の床に膝をついた。手を組み合わせて目を閉じる。十を数えて、ジンは立ち上がった。男性はまだ祈り続けていたが、ジンは塔をあとにした。

 前に住んでいた村にも聖殿はあった。幼いころから毎日祈りを捧げていた。母からは、聖殿の前を通ったらそのまま通り過ぎずに、必ず挨拶するようにと教わった。今でも、ほとんど無意識のようにその言いつけを守っている。住んでいる下宿に帰るまでの道に聖殿があるから、意識しなくても毎日聖殿を訪れることになっていた。いつも来るからか、大祭司によく話しかけられる。大祭司は聖殿の代表で、人々から尊敬を集める存在だ。この聖殿の大祭司は、なんというかずいぶんさっぱりとした人で、仕事も依頼してくれている。今日は会わなかった。

 聖殿の敷地を出て、痺れるような冷たい風の中を歩いていく。もうすぐ、戦争が終わってちょうど三年になる。あの冬はみんな、春が来るから、もう少し我慢したら春が来るからと励まし合っていた。みんなに春は来なかった。でも、季節は確かにめぐった。

 まだこの王都も国も立ち直っているとはとても言えない状況で、立ち上がりつつあるとも言えないけれど、それでも、三年が経つ。三度目の、みんなの救解日、であろう日がやって来る。今年の救解日も、みんなの魂をなぐさめるために祭司に祈りを頼むつもりだった。去年もその前も、やってもらった。ただでというわけにはいかないので、そのために少しずつ貯金もしている。

 人がなくなった日を、この国では救解日と呼ぶ。救解日には毎年聖殿に花輪を持ち込んで供え、祈りを捧げる。そうすれば、なくなった人たちの魂が癒されるのだと言われていた。祭司に依頼して儀式を執り行ってもらうのが、正式な形とされている。

 隠しに手を滑り込ませる。ほのかなぬくもりの中から取り出したのは、銀色の鎖がついた、傷だらけの懐中時計だ。幼馴染のロンデが、父親からもらって大切にしていた。三年前に主を失って、ぼろぼろになっていて、それでもちゃんと動いていたのに去年あたり突然おかしくなった。華奢な黒い針は曲がっていて、いつも冗談みたいな時刻を示している。一定の時間ずれているのではなく、針の動く速さがまちまちになっているようだった。これを、質草にするつもりだ。

 ジンの給金の額は、救解日のための貯金をして下宿代を払うといっぱいいっぱいになる。しかし今、靴下があまりにぼろぼろになってしまって、役割を二割も果たしていないような状態となっていた。爪先もかかともはみ出しているし、薄っぺらくなっているし、寒いことこの上ない。今までなんとかごまかしてきたが、もう目をそらしきれないところまで来てしまった。さすがに新しいものを買わなければならないから、だからお金を借りることにした。

 救解日は大切な行事だから、必ず正式にやっておきたい。祭司には最低限金貨一枚は渡さなければお祈りを頼めないというのが暗黙の了解となっているが、一年で貯められる額がぎりぎり金貨一枚と少しなのだ。ほかにもいろいろと費用がかかる。それに、お世話になっているから家賃はちゃんと払いたい。融通してもらうのは気が引けた。そんなことを言っているとお金が足りない。取り急ぎ靴下は必要だし救解日も近いので、借りるのもやむなし、という感じなのである。

 借りるための担保にできるものが、壊れてしまった時計だけというのは切ない。売ろうともしたが、そんな時計は買えませんと言われてしまった。今日は、いつも行く料理屋の主人に教えてもらった質屋を訪ねてみる。

 なんとか動こうとする、かなしいくらいけなげな時計をしまって、ジンは質屋を目指す。

 それにしても寒い。今日の夕飯はなんだろう。あたたかいものがいいな。あの人、城壁の修繕工事に行くのかな。ちらし受け取ってもらえて、ちょっとうれしかった。でも思うんだけど、宮廷庁はそろそろ王さまからの伝言変えろよ。おれが勝手に感動の演説を捏造しようかな。もしかして期待されてるのかな。気づくの遅くてごめん。

 いろいろと、いろいろと考えてみる。何かを頭の中に流していないと、いけない気がする。なんだか怖い。ぼんやりすると、だめな気がする。だから、どうでもいいことばかり考える。いや違う。どうでもよくなんてない。どうでもいいことなんてない。そんなふうに、思うのは、最低なことなんだ。でも、やっぱり、もう。


 気がついたら単色の浜辺にいて、なんだか笑えた。

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