13-暴露【トゥベリカ・ユーン】
「臣道さんが声をかけた相手がトゥベリカ・ユーンさんですね」
「ああ、名前を知るのはもっと後だったかな」
頭の後ろを掻きながら答える臣道。ユーンは俯いている。
「ユーンさん、なるべく言葉は選ぶつもりですがお話してもよろしいでしょうか」
「ええ、大丈夫デス」
段々と『全て』になっていく。
中心に近づいてくる。
「ユーンさんは都青年の通っていた中学校の先生をやられていましたね」
「ハイ」
「教科は?」
「外国語でしタ。英語の授業とは別にあった英会話のようなものでしタ」
「都くんのクラスの授業をしたことは?」
「あまり。基本的には別の先生が授業しまス」
ユーンは淡々と答える。聞かれたくない質問が後に来ることは想像出来た。言葉を選ばなければいけないような内容の前の導入であることにも気づいていた。
「どうやって気がついたんですか?」
「都くんがたぶんペットの死体を埋めているところを見ましタ。殺した瞬間は見ていないけど、嬉しそうな表情をしているのは見えましタ」
「掘り起こしましたか?」
「ハイ」
ユーンは誰よりも先に都の異常行動に気づいていた。当時都が通っていた中学校に英会話の外部講師として配属されていて、放課後の教師の喫煙スペースになっている屋上からその姿をばっちり捉えていた。視力がよく、学校に持って行くこともあった手提げのカバン、そしてその中から取り出した散歩バッグの色。顔の輪郭で何となく誰かを予測していた。
地元から通う子供しかいないし、ユーンもこの時学校の近くのアパートに住んでいた。街中で性とのことを見かけることがないわけではなかった。それに都は成績が良く進学のことですぐ隣のデスクの先生に呼び出されることが多くて顔だけは覚えていた。
二年生の時に都のそれを目撃した際、『恐らく都だろう』から『確実に都だ』に変わったのは覚えていたバッグの色だった。探りを入れるようにクラスで使っていたり、持って来ている私物を確認したら照らし合って欲しくない心とは裏腹に確信を得てしまった。
都がユーンのことを覚えていないのは幼少期によく呼ばれていたトゥベリカの愛称、トゥリーと呼んでねと自己紹介をしていたからだ。多くの生徒がそう呼んでくれていた。萬にも説明した通り公立の大量に使われている税金で雇っているため教師は幅広く、カバーされていた。次世代の英語教育に力をいれているのかユーン含め4人の英会話の教師がいた。
中でもタバコを吸っていたのはユーン一人。屋上に行く時間は何となくで決められていた。日本語を話せるとはいえカタコトさが消えないから小さなニキビ扱い。あの時間帯は外国人。そんな言葉じゃなく、さっさと外人呼ばれたり。
都の行動に気づいてから積極的に干渉しなくなったのはやはり感情の矛先が自分に向くことを恐れたからでもあった。隠したいけど、抱えるのには難しいことを相談出来る相手がいなかったから屋上で泣いていた、というのに。
何より決意を固めるのが遅くなってしまった。本人に異常行動に気づいていることを告げたり、周りの同僚に危ない子かも知れない、と告げるよりも次のステップへと都が踏み出してしまった。
卒業してからは高校で何も問題を起こさないように祈ることしかできなかった。自分が殺されたくないという恐怖ともう一つ。都の父親がこれ以上話を進めることを良しとさせなかった。直接的に進めるな、と言われたわけじゃなかった。それ以上誰かに話を広めたら自分の身に崩壊が訪れる、と脅しに屈するしかなかったのだった。
「私の口から無理に言うことはしません。やはりセンシティブなので。しかし都青年の父親に強制的に関係を持たされ、家庭崩壊の道をたどらざるを得なくなりましたね」
萬が口に出した内容だけで分かる人間は察してしまう。顔を下に向ける。隣に座っていた杉澤がユーンの握られた手を上から被せるように覆ってくれた。
自分は被害者。何も悪いことをしていない。捜査のため。解決のため。女性が女性に。男性が男性に。だとしても話すのに躊躇ってしまう内容だった。恥ではないと思うには事実が現実的すぎてしまった。
都が帰りユーンも何か行動することもなく、その日の日誌をつけてから帰宅した。
その翌日、どうしても気になり朝早くに出勤した。警備の人には嫌な顔をされたがすみません、と謝り入れてもらった。大きな木の影になっている根本の掘られた跡のある場所を掘り起こしてみた。シャベルは環境委員会が持っていた備品を無断で拝借した。
「おえ……」
土の中で新鮮とは言えないがある程度昨日の状況が保たれていた。吐き気を催す匂いと状況にえづく。自分がやったと疑われても困るので膝に泥がついていないことや、元通りと思えるくらいの凹み方、膨らみ方を再現した。
この時は都という生徒の存在も知らなかった。
「おはようございます」
スコップを咄嗟に後ろに隠した。
「おはよう、ございマス」
そう答えた。通り過ぎたその生徒に何故だか鳥肌が立った。足音が金属に爪を立てたような不協和音に聞こえてめまいがした。
「ねぇ」
「はい?」
「お名前は?ワタシはトゥリー」
「知ってますよ。都内季です。先生が担当しているクラスの隣、二組です」
「あ、ありがとう」
「いえ?じゃあ失礼します」
礼儀正しく挨拶をして消えていった生徒の名前を都と知った。
確信するだけの情報はなかった。自分が鳥肌立ちました。この子がペットを殺しました。残虐性あふれる方法で。それに隠すという悪質な行為に及びました。第六感は何かを証明するためには不十分な役立たずの感覚器官だ。
名札のケースの後ろに似たような手提げ袋の特徴や、ある程度の顔立ちの情報を書いた紙を常備して、似た生徒を見つけるのに奔走する日々が始まった。ミヤコダイキとメモをすることも忘れなかった。
関わりは最低限にしながら、会ったら挨拶くらいはしていた。都のこれからの将来も十分に心配だったが、都の家族はこれを知っているのか、がユーンの中で一番の気がかりだった。首輪のようなものがついていたからユーンは勝手にペット灯っているが、ペットなら家族も存在を知っているはず。急に消えたら怪しむはず。
それにはどうやって言い訳をしたのだろう。知った上で認めているのだとしたら悪質極まりないし、いつか人に手を出すとも限らない。探るために一度都の家に行きたかった。
外部教師の分際でそんなでしゃばった行動が許されるとは思わなかった。
「行けばいいじゃん。トゥリーもちゃんと教師じゃん」
この時日本にやって来てから出会った日本人の夫がいた。子供も授かりもう少しで小学生に上がる。そのくらいの時期で手もかかるし、自分の時間は減るが幸せと言えるくらいの充実した生活を送れていた。
「学校の人には言わなければいい話で、住所は分かるでしょ」
「それは、分かるケド」
「じゃあ行ってごらんよ。やばい家族だなって思った瞬間に身を引けばいい」
「大丈夫かナ……」
「最悪クビになっても俺がいる」
夫の言葉に教師として生徒のことを考える使命感に翌日にでも行動しようと覚悟を決めていた。
いざ尋常に。
チャイムを押すと夕方で定時を過ぎてすぐなのに都よりも低い声で出迎えられた。
『はい……』
「都内季さんの学校の教師のトゥベリカ・ユーンと申しマス。内季さんのことで、お話があるんですガ」
『内季はいませんよ』
「あ、話があるのはお父サンの方デ」
『僕?まあいいや。どうぞ』
詳しく聞かれたら英会話の資料を忘れたので持ってきた、とでも言えばいいと思っていた。その必要もなく案外あっさりとエントランスに入ることが出来た。エレベーターを使って七階まで上がった。部屋の前まで着いて深呼吸をして大丈夫、大丈夫と言い聞かせる。そして部屋のインターホンを押した。
「ああ、先生。中にどうぞ」
「ありがとうございマス」
すぐにリビングルームに通されたが散らかっている様子もなく、父子家庭ということは知っていたがユーンの知っている父子家庭とは違った。ユーン自身も母親が幼い頃に病死してしまい、父親に育てられた。荒々しい性格をしていて気に入らないことがあるとユーンに手を上げた。家も常に散らかっていて何度片付けても意味がないと思い始めてからゴミ屋敷での生活が当たり前だった。
「はは、すいません。汚いでしょう」
「イエ、全然」
「どうぞ、座ってください。お茶入れるので」
「お構いなく」
家を見回しては失礼かな、と思い何もない壁を見ていた。
「お茶、どうぞ」
「ありがとうございます」
「それで、内季が何か起こしたんでしょうか」
食い気味で聞かれて手をつけたお茶で口を火傷した。恐らくこの態度からして気づいている。
「都くん……内季くんは、好きなものとかありますカ?」
「好きなもの……静かなところとか、静かな遊びが好きですね……そこまで人と関わるのは好まないように思います。それで、何かがあったんですか?都は何を起こしたんですか?」
完全に都が何かをやらかしたと思っているところから過去に何かあったと推測する。
「都くんが土に何かを埋めているところを見たんデス。一生懸命に何かを埋めていたので遠くから見てただけなんですケド……」
「埋めたものは何だったんですか?見てたんですよね。チラリとでも見えたものがあるはずでしょう」
「何か、心当たりがあるんですカ?」
「いやっ……そういう訳じゃ」
「掘り起こすことを望みますカ?」
砕けた口調にすることが難しくて距離を感じると思われる行動もこういう状況になると役に立つ。
「そっかそっか……ユーン先生は気づいてるんだろ。内季が、埋めたモンと好きなこととか」
「は?」
「いいって知らないふりは」
近づいてくる都の父親に逃げなければいけないと感じたユーンは席を立ちあがる。
「どこ行くんですか?まだ話は終わってないでしょ。内季が何を好きか、僕から聞いてないでしょ」
「アッ、いいデス……もう帰りマス」
「そんなこと言わないでさ。生徒のこと考えるのが先生の役目でしょ?」
逃げようとしたら長い髪の毛を引っ張られて床に引きずり倒されていた。
「ぎゃっ!離っして!」
「ダメじゃないですか」
抵抗しようとしたが体格も力も叶わない相手に簡単に手籠めにされた。寝室に連れ込まれる。
気づけば気絶していた。気づいたということは目を覚ましたのだけど。体のぐちゃぐちゃ具合、ところどころに残っている否定したい記憶の数々。見える体の範囲が気持ち悪くなった。
「あ、先生。バラされたくなかったらこれ以上、その話をしないでくださいね?」
「ひっ……」
「どうなんです?」
「わっ、分かりましタ……」
「ほら、荷物。早く帰ってください。内季が帰って来ちゃう」
放り投げられたバッグと自分の洋服。都の父親はさっさと寝室から出て行った。裸のままの自分を抱きしめて声を殺して泣いた。貪るように最低限の服を身に着けて逃げるように家を飛び出した。
帰っている途中涙が止まらなかった。学校に置きっぱなしにしていた自転車を取りに行って、それに乗って風が攫う涙に記憶ごと、時間ごと。自分ごとを他人事のように思える場所まで攫って欲しいと願った。
息子の前では泣きたくない。けれど息子や、夫が自分を慰めてくれる唯一の存在だ。そう思えば触れたいと思った。抱きしめて欲しいと思った。怪我された自分の手で触れてもいいのか悩んで自宅の前で立ち尽くしていた。今日は夫がほい郁円のお迎えに行ってくれた。今日起こることを聞かれる。なんて答えるべきだろう。
問題なく父親の方で対処すると行ってくれた?
父親、という単語は危ないかもしれない。母親に変換しよう。
一筋縄でいくことなら自分が対処すべきではなかったんじゃないか、と思われるかもしれない。
明日から都との面談の約束を取り付けることで双方納得?
ありきたりな回答を探している自分がいた。それに驚いた。助けて、の一つくらい言えばいいのに。踏み込んだのは自分からだとしても。悪いことをしたのは。九十八くらい悪いのは相手。でももっと反抗出来たんじゃないのか?警察呼ぶとか、出来ないってお前も多少なりとも受け入れちゃったんじゃないの?そう言われたらユーンには証明する術がない。
関係性からして夫は自分を信じてくれる。だから起きたことを話しても大丈夫。教師を辞めて、根本的なかかわりを立つためにこの土地から離れたい、と言っても許してくれる。離れることは難しくても家に閉じこもって少しの間心を休めて母親の義務や、妻の義務をこなさなくていい時間をくれる。そう思いたかった。
スマホが鳴った。メッセージを開くと
『連絡先ブロックしても無駄ですよ。これ、バラまいてもいいなら別ですけど』
知らない間に取られていた映像を見て消えたくなった。扉にかけるか迷っていた手を伸ばしてドアを開けた。そのままトイレに駆け込んで全てを吐き出した。自分の本当の感情と、消したいスマホの中身だけは飲み込んだまま。
「トゥリー!?大丈夫!?」
「だいっ……じょうぶ……」
「何かあったの?体調悪い?とりあえず、口洗っておいでよ。あ、お風呂溺れちゃうかもしれないからシャワーだけにしときな。着替え用意するから」
背中に触れる手の温かさに一瞬心緩んだけれど、脳を犯す悦に浸る絶望の象徴のような顔が目の奥に浮かんだ。
「トゥリー?」
「ありがとう、そうするワ」
「うん。お大事にね。おかゆ作るよ。食べられる?」
「お願いしよう、カナ……」
トイレットペーパーで口を拭った。口の中を今すぐにでも洗い流したい気分だった。二階にある風呂場に上がるためにどうにか立ち上がって転がったカバンの中身を余すことなく抱えて階段を上がっていった。心配そうに見つめる夫に抱いた感情はやはりメカニズムと共に話すことは難しそうだった。
いつもより温度を高くして滝のようなシャワーを浴び続けても自分が綺麗になったとは思えなかった。むしろ汚さが浮き彫りにされた中途半端な版画になっている気さえした。要するに美しくない。自分の容姿が端麗とは毎日思っていたわけではなかったがそれなりに顔のことも褒められることが多く、スキンケアや意識して上がったりするものは毎日気を付けるようにしていた。
そういう美しさではなく。本質的な心につけられた泥が落ちている気がしなかった。涙なのか、シャワーなのか。分からない何かがいつまでも顔を濡らし続けていた。体中赤くなるまでごしごし洗ったし、ごしごし拭いた。
消えてしまいたい。
一部の生徒から来る相談の感覚が何となく分かった。大切な人や、守りたい存在。痛みを共有したい相手がいるからとりあえず今は消えることは出来そうにないな、とだけ思いながら生と死を意識することなく生きていた。全てがまだ始まっていないところにピンポイントで戻りたかった。
「はあ」
警察に相談しようにも口にしたくない。自分の尊厳をずたずたに切り裂かれたのに。察してくれよ、と思わずにはいられなかった。第一段階、夫に言わなければ何も始まらないし何も終わらない。そのハードルが八階から見た歪んだ景色くらい高く感じた。
風呂から上がって用意してくれたパジャマを着て、その新品同様の匂いに浄化された気になれた。
「トゥリー?」
ノックと同時のその声にびくりとする。
「おかゆ持って来たよ。食べられそう?」
「うん、食べるワ」
「じゃあ入るよ」
足元にいる歩くが好きじゃなくていつも抱っこをねだる息子が足元を走り回っているのを見て微笑む。触れられないんだ、ごめん、と思ってしまう。
「大丈夫?話したくないならいいけど、俺は出来る限り力になるからね」
「アリガトウ。でも大丈夫。何とかなりそうナノ」
「そう?根詰めすぎてトゥリーが体壊しちゃうようだったら……」
「分かってル」
その時食べたおかゆは自分の好みの塩分量よりも塩気が多く感じた。でも何よりも美味しかった。
それから都に関わる物事に自分から動くのを完全にやめた。そうやって父親とも関わりを絶てたらいいのに。願いながらもずるずると関係を引きずっていた。呼ばれては震える体をしょい込んで家に向かい、犯される。
いつバレないかとひやひやするのも、脅しの材料がたまに増えるのも、それにびくびくして生活するのもうんざりだった。
そしてついに恐れていたことが起こる。
「トゥリー、話があるんだけど」
この手の空気感はよくないことの前触れ。中学校三年生の夏を過ぎたあたり。ちょうど某日から一年が経った日だった。生徒は夏休みに入り、各々のやり方で謳歌していた。
「ナニ?」
「この写真さ、何?」
見せられたスマホには自分がマンションに入るところ。マンションの部屋に入るところ。都の父親もばっちり映っていた。
「浮気、だよな。何で。俺そんな不安にさせてた?」
「違う!違うヨ!」
「浮気するやつってみんなそう言うよな」
「生徒の心配なコト、話しに行った日に襲われたノ!」
「いつの話だよ。信じられない。アイツも小学校上がったし、離婚しよう。俺が書類全部やっとく。この家に住んでたいならそれでもいいから」
真実がもみ消されるということを知った。自分の真実なんて、相手が信じたくないことだったら信じてもらえない。そこに愛があろうと、なかろうと。相手がいなければ真実も、欺瞞も発生しない。結局信じてもらうしかないのに相手は自分可愛さに本当に信じるべき相手を見失う。確かな相手だけを愛し続ける。
「あの子ハ、どうするノ……?」
「俺が育てる。養育費もいらない。俺たちに関わってこないでくれ」
どうして自分がこんな目に。俺たち、という言葉の中に自分が入っていない。どうして、どうして。自分と息子はソファと布団で寝るから、と言われて使っていいはずのベッドに自分の体温しかないことが気持ち悪かった。
『明日、夜、十四時』
業務連絡に見えるかもしれないが地獄で行われるダンスパーティーの招待状だ。地獄なのにデジタル化。ナンセンスな事態の連発に笑うしかなかった。
明日が今日になった。
いつものように、乱雑に服を脱がされて始まった。どうせもう失うものなんて何もない。そうやって精一杯、引くくらい喘げばこの人にも捨てられるかもしれない。そう思ったのに。
「今日楽しそうでしたね、センセ」
吐き気を覚えた。都の家でシャワーを使うことにも慣れている自分がいた。口を利かずに家を出た。
扉の前で立ち尽くすしか出来なかった自分に近づいてくる足音がした。
「もうちょっと声抑えた方がいいですよ」
言われた内容を体が理解するまでに時間かかった。しかし脳が理解するのにはそこまで時間が必要じゃなかった。反射でその場から逃げ出していたし、このマンションの敷地内で見せてたまるかと決めた最初で最後の涙を流した日の誓いを忘れて涙を零した。
階段を駆け下りて、自分の体力の限界を忘れて走り続けた。家に帰って本当のことをもう一度話させてもらおう。行為中ではない音声も録音した。不十分かもしれなかったけれど、自分が嫌がっていることは伝わるんじゃないか、まだ信じていたかった。
ドアに鍵が刺さらないのがもどかしかった。鍵が開いた音がして中に走っていく。
「え……」
息子のおもちゃは全てがなくなっていた。二階の寝室に駆け上がってみても夫の衣服は全てがなくなっていた。洗面所も夫の髭剃りや、ワックス。息子の歯ブラシ、マスク。すっからかんに持ち去られていた。
いっそ強盗であればよかったのに。
放心状態でリビングに戻るとダイニングテーブルの上に離婚届と一枚の付箋が張られていた。
『はんこを押して、提出しといてくれ』
「ハハ……」
考えるのをやめた。
家を売り払った。息子が生まれたと同時に買った家で六年近く住んでいたが一人で暮らす分にはある程度持つだけの金に変わった。思い出は全て捨てた。写真も何もかも。
教師を辞めた。派遣的な教師にそんな権限があるのかとも思ったが期間を満了せずに辞めてくれたらこれ以上金を払わなくて済むし、三人でも十分に回せると思っているのは校長の顔に書かれていた本音ですぐに分かった。
都の父親に関しては好きなようにバラせばいいと言った。その代わりもう会わないし、連絡先もブロックする。証拠もあるから警察に相談してもいい。誰からの人権を踏みにじってまで守りたい息子と離れ離れになるかもしれませんね、と強気に出たら押し黙ったのでこれ以上何かをされることはないと信じていた。簡単だったじゃん。
大切すぎるものを失って、得ていたことには気づかないけれど打破する方法を見つけた。
いつしか虚しさが憎しみに変わっていた。恐怖は復讐心を駆り立てた。
だからユーンは都の動向をどうにかして知ろうと合法的に連絡先を交換出来るようになった生徒いろいろなことを質問した。連絡を取っている生徒たちから同じ高校に行ったり、見かけたりしていないか、と情報をかき集めた。
【続く】
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