12-暴露【臣道郁斗】


「そしてミカエルさんは会社に入ることになり、祖国にいらっしゃった際に学んでいたプログラミングをもう一度始めることになりましたね。お間違いないでしょうか」

「間違い、ないです」

「真犯人のことをどう思っていましたか?」

「仕組み、が分かっていなかったので、どうも思っていません。でした。自分じゃない。それは分かってました。でも他にいるのかとか、その人が、何が目的なのか、分からなかった」

ミカエルはニュースの報道されている内容を完全に理解したわけではなかったので結局のところ誰が悪いのか、悪い人が他にいるのかも当時は分かっていなかった。もちろん都のことなど知らないし、何の感情も抱いていないのは当たり前である。

「では今は?」

「カルティンブラの、メンバーです。それだけ、です」

そう言い切った。萬はミカエルを数秒見つめてから瞬きをする。何か眩しく光るものがあるように目を細めて口元を緩ませる。

「そうですか。プログラミング仲間、というまとめ方をさせていただきまして臣道郁斗さんと都内季さんの関わりを話させていただきます。都さんが真犯人だった交通事故で大切な方を亡くされましたね。血の繋がりがあったわけではありませんでしたが時として隣人というのはとてつもない関係の深さになることもありますよね」

「ああ……あの人たちは、いい人だった」

「結婚を控えていた雫さん方。もはや雫夫妻と呼んでもよろしいでしょう。そのお二人との関係値は警察では計り知れないものがありました」


現代では当たり前になっているATエンジニアも最近の数年での急成長が著しいだけで十年も前のことになるとアニメはまだ手書き。それが当たり前な時代だった。それなりに需要はあるが、技術者が少ない。臣道のような技術を持った人物は重宝されていた。給料も平均的な社会人に比べてよかった。それなりの贅沢が出来ていた。

臣道は『漢』を掲げる父に育てられてきたので時代にそぐわない考えだったが男なら泣くな。男なら女を守れ。男なら強気でいろ。男なら男であるこということを示せ。男なら、を多用してくる家庭の亭主関白な父だった。

その考えが当たり前だったし、損することもなかったので周りの共有することはなかったが自動的に自分の中では男らしい。一般的に想像されるらしさが身について行った。

故に金は酒に消えたり、金の象徴である車を買ったりした。ただの自己顕示欲ではなく、そう在る父が単純な話、とてもかっこよく見えていた。子供のころから二、三の車が定期的に入れ替わり様々な車種を見てきた臣道は車に興味を持つようになっていた。貯蓄の重要性も十分に分かっていたので全てがそれに溶けていくことはなかった。

そして車と同じくらいこだわっていたのが住処、マンションだった。デザイン性はもちろん、利便性、その周りの治安。車で行きやすい場所のあれこれ。家は寝る場所、という認識だったから内装よりも車を紐づけた時にどれだけ格好がいいか。ただそれだけを求めていた。

難儀な考え方、頑固な性格をしているから隣人と反りが合わないことも多くあった。折れるのは漢ではない、という理由からどんなに我慢ならないことでも相手が折れるまで自分はそこに居座った。男なら、やられたままでいるな。そういう教えもあったため、やり返しによってかなりのトラブルになったことがなくもなかった。

そんな中先に住んでいた臣道の隣の家にカップルが引っ越してきた。少しうるさくなるかもしれない。そのことわりは仕方ないことなので受け入れた。どんな野郎なのか。見極めようと所要を片付けに行くために、当たり前のように家を出てちらりと。音がしたから目を向けた。大きなものが通ったから目を向けた。

漢感は少なめの一般男性として眺めた。思わず

「なんだ、ありゃ……」

と声が出るくらいのバカップル具合だった。

重い、持てない。

大丈夫俺が持つよ。

大きいものは業者が運んでいて、それ以外の蟻でも持てそうな荷物一つ一つにそんな生温い小競り合いをしているものだから肉を食べなさそうな男も、ダーリンハニーと呼び合っていそうな関係性も認めがたかった。出来る限り距離を置こうと思ってまだ開けていないたばこが胸ポケットの中に入っているのにそのままマンションのエレベーターを降りるため背を向けた。

「あの!すいません」

「はい?」

「隣に引っ越してきた雫、と申します。今日はうるさくしてしまって申し訳ありません。今日か、明日にでも粗品を持って行こうと思っているんですけど、都合が合う時間帯とかあれば教えていただけませんか?」

丁寧な声のかけ方に口元が緩み切っている臣道は

「めちゃくちゃいい人やん……」

エセ関西弁で自分を恥じた。

「何か?」

「あ、いや……いつでも、俺はいいけど今日は疲れてるでしょ。明日も、朝からずっと家にいるから。そこまで気を遣わなくても、大丈夫、だし……」

本来のシャイな性格が表に出て来て語尾がすぼまる。

「分かりました!じゃあ明日の午前中に伺わせてもらいます!引き止めてしまってすいません。これからよろしくお願いします!」

「よろしくお願いします」

「あ、こちらこそ」

カップルなのか、夫婦なのか分からない雫を名乗った人たちと握手を交わした。印象はものすごくよかった。人当たりが良ければ家の中でダーリンハニーと呼んでいても何も問題がないこと。世界は思ったよりも広いこと。自分の世界はいろいろな経験をしてきたと思ってもまだ小さかったことを知った。

いつものタバコを買って家の戻って来た時はまた持てない、持つよ、のやり取りをしていた。少しイラついた。

その翌日すごい勢いでチャイムが鳴ったのは午前八時だった。完全在宅ワーク、たまに出社。ラフなスタイルで生きている臣道は八時はいつもぐっすり眠っている時間帯だった。堅気の人間には出せないようなオーラを出汁ながら玄関に歩いて行った。

「はあ、い……」

「おはようございます!昨日言っていたものです!つまらないものなんですけど、とっても美味しいので是非!」

「あ、パジャマかわいー……」

「こら」

「あ、ありがとう、ございます……」

受け取るとまるで太陽みたいな笑顔をしている雫男と隠れながら服に無頓着な自分が買った安いキャラ物のシャツを見ている雫女がいた。

「その、二人って、ご夫婦?」

「まだです!引っ越しが追い付いてから籍を入れようってなってるんですけど」

「もうちょっとで夫婦になるんですー。その時はまた挨拶に来ますー」

「あ、そうなんだ。プライベートなことだよね、ごめん。ありがとう、大切に食べるね」

「嬉しいです!それじゃあ失礼します!」

ハキハキとした口調で、キビキビとしたお辞儀。朝から見るには重たい光景だったが、さも自分たちしか知らないマイナーなお店のように言っていたけれど紙袋のロゴは誰でも知っている有名店。慣れていないなりに何かをしようと思っている不完全さが好感だった。

「そこまで関わりはなさそうだな」

一人の納得は誰かに渡ることもなく一人の部屋に溶けていった。一人には不釣り合いな広い部屋の大きい冷蔵庫には何かを脇に寄せたり、段を変える必要なく有名店の紙箱が入った。朝ごはんの代わりのそのシュークリームを一つ食べた。

「うま……」

関わることは少なそう。

そう踏んでいたのに。

「近くのスーパーってどこですか?今日夕ご飯招待したいので好きな料理とかありますか?」

「わたし料理美味いんですよー」

このくらいならまあ付き合いか、と思えた。

「野球チケットもらったので一緒に行きましょう!」

ませんか?ではなく、ましょう!ということで確定形で言われた時は臣道はうろたえた。男なら堂々と構えていろ。そうは言ってもものすごい勢いで物理的距離を縮めてくる相手は漢だろうと女だろうと流石に驚く。

とある日には、

「喧嘩したので泊めてください」

「どういうこと?」

雫男がそう言って隣の家からやって来た時には理由を聞いた。喧嘩の理由を話し始めそうになった雫男を止めて、普通は実家に帰ったり友達の家に行くものじゃないのか、と言えば友達じゃないのか、と聞き返された。曖昧に返事をすれば涙に潤んだ瞳を向けられて悪いことをした気分にさせられた。

「でも隣の家じゃん。家出の概念が崩壊してるよ」

一晩惚気にしか聞こえない雫男にとっての愚痴を聞かされていた。

ここまでお節介を焼かれても嫌いになれなかった。鬱陶しかったり、めんどくさくなって突き放しそうになったことも多々あったけれどその度にずるずると許していた。心の中に踏み入られるのは不快感なしで快感には変わることはない。強すぎるくらいの刺激や衝撃を渡されても、それが快感に変わったのは決して嫌という意見を無視されたことがなかったからだった。

男たるもの、全てを受け止めろ。

それだけは臣道は受け入れられなかった。理不尽まで。不利益まで。何もかもを受け入れなければいけないのは一方的な自分の損だし、それを嘆いてはいけないのが男。ならば男はただの便利な野郎だ、と思ったことが記憶の中に強く残っていた。父の前で『嫌』が通った記憶がないし、そのおかげで食べ物の好き嫌いがなくなったのはいいことかも知れない。でもイエスマンになりそうになるのをすんでのところで止めて来たのは紛れもない臣道の努力だった。

何もかもを受け入れたから父は失敗した。それでもかっこいい父だったが、同じ轍は踏みたくない。

嫌、という訓練を雫二人で試してみたのだ。そうしたら自分の嫌がっていることを塑像していたよりもすんなり受け入れてくれたのだった。代替の案や、臣道の意見を聞いてくれたことによって心を動かされた。

嫌いになると予想していた自分がどこかに消え、自分から誘いに行くようになったりもした。雫女には服のことを教えてもらったり、なよなよしいと思っていた雫男には料理を教わったり。深い関わりが続いていた。

「僕たちちゃんと籍を入れて来ました!たった昨日!」

「あ、まだ入れてなかったんだ」

「そのくらいの認識だったんですか?」

「いやあー報告してないだけでもう既に入れてたのかなって」

「言いますよ!だってお隣さんですし!」

「そうですよー郁ちゃんの洋服まで見てるじゃないですかー」

雫妻になった雫女はどうしてかちゃん付けで可愛らしく握力六十の男を呼ぶ。抵抗あった呼び名も今ではすっかり定着していた。

「おめでとう。なんかお祝いしよう」

「そう、そのことなんですー」

「プログラミングとか、いろいろに詳しい郁斗さんにお願いしたいことがあって」

「俺が出来ることなら何でもするよ」

ダイニングテーブルの方にある自分の仕事道具パソコンを見る。専用の部屋があるが使わなくても仕事自体は成り立つ。慣れてしまえば楽な仕事が大切な人、という存在に手をかけている二人のために使えるなら願ったり叶ったり。顔からして実力を低く見積もられているのか、ある程度の知識があった上で難しいことと分かっていることを要求しようとしているのか分からなかった。

「その、僕たちって平成前期っちゃ前期の世代で」

「まあそうだな」

「ホームページあるんですよ」

飲んでいたお茶を吹き出しそうになる。それが話題になり始めた時には仕事として使えるだけのスキルを高めるために作っていた。今では多くの人が黒歴史と思っている懐かしの自分のホームページとかいう単語を聞けるとは思っていなかったから半ば反射で笑っていた。

「笑うなんてひどいですよー」

「そのっ、ホームページをどうして欲しいって?」

「僕たちの思い出記録みたいにしていきたいんです。今までの写真とか、全部合わせて。何年に起きたことはこれ、その時の写真。って」

「ホームページじゃなくても出来そうだけどな」

「ホームページがっ」

「分かるよ。大事な思い出だもんな。結婚祝いだ、すごいの作ってやるよ。写真とかデータで寄越しな。こういうのがいいとか、色とか。リクエストあったらすぐ教えてくれ」

「わあ!嬉しいですー。郁ちゃん優秀ちゃん」

「ありがとうございます!」

既に構想が頭の中に浮かんでいる。それを形にして渡した時の二人の表情を想像するだけで嬉しい気持ちになった。思っていたよりも雫夫妻のことを気に入っている自分がいた。

既存のホームページに手を加えることは過度なメンテナンスとほぼ同じなので何度もやったことがある。いつか授業になりそうなブラウザで使える子供用のプログラミングゲームから始まった臣道の確固たる力を駆使して要望全てを聞いてホームページを作り上げた。

元からそこにあったシンプル、しかし中二病要素がどこからともなく溢れているその名残を残したりした。少しのいたずら心に二人が気づけばいいな。思いながら作業を進めていた。早く渡したい。

はやる気持ちを胸にもうすぐ終わりそうだ。進捗を知らせると、すぐに反応が返ってきた。早く終わらせてああ、っと言わせる。誰よりも喜ばせたい。幸せを願う相手のことを思いながらする仕事にやりがいを感じていた。

「よっし、これで完成、っと」

URLを送って『開いてみ』と一言だけ添えた。

すぐにつくはずの既読がいつになってもつかなかった。夜も遅い時間だったし翌日の朝には反応が見れるだろうと連日の作業や、増え始めてきた委託業務をこなし疲れがたまっている体をベッドに寝かせた。

いつか家庭になるあの場所にいつまで自分は邪魔出来るのか、と考えると虚しくもなる。父親も母親も健在だけど会いに行こうと思って会いに行ける距離ではない。新しい時代を切り開くジャンルの仕事も父親は気に食わないらしいし、会うたびに小言を言われる。それでも頑張れと言ってくれる母親は病気を患ってから電話をする度気が弱くなって世界が終わりなんじゃないか、という空気を察してもらおうとする。

それでも大切な存在に変わりはなかったけれど、一番に優先したい相手は現在は雫夫妻だった。疎ましいな、と思う時期を通り超せば父親のことも。母親のことも。全てをひっくるめてまた純粋な気持ちで愛せるんだ。

疑問形ではなく、確定形。人生の選択にうろたえた。

雫夫妻がそうやって思う臣道のような存在を持った時に。臣道のような年齢になった時に。自分はその輪の中に当たり前のような顔をして入っていてはいけない。自分から突き放すつもりはなかったけれど、子供が出来て適当なところで臣道の方から引っ越しでもしてしまえば完璧な人生だと考えるほか末永く大切にする方法が浮かばなかった。

大切だからそうしよう。決めている人生設計の通りの行動しなければいけない日がもう少し先であればいいのにと願ってしまう脳みその弱さや、不器用な愛情表現のもどかしさを抱えるように胎児の体勢になって眠りについた。


その次の日に嬉しいはずのことが起きたのに臣道はやり場のない怒りをため込むことになった。

どのニュースを点けても同じようなニュースしかやっていなかった。家の近くでの交通事故か、と思って聞き流そうとしていた。ドラマみたいなことって案外起こるもので。すんなり飲み込めることもあるもので。

「今現在身元が分かっている死者の中に雫(夫)さん、雫(妻)さん……」

そのまま続いていったニュースの先の内容に興味はなかった。文字の羅列がこれ以上ないほど鬱陶しかった。

頼むから黙ってくれ。

厚みのあるテレビの時代の冬はこたつから出るのがめんどくさくて何かを投げてテレビを消そうとしてた。そんな思いで話がたった今起こっているかのように記憶の泉の中に浸る父親が家の中ではよく見れた。父親に言わせると漢の感傷。避けの旨さを知った時に分かる、なんて言われていたことを大切な人を亡くして知った。

いやただのワンシーンに過ぎない。それも『父親の』思い出と同じ経験をしようとしてどうする、と自分を叱る。らしさの呪縛と故人を思う感傷を絡ませたくなかった。両方とも独立した一本の紐であって欲しかった。

法律がさばける罪に問われている米塚という人物がとても憎かった。殺してやりたいと思った。それをすれば自分がお縄になるのは容易に想像出来た。獄中で後悔する未来と、完成品を見せられなかった現在、悲しむくらいならと思っている出会った過去。主に全てを否定したくなる心情に名前がつかないのが腹立たしくてしょうがなかった。

こんな時にまで涙を流せない自分が腹立たしくて代わりに死ねばいいと思った。

角部屋に住んでいた雫夫妻が親族に話していたらしく、臣道の元に葬式の招待状が届いた。記載されていた日程はネットで晒し者の刑に処されている米塚の家を放火しに行くか、自宅付近の病院にいる米塚本人を殺しに行こうと思っていた日だった。葬式を優先した。

「この度はご愁傷さまでし、た……」

「来てくださって……あの、どういう関係だったんでしょうか。息子や、(妻)さんから引っ越した日から絶えずお話を聞いていたのでどういう人なのか、気になっていたんです。教えてください。私たちの知らない二人のこと」

涙がたまった瞳から零れ落ちたしょっぱい水は頬を伝って顎に向かう。控えめな色のハンカチでそのしょっぱい水を拭き取って引き締められた顔で臣道を見上げた細い体をしている雫(夫)の母親と自分の母親の姿を重ね合わせた。母親よりも若いのに概念的な母親はどうにも似たような雰囲気を纏っている。

特にひどいことをされた経験もなく、嫌悪が概念にも、個体にもないからだんだんと心が絆されていくのを感じる。口が緩んで流れるように言葉が出ていく。思い出を言葉で消化していく。思い出はスペースを必要としなくても、心の容量を常に圧迫していく。これ以上増えることのない思い出が美化され過ぎないように、自分以外にも覚えていてもらおうと思って出会いから話し始めた。

「ああ……えっと、お二人が引っ越してきた時にどんな人たちなのかを見たくてコンビニに行くふりをしたんです。そうしたら声をかけてきてくださって。その翌日、朝の八時につまらないものですが、って……渡しに、来てくれました」

「そんな朝に。ふふ……あの子は、そういうところがあったのよね……」

「僕は完全在宅で仕事をしているんですけど、恐らくなにかと勘違いした(夫)さんと(妻)さんが僕を色々なところに連れて行ってくれたりもしましたね。野球観戦、サッカー、バスケ。スポーツだけじゃなくて、バーベキューとか。僕がいてもいいのかなとは思ってたんですけど、ね……」

「親元を離れて事故が起こるまで会っていなかったからこうやってお話が聞けて嬉しいわ。貴方がいてくれて本当に良かった。あの子たちと仲良くしてくれてありがとう」

小学校以来言われたことがないむずかゆい言葉が緩やかに涙腺を刺激していった。言葉が詰まり、息も絶え絶え。ホームページのこと。黒歴史って言いながらもいろいろなリクエストを言ってくれたことを話せていない。一番と言っていいくらいに重要なことなのに。

年甲斐もなく号泣して、せめてもの漢の欠片が声をあげて泣くことを許さなかった。

家に帰る間に殺意が再燃してきた。泣いて腫れぼったい目は不格好で。そんな恰好で復讐のために来たなんて言っても格好がつかない。

「また明日、だな」

その明日が来ることはなかった。すべきことを忘れて眠りについて翌日になった時には何があったかに再び泣かされることはなかった。習慣として毎朝ブルーライトを摂取する用のパソコンを開いて結局墓場になってしまったホームページを見てああ、そうだったと思い出した。

案外すんなりと受け入られらてしまう。

この世にいないんだな、と。

また隣の家が騒がしくなっていた。家具が運び出されて行くのはドアについているスコープで五秒間見ただけで終わりにした。驚くほど未練たらならな自分に驚いていた。


「臣道さんも都青年が発端の事故の間接的な被害者というわけです。間違いはありませんね?」

「ああ。ない」

「米塚未来はただ運転していただけ、ということが証明された頃に一人の女性と出会いますよね」


そこから五年が経ち、米塚への殺意も事件そのものの存在も忘れかけていた。そんな時に臣道は別の問題に悩まされていた。

「真昼間だっていうのにお盛んだなあ!」

思わず怒鳴るくらいの声量で喘いでいる隣人だった。雫夫妻が使っていた部屋ではなく、その反対隣。

おかげで集中も出来やしない。仕事の効率は落ちるばかり。気分転換に映画を観ようと思ってもシリアスなシーンがあるアダルトビデオにしか思えず断念。注意をしようにも声漏れてますよ、とは言いづらかった。

雫夫妻が臣道にとっての右隣で、喘ぎ声のするお盛んな家は当たり前だが左に存在する。その左側から聞こえてくる声は基本的に二つだった。ようやく声変わりにさしかかったくらいの子供の声。もう一つは成人男性。母親はいない。父子家庭なんだろうと思っていた。父親と息子が外出をするところを見かけても、母親らしき人物の出入りの様子を見たことがなかった。

臣道の中では再婚をした。それが予想だった。最初なら浮かれて以外に聞こえている色っぽい声も気にならないでお互いを求め合うこともあるだろう。

それにも我慢の限界はある。数か月続いていたら堪忍袋の緒も切れる。何があったわけでもない。

お気に入りの靴の紐はキレるし、コンビニの店員の態度はものすごく悪かったし。車をぶつけそうになるし。タイピングの調子も悪いし。何もかも上手くいかない日だった。

そういう日もある。

自分へのご褒美にちょっといいところでご飯でも食べよう。昼から酒でも飲んでしまおう。テンションが降下をたどっていたがその想像だけで上に向きになり始めてきた。入ったレストランで出された料理は電子レンジでチンしただけのような中は冷えていて、皿だけが妙に熱い。はっきり言えばまずい。口コミを信じなかったことを後悔するくらいの店だった。

いらだちは最高潮を突破し、家で飲み直す。そして何も気にせず昼寝をする。そしてその分明日頑張ればいい。言い訳と、発散を繰り返しマンションに入った。エレベーターに乗って自分の部屋があるフロアに降りた。

すると隣の家からハーフっぽい顔立ちの疲労が見える表情を抱えた女が出てきた。閉まっている扉に手を付けたまま動かない。皮肉の一つでも言ってやりたい気分。そんな八つ当たりをどうぶつけようか十数メートルを歩きながら考えた。口に出したのはストレートな刃。

「もうちょっと声抑えた方がいいっすよ」

自分だって切られたのだから。相手を切ることくらい許されるだろう。雫夫妻のような関わりの深さになることの方が稀だし、嫌いな奴にどう思われようと知ったことか。溜まり溜まったストレスを吐き出しただけの無作為な横暴だった。それを後悔するのはそうやって皮肉な声掛けをした女が涙を流していたからだ。

「え……」

そしてそのままエレベーターがあるのに階段を使って降りていった。

泣かせた罪悪感に漢が廃った感覚になる。気にならなくなったと思っていたのに幼少期からのすり込み教育の恐ろしさを知る。

「最近後悔してばっかりだ、俺」

最近がいつを指すのか。歳を取るにつれて年単位で前のことも平気で『この前』と言う。具体的にどのくらいの期間を示しているわけでもない最近という言葉の曖昧さも口に出した後に悔やんだ。


【続く】

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