11-暴露【ビル・ローズマリー・ミカエル】
「……っとまあ、そのくらい仲が良かったのに殺されてしまいそれはそれは悲しみに暮れたことでしょう」
「でもだからと言って恨んで復讐するような馬鹿じゃない」
「ええ、もちろん。疑っておりますとも。この場にいる全員をね。ですのでもう一つの事件と、皆様との関係を私にお話しさせてください。それにほら、ご覧下さい。こんな天気では帰るわけにもいきませんし」
胡散臭い喋りと、恭しい動きを眺めて全員がその先を促した。目を細め、口元を緩ませた萬の先の言葉を全員で待ち構える。
「もう一つの事件は今から約十年ほど前。とある交通事故が起こりました。原因不明のブレーキの故障。ノンストップで色々なところにぶつかりながら減速はしませんでした。運転手のとっさの判断でサイドブレーキを勢いよく引き、後輪にロックがかかったため車は後ろ側が持ち上がり前に回転しました。幸い歩行者への被害はありませんでしたが死傷者が20名の大事故となりました。覚えている方もいらっしゃるのではないでしょうか」
返事をすることなくうつむいたまま萬の話を耳から耳へと流していく。
「事件発生から五年は過失運転致死の疑いで刑務所で服役していた米塚未来被告の主張が認められ、不慮の事故だったということが認められました。先にこの事件の結末をお話ししましょうか。ブレーキは故障していたわけではありませんでした。ブレーキオイルに何者かが意図的に水を入れていたんです。ブレーキオイルの劣化は深刻な問題です。水でかさましされていても同等、それ以上に危険なんです。沸点が下がり、沸騰するとエアかみが起こりブレーキが効かなくなります」
※エアかみというのは油圧式ブレーキ系統の車に置いて圧力を伝達するための液体に気泡が発生しポンプの稼働中に空気が混入してしまい、ペダルからブレーキパッドに圧力が伝わる間に圧力のロスが生じること。
「ブレーキの異常に気付いた時にはもう遅かった。焦りのあまり何度もブレーキを踏み、結果それがフェード現象を引き起こしてしまったのです。ブレーキパッドに挟まれることによって車の動きを止めるディスクローターという部品があるのですが、ブレーキを踏み過ぎたことによってブレーキパッドとディスクローターの触れている部分が摩擦によって発生した熱で高温になりいつも通りの動きを出来なくなってしまうのです」
車に詳しい臣道はそうだ、と言わんばかりに控えめに頭を動かしている。
「その二つが重なったことによってブレーキはほぼ無効。事故が起こったというわけです。ここで問題になるのがどうしてブレーキオイルに水が入っていたのか。劣化すると水を含みやすくなってしまうのでその可能性も考えられました。しかし米塚さんの乗っていた車は事故が起こる数日前に修理に出していたんです。ビル・ローズマリー・ミカエルさん。覚えていらっしゃいますか?」
全員がミカエルの方を一斉に向く。自分に来るだろうと予測していたミカエルは清々しい表情を浮かべた顔を上げ萬の方に首を曲げる。
「覚えている。ヨネヅカさんは優しかった。地域でも金持ちって有名だった。上客みたいに思われてた。ワタシはヨネヅカさんの車を見た」
「そこで貴方は米塚さんの車に何をしましたか?」
「古くなったブレーキオイルの交換をした」
「間違いありませんね?」
「ああ、間違いない」
大手中古自動車販売店の修理部門でエンジニアとして勤めていた。外国人のミカエルは職を見つけるのが難しく、ようやく見つけた働ける場所だった。非正規雇用でもなんとか食べていけるだけの風呂もトイレも共用のアパートに家を借りて住めるだけの生活を送れているだけで満足だった。
同じような境遇の人もいたからいつ首が切られるんじゃないかと怯えながら日々を過ごし、必死に働いた。労働環境はいいとは言えない。休憩時間も少ない。給料も正規よりも下。働ける場所があるだけありがたいと思え、という空気に逆らえるだけの言葉も次の場所もなかった。
「ビルさん、最近点検してなかったな、と思って来ました。お願いします」
「ヨネヅカさん、ワカリマシタ。ありがとうございます」
簡単な言葉しか話せないミカエルの顔と名前を覚えて優しく声をかけてくれた米塚のことがミカエルは好きだった。高圧的な店長よりも車のことをしっかり大切に思っていると言葉の壁を越えた共感がそこにあった。
劣化したブレーキオイルは危険だ。黒く濁り始めたら劣化のサイン。黄色がかった透明な色の液体と交換する。
そこまで難しくない作業なので簡単に終わった。
車を移動させて引き渡しまでを待つ。
「ヨネヅカさん、ブレーキオイルだけ。交換しました。それ以外は、特に問題なかったです」
「分かりました。ありがとうございます。また何かあればお願いします」
「ありがとうございました」
次にその車を見たのはレッカー車に引っ張られて行くの映し出しているニュースだった。アパートに一つだけあるテレビは年功序列で老人がチャンネル権を独占する。日本語の勉強に見たいと何度か言ってみたものの人と話して覚えなさい、と取り合われることはなかった。本人たちはめんどくさがって話してくれないのに。
「サイキンはブッソウだねー」
「ジコなんでしょ?シカタないわよ」
「あらやだ、ナンニンかシんじゃってるの」
虫に食われた葉っぱのような日本語の中で意味を読み取ろうとする。アパートからそこまで離れていない大通りの交差点の悲惨な現状が映像で伝えられていて、飛び散っている破片や、顔面が潰れた車の姿。血痕と思わしき赤色の床。事故が起きたことは理解した。見覚えのある車が一瞬だけ映って流れていった。
「ヨネヅカさん……?」
確信は持てなかった。毎日何台もの車を見るから、何度か会ったことがあって面識があるとはいえ車の細部の情報までを記憶することは出来ない。
そうじゃなければいいな、と思いながら朝のニュースを見ていて遅れましたなんて言おうものなら反論の余地なしに即クビの職場に急いだ。
更衣室で制服に着替えてエンジニア用のタオルを肩に乗せてから業務内容を確認する。朝から晩まで拘束され、休憩は昼のみ。その日の仕事が終わるまでは帰してもらえない。
そんな厳しい仕事もやり続けられたのは汗水たらして働いた金を使う瞬間が好きだったからだ。簡単な自炊しかしないし、ご飯を炊くときは隣の家の人と一緒に炊くのだ。半分お金を出し合って、米担当、電気代担当。大体の金額が同じになるくらいにおかずで調節する。ミカエルはそれが好きだった。
隣の家にはおじいちゃんが一人で住んでいて、近所の人には今に孤独死すると言われていた。嫌われているわけではなく純粋な心配だけど、上手く言葉を口に出せない者の集まるアパートだったから本人も気にしていなかった。昔の考え方ならではの頑固者なところもあったけどミカエルにはすごく優しかった。
「オジイチャン、これ、なんて読む?」
「それは賞味期限。しょーうーみーきーげーん。美味しく、食べられる日の期限」
「期限ってリミット?」
「そうそう」
「過ぎたら食べちゃいけない?」
「いや。不味くはなるけど、基本的には大丈夫だ」
おじいちゃんと話しながら食べるご飯が何よりも美味しかった。ミカエルにとって日本語を気兼ねなく聞ける唯一の人だったこともあって、お礼にたくさん食べさせてあげたいと思うようになったのだ。毎週の金曜日はご飯と味噌汁。おかず何品か。たまにラーメンを一緒に食べに行くこともあった。
「ミカエル、お金はいつかの自分のために使いなさい。俺みたいな老人は後は死ぬだけだから」
「違うね。オジイチャンは、ワタシの先生。だから死なないね」
「人はいつだって死ぬんだよ。だから、出来る限り貯めておきなさい。こんなぼろいアパートだからちゃんと銀行口座作ってね。そこなら絶対に盗まれないから」
「オジイチャンはご飯食べたくない?」
「それは違うよ。毎晩遅くまで頑張ってくるだろう?それを見ていると、たまに心が痛むんだ。俺が話す言葉は生まれた国が理由で、話せるのは当たり前。それの代わりに金のかかるものをもらっていいのかって」
五キロのコメを抱えたミカエルから目を逸らす。中に入って米びつの中に米を移し始めるミカエル。
「ミカエル、もう俺のために、何かをしなくていいよ」
「オジイチャン、間違ってるね。ワタシ、したいからやってる。おかわり?おへんじ?必要、じゃない」
そう言うとおじいちゃんは涙を流しながらにこりと笑った。
一人の悲しみが癒えていくとだんだんと一人の名残が痛ましい傷のように思えてくる。そんな時にミカエルの裏のない優しさに触れて、一気に心が満たされた。一人ではない。二人いる、と。
「だからね、今日もオイシイご飯、食べよ。オジイチャン」
「そうだね。味噌汁は俺が作ろう」
「オジイチャンのみそしる好き!」
いつまでもそれが続けばよかった。ミカエルにとっての幸せはそれだった。ずっとずっとおじいちゃんと一緒にたまにいいご飯を食べて、冬の寒い日にはどちらかの部屋に集まって暖房代を節約しながら眠ることが幸せだった。金がなくても、適度な温度がなくても。夏は暑くて、冬は寒くても。ちょっとの背伸びでお互いを助け合う。
けれど続くことがないのが、理不尽が混ざり込んでくるのが、必然に簡単に壊されるのが運命で。人生で。真実で。正義だった。
形だけのインターホンはあるが、音は鳴らない。強いノックの音で目が覚める。目覚まし時計が鳴る時間よりもまだ早かった。それでも飛び起きてミカエルは六畳一間の部屋を大股で歩いて玄関を開けた。
「ハイ、なんでしょう」
「朝早くに申し訳ありません。警察なんですが、五年前の交通事故の件でお話を伺いたいのですが所までご同行願えますか?」
「は?」
「捜査協力を拒否されるようでしたら強制的に連行しますがよろしいでしょうか」
よく分からない単語に首を傾げながらも着いて行けばいいことを察して答える。
「ワタシ、着いていくよ。あなたたちに」
「ご協力ありがとうございます」
警察署の中で案内された取調室に肩を縮こまらせて椅子に腰かける。時計をちらちら確認して業務開始時間が近づいて、連絡を入れるのを忘れてしまったのに気づいて無断欠勤になってしまうことを恐れていた。
「あ、あの……」
ガラス張りの奥に恐らく人がいるんじゃないか、と思って手を上げる。
「あ、あの!」
見えないガラスの奥で人が動く気配がして取調室内に入ってきた。
「どうしました?」
「デンワ、借りれれますか?」
「どうしてですか?」
「仕事してるところに、連絡を入れたいです」
「ああ、少々お待ちください」
渡されたごく普通のスマートフォンを捜査して職場に電話をかけた。日本語の嘘を吐き方を知らないミカエルは正直に自分の話を聞きたい人がいて、まだその人が来ないからその人を待って話をしてから行く、と伝えた。意味が伝わっているかはさておきなるべく早くに来い、と命令口調で言われた。
「ありがとうございます」
「いえ。あ、来ました。こちらです」
近所の商店街で買ったセール品二枚で九百九十円のシャツに、一本七百円のハーフパンツとは全くもって違う小洒落たスーツに身を包んだ男が入ってくる。意味にがあるのかないのか分からないバインダーを抱えながら入ってきて、態度大きくをそれを放り投げた。
音が鳴って机に着地をする。その音に体をびくつかせる。
「えー五年前の件なんですけれど……」
ねっとりとした口調で何事も絡めとって落とさないようにする視線に捕らわれる。
「米塚未来容疑者が、えーっと、交通事故を起こしたんですがその件は覚えておいでですかね」
「ヨネヅカさんは、知ってます」
「彼が事故を起こしたことは知ってますか?」
「知りません」
「米塚さんとの面識はどこで?」
「メンシキ?」
「どこで会いましたか?」
分からない単語を聞き返しても嫌な顔することなく。眉一つ動かさないで簡単な形に言い直してバインダーに目を向けながらさらさらと書き込んでいく。
「ワタシの仕事するところです」
「お客さんとして米塚さんは来ていた?」
「はい」
少し間が開く。次の質問に身構える。
「米塚さんの車が事故を起こした原因はブレーキオイルだったんですよ。ブレーキオイルが劣化するとどうなるか分かりますか?」
「黒っぽくなります」
「そうじゃなくて。車がどうなるか、は」
「エアかみするので、危ないです」
「ですよね。エアかみを起こしていたんです。ブレーキオイルに水が混ざっていて」
「そうなんですか?」
「そうなんですよ!」
二つ折りのバインダーを音を立てて閉じた。それを足の上に立てて、貧乏ゆすりをしているのか小刻みに揺れている。
「五年前にブレーキオイルを交換したのはあなたですね?ビル・ローズマリー・ミカエルさん」
記憶の底を探って思い出す。米塚という名前を聞いた時に最後の記憶を思い出そうと話の最中に頑張っていた。
「あっ、はい。そうです」
鼻から大きく息を吐きながらうざったい男は背もたれに寄りかかった。
「我々はミカエルさん?ビルさん?」
「ミカエルです」
「ミカエルさんが犯人だと思っているってことを言いたいんですよ」
「違いますよ?」
ミカエルは質問に答える、という技能しか知らない。求められた時に自分の意見を言うことしか知らない。職場では自分の意見なんて必要ないし、言うだけ怒られる。外国人となめている連中に特に。
言われたことがあっているのか、否か。それを聞かれた。そう認識したミカエルは事実と違うことを指摘した。
「どうして違うんですか?」
「マニュアルがあります。それの通りにやりました」
バンッ
「でも、あなたが変えて、その数日後に事故が起こっているんですよ。ってことは、一番怪しいのってあなたなんですねえ。ミカエルさん」
「でもワタシじゃない」
首を振り、手を振り。身振り手振りで伝える。伝わっていないのかと思って同じことを繰り返した。自分の本当の質問をひた隠しにして自供するまで圧迫するのが目的だった。ただミカエルは何を言われているのかを事細かに理解出来ていなかった。
言われている内容と、自分の中の事実が違うかどうかを聞かれているのだと思いそれに対して必要だと思われる返事をしていた。日本人は間違いに厳しい、と知っていので間違いであることに気づきたいのかもしれない、とある意味では協力的だった。こうも何度も同じ質問を受けると意味が分からなくなってくる。
「どうしてワタシ?」
「あなたが米塚さんの車に触れているからです」
「ワタシがラスト?」
「えっ……え、あ、ええ。いや、そうですね」
肯定の意味か、否定の意味が分からないそうですね、にミカエルは首を傾けた。
「ワタシ、ヨネヅカさんの車、修理しただけ。壊してないね」
これ以上何を言っても無駄だと思ったのか警察の男は溜め息を吐きながら帰っていい、と言った。その言葉通りに受け取りミカエルは席を立った。走って家まで帰って、とんぼ返りで職場まで走って行った。
「ミカエル、どこ行ってたんだ?」
「ポリスメンのところ、です」
「はあ?なんかしたのか?金がないからって万引きでもしかのかー?」
笑いながら嫌味を吐き、また別のエンジニアをいびりに行った店長の背中に嫌な予感を覚えた。数日のうちに自分に対してよくないことを言いそうな気がした。
その日は何かが起こることもなく。車を壊したと言いがかりをつけられることもなく仕事が終わった。
嫌な予感はかなりの確率で当たるもので。
「おい!ミカエル!」
「はい!」
「お前、疑いがかかってるんだってな。車をわざと壊して、でっかい事故起こさせたって。警察が聞きに来たんだよ」
「ワタシ、やってないです。ブレーキオイル、こうか……」
「言い訳はいいんだよ!」
大声を出されて体を小さくする。怒っている時には相手をさらに怒らせないようにすることが重要で、それが処世術であることを教わっていた。おじいちゃんに。
「もう明日から来なくていい!ほら、これがラストの給料だ。大事に使え!」
別れを惜しまれる素振りは一切なくラストの給料、という絶望的な響きを持つ単語が頭の中を周回していた。今後の生活や、次の仕事を見つけるまでの家賃や、住む場所。考えなければいけないことは多くあったのに、疑われただけで自分の暮らしが脅かされたことをただ混乱するしか出来なかった。
最後の日も容赦なく、最後の日だからなのかひたすらに働かされた。別れ際にこれから頑張れよ、と声をかけてくれたのは新しく入ってきた正規雇用の日本人だった。ただただいろんなものが憎かった。
家に帰ったらおじいちゃんに報告をして、長年の人生の知恵を借りようと思っていた。ノックをしても返事がなく、鍵が壊れていることは知っていたので開けて中に入った。布団が敷かれていて、痩せこけた横顔が天井を向いていた。夏ではないのに一気に汗が吹き出し、畳を濡らした。
「オジイ、チャン……?」
返事はないままだった。
殺人犯の汚名を着せられることはなく、おじいちゃんの死は孤独死。ただの自然死。孤独死として葬り去られた。翌日には少ない家具が何もかも取り払われていて人が生きていた形跡は何も残っていなかった。
「オジイチャン、ワタシ、これからどうしたらいいね……」
哀しみに暮れている暇はない。次の仕事を探せなければ一年以内に住む場所が亡くなって露頭に迷ってしまう。大家は外国人のミカエルにも親しかったがおじいちゃんがたまに家賃を払えなかったりすると烈火のごとく怒り狂っていた。事情を話しても受け入れられない。
貯めていた金を切り崩しながら、次の仕事を探す日々。市役所に行って就労相談をしてみたり、ハローワークに行ってみたり。面接に進んでも、五年の間に鍛えた日本語能力で中々採用通知はやってこなかった。
そして仕事が見つけられないまま一年と少しが経過した。
「ミカエルさん!?今日こそ家賃払ってください!」
「スイマセンスイマセン……」
「謝るんじゃなくて!お金がないなら出て行ってもらいます!明日までに荷物をまとめてください!」
「それは……」
「じゃあ今すぐお金払ってください」
そう言われてもも手元にはその日限りの食事の費用しか残っていなかった。それも家賃には到底及ばない。
「どうするの!?出て行くの?それとも、払うの?」
「出て行きます……でも、今日の夜は、いていいですか?」
「仕方ないわね。明日になったら出て行きなさいよ」
その日の夜は鳴る腹を押さえつけて畳に直で寝ていた。売れるものは全て売ったし、質に入れた。その間に仕事が見つかると思っていたのに現実は中々に厳しくついに家から出て行かなければいけなくなった。
その翌日にところどころ色味が剥がれ落ちた求人ポスターを張っていたコンビニに駆け込んで即日合格をもらうことが出来た。就職にこだわらなければよかったことに気づくのが遅れたのが災難だった。住所がないと知れると採用してもらえないだろうと思っていたからもともと住んでいた場所を書いた。
日本に来てから少しの期間コンビニでバイトをしていたこともあって感覚を取り戻すように必死に働いた。安いホテルを渡り歩いて毎日似たような薄汚れた服に身を包んでいた。
食べる金と、泊まる金で毎月何とか出来ていた。貯金なんて出来なかった。家を借りに行っても貯金がなければ貸してくれなかった。切りつめて生活しても認められるだけの貯金額に到達するまでに時間がかかりそうだった。
ふと急に体が動かなくなってしまった。朝が来て起きようと思っても体に力が入らず、ベッドから体をようやくの思いで起こしても、とても仕事に行けるような状態ではなかった。その連絡をするのも一苦労で明日は行きます、と言ったがそれも怪しかった。
何年も働いて、我慢をして、朝から晩まで働いても自由に使える割合がゼロに近いような給料、過酷な差別意識の抜けない労働環境でも文句を言わずに耐えてきた。それに体が追いついて行かなくなってしまった。肉体精神どちらの疲労にもまともに目を向けず、今この瞬間を生きなければいけない。その使命感だけで、無理やり体を動かしてきた。
プツンと切れたようだった。
引き金が引かれて急所に真っ直ぐ当たったようだった。
もう何も気に出来なくなったミカエルはコンビニの袋に入っている自分の全財産を持ってホテル。チェックアウトした。ただ漠然と絶望感が心の中にあって、その心すら消えてしまったんじゃないかと思うほどの喪失感が残っていた。感じるための器官は何もかもの意欲をなくし、どこに向かって歩いているのか。今後の生活をどうするのか。考えることが出来なくなってしまった。
それからの行く当てもなく、チェックインする度に拙い日本語を理解してもらうことも自分の中での疲労だったことに気づいた。生と死の狭間を漂うような時間があり、何かの実感を取り戻したのは駅構内に座って膝を抱えている時だった。
自分は何をしているんだろう。
コンビニに明日休みます、と言うだけの手段もないに等しい。泊まる場所もない。風雨をしのげる場所や、警察に何かを言われないポイントが時間帯も知らない。これ以上の救いが目の前に見えないミカエルは再び心を閉じた。
そんな生活をしていると不思議と腹が減らなかった。一日に一回、食べるか食べないか。必死に生きていないからカロリーも消費しないし、必要としない。生きているだけなら、食べる必要もほぼない。最低限生命を繋ぎとめておきたい。それだけを目標に増えない財布(ビニール袋)の中の金を使っていた。
ミカエルに手を差し伸べたのは、動く気力も作り出せなくなってから二か月が経とうとしていた時だった。
「一緒にご飯を食べないか?」
髪の毛は伸びきっていて、ひげも生えている。ふけがたまっているし、ランドリーに行く金ももったいないと思って服もずっと変えていない。人違いと思うのも難しい。明らかに自分に対して声をかけてきている。分かっていても顔を上げることが出来なかった。筋肉に命令を出すのを拒むくらい脳がストライキを起こしていた。
「そんなことがあったのか……大変な思いをしてきたんだね。君に出来ることを、私に買わせてほしい」
遠目に見るだけで毎日諦めていたレストランに入った。髪の毛をとかすくしを借りて、服を買うだけの金ももらった。その後には銭湯に行こう、と言われていた。
状況が飲み込めないままアラカルトで頼みたいものを頼めと言われて、決められなかったミカエルを見ておすすめされたものを注文した。本筋に入る前の導入は沈黙で、料理が運ばれてきて温かい食事に閉じていた心を覆っていたパズルのピースみたいな氷が一つ一つ剥がれていくのを感じた。
聞かれたこと全てに答えた。あんなことがあっても嘘を吐くということを学ばない。答えない、という選択肢が出てこない。話に真摯に耳を傾け、痛そうな顔をして辛かったね。大変だったね。そう言われた瞬間ミカエルはコーンスープを飲んでいたスプーンを落とした。
席を立ってそれを拾ってくれた桑木という名の男にミカエルは救われた。
【続く】
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