9-暴露【矢車妃美】
「私が捜査を担当しました。改めまして新潟県警の萬逸作と申します。皆さんの大切なお仲間を殺した犯人がわかりました。それを話すためには二つの事件をお話しなければいけません」
誰も口を挟むことなく話を聞く姿勢を整えるための椅子のきしむ音がいくつか聞こえた。現実を知るために身構えたのか、それとも起こる結末に備えた礼儀なのか。
「今からお話します。都内季くんはお母様を不慮の事故で亡くされていますね。その事件がきっかけとなり都くんの精神状態は破綻と私は勝手に予想していましたが、なんともないかのように幼稚園は卒園。小学校も卒業。中学生くらいになって突然、記憶に変化が加わり精神的に疲れてしまった。お名前は変わりましたが誰よりもよくご存知ではありませんか?矢車妃美さん。当時の姓は杠(ゆずりは)でしたね」
都の過去を洗いざらい調べると母親の死が真っ先に見つかった。その当時の事件のどこであろうと人の頭の中や、書類上でも残っているかは分からなかった。しかしその事件を見た人物の脳みそは常に最新の情報に記録されて今この瞬間も生きている。
幼い頃の事件が成長した時に突発的な何かに引っ張られ事件を起こすことが珍しくないと経験が語っており、かかったことのある病院を調べるといくつも通っていた精神科の中で最も期間が長かった病院で担当した精神科医が杠妃美だった。数年前の情報だから確かなモノを探れる確証は無かったが勤めていたクリニックに出向き、どんな人物だったかを聞いた。
「杠先生、ですか?」
「どんな人でしたか?医者としても、一人の人間としても。患者さんからの評判なども覚えていらっしゃるのなら教えていただきたいんですが」
「よく覚えてますよ。ものすごくいい先生でした。患者さんはみんな口を揃えてそう言います。杠先生の話の聞き方はどこか安心感のある、包容力があるような感じで。お医者さんとしては言わずもがな優秀な方でしたし、看護師に対しても丁寧な姿勢の方なので評判は良かったです。スタッフも全員が慕っていました」
「素晴らしいお医者様だったんですね。どうして杠先生はお辞めになったのかって分かりますか?」
「結婚を機にでしたね。その後すぐに別れちゃったって噂なんですけど」
すぐに別れた、という表情も内容も気になって萬は聞き返した。
「すぐに別れたって?」
「常々杠先生は子供は欲しくないって言ってたんです。性格的にバリキャリって感じだったのでそうなんだろうなーくらいに私たちは思ってなかったんですけど、それが原因じゃないですかね」
「杠先生の旦那さんとはお知り合いですか?」
「いえ、杠先生が選ぶほどの人だから余程の完璧超人だろうっていう予測です。だから子供とかもちゃんと考えてそうなのかな、ってくらいの推理です。あんまりしっかりした裏付けはないですけれど」
杠という医者の名前である妃美はどこにでもいるような名前では無い。更には精神科医、都内季という男の子を診察している。そこから矢車妃美にたどり着くのには時間がかからなかった。
そのクリニックを辞めてからはどこの病院にも勤務せず、専業主婦になったようだった。そのため医者としての実力を萬の個人的な観点から計ることは出来なかった。
「しかし、私はずっと気になっていたんです。どうして矢車のままなのだろうか、と。戸籍には結婚の記録は残っていましたが、離婚の履歴はない。矢車さんの口からお聞かせ願えますか?」
「結局離婚はしてないわ。でも事実上は離婚みたいなもので、結婚して二年で別居が始まったわ。もう三年近く会ってない。仲たがいの理由は子供が欲しくない私と、欲しい旦那で合ってます。私は離婚なんて気にならないけど旦那は体裁をものすごく気にする人なの。だから子供をねだるの。そんなところが嫌いになったから離婚しましょうって持ち掛けたけど断られた。それだけよ」
「貴方の旦那さんは一年ほど前に亡くなっているんですよ。葬式は執り行われたでしょうし、参加はされなかったんでしょうか」
「知っていたけど無視したわ。だってあの人が死んでようと生きていようとどうでもよかったんだもの」
「では何故亡くなられたのかはご存知ないでしょうね」
「ええ」
「殺人です。貴方がよく知る人が殺したのです」
矢車の顔が一気に変わる。その表情は怒りに満ちた表情だった。
「それが都くんで私は犯人を知っていたけど知らない振りをして?それで私が犯人だって言いたいの?」
人前で旦那との不仲を暴露されて、もう取り繕えないような侮辱をされたことは大人としての表情で耐えていた。犯人呼ばわりされることはそんな侮辱が甘言に聞こえるほどの侮蔑だった。
「そういう訳ではありません。都くんが犯人であることはそうなんですが、すごい偶然はまだ重なるんですよ」
そこから嘘や真実が入り交じった告白が萬の口からなされていった。だんだんと暴かれる。だんだんと白が黒になっていき、黒が白になっていく。
「矢車さんが勤めていらっしゃったクリニックの看護師の方から聞きました。旦那様のご職業は芸能事務所の経営者でしたね」
『旦那さんと面識はないんですけど職業は知ってます。確かに世間体とかが大事な職業だなって思ったことは覚えてて。そこまで大きくはなかったけど、芸能関係の会社の社長だって』
「そうですが?」
否定することなくその事実を受け入れる。
「都くんを診たことは事実として受け入れてくださいますか?」
「ええ。覚えてます。都くんは私と会っても思い出しませんでしたけど」
「どのような症状でやってこられたんですか?」
「パラフィリアの相談ではありませんでしたよ。それに関しては趣味嗜好なので抑え込むのに治療法なんて存在しませんし。お母様を亡くされてからかなりの時間が経ってましたが、急に思い出した、とのことでやって来ました。他の病院の紹介でしたけれど」
脳内に浮かび上がる細部がおかしい夢のような現実をそのまま口に出す。
「はじめまして。杠です。お名前、教えてください」
仕事では結婚する未来が見えていても変えるつもりもなく、周りのスタッフにも言っていなかった。都には最初から最後まで杠と名乗っていた。
「都、です」
「都くん。下の名前は何かな?」
「あるでしょ。俺書き込んだし。都って名前でもおかしくないのに名字って知ってるじゃん」
「おや鋭い。でも君の口から聞くことに意味があるんだ」
そう言う人も少なくない。決して声を荒げたり、怒っている様子をみえたりしてはならない。不満そうな表情も決して見せてはいけない。
「それで、今日来た理由はどんな理由かな?」
「母さんが、死んだんですけど。俺が子供の頃。記憶もほぼ無いくらいで、多分四、五歳くらいだったんですけど。それが急に頭の中に来て、それが、ずっと続いて気分も上がんないし、やる気は出ないし。学校も行きたくなくなって」
「友達は学校にいる?」
「何人がいる、くらい」
「ご飯とかは食べられてるかな」
「差が激しいです。めっちゃ食べたくなる日もあるし、何も食べない日が続くことがある」
「学校の授業とかは大丈夫?」
「それは、平気。実技がないし、聞かなくてもなんとかなるから」
通信制の学校には毎週四日ある授業のうち、半分か、一日かしか行けていないらしい。
「お父さんは仕事忙しい?」
「忙しいけど、俺のことちゃんと見てくれてるのは分かる」
「思い出したのは本当に突然だった?何か前触れとか、似たような状況だったとか」
一番最初の診断はここで終わった。
急に頭を抑えだして苦しみ呻いた。よくあることだったので焦らずに対応することが出来た。近くの診察用のベットに横にさせる。言葉をかけながら鎮静剤を打つ。
「大丈夫大丈夫。落ち着いてね。思い出したくないことは、そのまま底にしまっていていいからね」
落ち着いたのか眠りに落ちた。寝顔は所詮中学生。何年もかけて意図的にしまい込んでいた記憶が突然元に戻ることがある。思い出してしまったことを否定したいのなら、そのまま否定をすることを進める。記憶と共存する水戸をラビたいならその手助けをする。
医者は神様ではなく人。人として価値のある人間、優劣をつけた場合は患者と医者は決してどちらかが上ではない。どちらかがいないければ成り立たない職業なのだから。『生きる』をしている患者も、『救う』をする医者も。生きている人がいなければ救うだけの人間もいないし、生きていなければ救うことも出来ない。救う人がいなければ人は死を選んだり、本来生きていられるだけの時間を過ごせなかったりする。
誰でも助けられるわけではない。それも精神的なものであればなおのこと。医者や外側を生きている人間には到底理解出来ない思考回路の末の苦しみに手を出すことは出来ない。話を聞いて、必要とあれば薬を処方する。
目を覚ましてすぐに都は帰って行った。
定期的にやって来るようになり、その日あったことを話してくれたり、悩みに泣いたり、笑顔を見せてくれたりするようになっていた。患者に優劣をつけることはなかったが、年の離れた子供に対してはより一層感情移入をしていたのでその進歩を嬉しく思った。
それから中学校の二年間を終え、卒業して高校に入ったと同時に都は病院に来なくなった。
「次の予約はどうする?」
いつもしていたやり取りを始めようとした。
「先生、俺病院はこれで最後にしようと思います」
「どうしてかな?」
「高校に入るし、そこまで忙しくもない学校なんですけど。なんか……すっごく、やれそうだなって気がするんです。先生のおかげで苦しくなった時とか、大丈夫って自分に言えるようになったので」
「そう。私が力になれているのならよかったわ。これからも無理やり否定することはないようにね」
「はい!」
元気に返事をしたのを見て矢車は安心した。
その日の夜、すでに同棲しているもう少ししたら旦那になる人と話をした。既にプロポーズはされているから後はお互いの両親に挨拶に行くだけ。
「あのさ妃美」
「何?」
「そろそろ子供をちゃんと作り始めたいんだけど。俺たち結婚遅かったからただでさえどっちの親にも心配かけてるでしょ。孫の顔見せて、早く安心させてあげないとなって」
「ごめん、私そういう考えで作りたくないんだ。それに今は仕事したいの。アナタもそうでしょ?世間に出る回数も多くなったわけだし、どっちかが落ち着いていないと子育てだって中途半端になっちゃう」
真っ当なことを言ったつもりだった。
「妃美はいっつも俺が世間を気にしてるって言ってるけど子供はそういう問題じゃないだろ。お前は俺との子供が欲しくないのかよ」
「欲しいか、欲しくないかで言ったら欲しくないわ。だって母さんと父さんが私を疎ましそうに見る視線を思い出して自分も同じことをしたら死ぬって決めてるし。まだ死ねないわ」
どんな時でも冷静に。仕事で培ったその能力が裏目に出るとはまさにこのこと。まさにこれは職業病
「お前のその能面みたいな顔、よく職場ではバレないな」
頭に血が上るのを感じた。
矢車は仕事場では不安にさせないように笑うよう努めているが、家では無表情を極めている。常に感情を動かしていたら疲れてしまうように釣り合いを持たせている。旦那は交際期間中にそれを打ち明けても理解してくれた。けれど微笑むし、怒った表情も薄くは出てくる。
声を荒らげることは元からするタイプでは両方とも無かった。喧嘩になってもどちらかがもういい、となっていつの間にか謝罪の言葉もなく終わっている。それで良かった。
言われることをいちいち気にしていたらそれこそ感情を表に出すよりも疲れてしまう。少しの見て見ぬふりと、少しの嘘があって成り立っていた。
(嗚呼、私たちは結局仮面夫婦だ。)
そう思ってその日はそれ以上言い合うことも、会話をすることも無く終わった。
順調に結婚生活が始まるわけはなかった。あんな会話をしたのに二人とも別れる道を選ばなかったのは旦那としては世間体。結婚指輪の代金。30代での未婚。危機的なことだった。矢車はそういう意図があって引き止められていることは分かっていたけどそれでも好きだった。溺れたり、人間としての一線さえも消しゴムで消してしまうことはなかったけど。何よりも近い場所を許すならその人がいいと思ってしまった。
それから二年間、仮面夫婦は子供を授かることもなく、世間に疑われることもなく夫の会社の公式サイト内のブログで『大変私事ではありますが……』から始まる文章と共に発表され祝福を受けた。それから定期的に事実が残り始めた。脚色されたり、ヤラセがあったり。
それに使われることも自分の表情の管理が理由であることは分かっていたから文句も言わずに手料理を作ったり、顔は隠される写真でスタイルを気にしたり、いい服に着替えたり。それは出来ていた。
どうしようもないほどに好きでいた時のことを若気の至り、そう思った。どうして間違いを選択してしまったのだろう、と日々後悔に苛まれるようになった。自分の元にやって来る患者のように。段々と病みが深くなっていった。
義両親も、両親も孫はまだか、と時が経つにつれて強く行ってくるようになった。両方とも一人っ子で旦那がよく愛されている理由はそれでいいとして、一人娘は孫を見せるために産んだような言い方をされて『家畜か』と言い返してやりたくなった。四人を味方につけていることをいい気に旦那は夜に必要以上に迫ってくる。疲れているのもお構いなしに。
それでも家事はほぼ丸投げ。こんな状態で子供が出来たとしても、矢車が仕事を辞めるか育休を取らなければいけなくなることは目に見えていた。環境的には許されたが、自分勝手な相手のために矢車だけが我慢をしているように思えたのは仕方がなかった。
「私、あなたと離婚するか別居するわ」
「は?何言ってんの?」
「だって私子供生む気ないし、あなたの自分勝手にはもううんざりなの。だから自由を掴もうと思って」
能面が初めて役に立った。結婚を証明する書類を提出してから約一年経って堪忍袋の緒が切れた。カレンダーをめくったりすれば案外自分はこらえ性がなかったのかもしれない、と思うがそれ以上に自分勝手極まる相手がそこにいるのだから。
「そんなの許すわけないだろ」
「はあ……その亭主関白みたいなの誰に憧れてるのか知らないけど、もう私あなたのこと愛してもないし、ご飯を作ってお風呂を沸かして待ってるのだってやりたくないの」
「女の仕事はそれだろ!俺が拾ってやらなきゃお前みたいな無表情な女が誰と幸せになれるっていうんだよ!」
「考え方ふっる」
(嘲笑)
「それに私、いつ言ったかしら。幸せだって。結婚してから。記憶の中にある?」
結婚してから、の部分を強調した。それにたじろいだ旦那は矢車が本気であることを悟り、離婚届に判は押さないが別居なら許す、と。矢車の方に出て行けと言った。どうして自分が悪いと少しの反省を出来ないのか、生まれなのか。親なのか。それを口に出すことはせずにありがとう、と満面の笑みで言ってから家を出る準備を始めた。
その二年後に死んだ知らせがあったが無視をした。萬に答えた通りどうでもよかったのだ。死のうと生きようと。活躍しているよう、没落していようと。
【続く】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます