らしくない

三鹿ショート

らしくない

 以前の彼女に対して、好意を抱いていたというわけではない。

 だが、現在の彼女よりは良い人間だったと考えている。


***


 事故に遭い、生死の境を彷徨っていた彼女が意識を取り戻したことは、喜ぶべきことだった。

 彼女と親しい人間が喜びを示すと、彼女もまた、笑みを浮かべていた。

 常と変わらぬ穏やかな笑みは、我々を安心させたものだ。

 しかし、退院した彼女は、別人のように変化していた。

 以前は見せることが無かった怒りを暴言や暴力と共に示し、その肉体を惜しむこともなく晒しては、多くの異性を誘惑し、関係を持つようになった。

 彼女と親しかった人間は、その変化に困惑し、何時しか距離をおくようになってしまった。

 以前から親しかった人間の中で、未だに彼女と関わろうとしている人間は、今では私だけと化している。

 それは、彼女が元の姿に戻ることを期待していたからだというわけではない。

 彼女が、実に生き生きとしているように見えたからだ。


***


 事故によって頭部を損傷した結果、彼女の人格が変化してしまったのだろうか。

 そのような疑問を抱いたために、下着姿で酒を飲んでいる彼女に問うた。

 彼女は少しばかり赤らんだ顔を私に向けると、首を横に振った。

「私自身、事故以前とは異なる生き方をしようと考えながら行動しているのです」

 思わぬ答えに、私は驚きを隠すことができなかった。

「何故、そのようなことをするのか。以前のような振る舞いを続けていれば、他者と問題を起こすことなく、堅実な日々を過ごすことができていたはずだ」

 私の言葉に、彼女は手にしていた盃を力強く洋卓に叩きつけた。

「その人生の、何処が愉しいのですか」

 彼女は私を睨み付けながら、

「確かに、以前の私は如何なる問題にも遭遇することがないように、気を付けながら生活をしていました。避けることができるような問題を避けることで、精神的な疲労を感ずることがないようにするためです。その結果、私は多くの友人に恵まれ、仕事も順調と化しましたが、事故に遭ってしまった。どれほど善行を重ねたとしても、不幸は突然、襲いかかってくるものなのです」

 彼女は盃に酒を盛り、それを一気に呷ってから、

「それならば、己の好きなように生きるべきではないでしょうか。自分を殺し、穏やかな日々を送ることも良いでしょう。ですが、一度限りの人生を愉しむべきだと、私は考えたのです。その結果、親しかった人間たちが離れることになったとしても、私には何の後悔もありません」

 それは、彼女の心からの言葉だった。

 何事にも激情することなく、揉め事などとは無縁だと思っていた彼女の我慢の日々とは、どれほどの苦痛を伴っていたのだろうか。

 彼女に同情しながら、彼女の言葉は正しいと思った。

 言われてみれば、安定した日々を過ごすためとはいえ、我々はどれほど自分という人間を殺し、他者の顔色を見ながら生きているのだろうか。

 彼女のように、好き勝手に生きることを選択する人間ばかりがこの世界に溢れていれば、途端に無法地帯と化すだろう。

 だが、それぞれが抱いている願望など、世界を破滅させるようなものではなく、己の手が届く範囲の人間に迷惑をかけるようなものばかりに違いない。

 だからこそ、彼女の変化に、世界はそれほど大きな影響を受けていないのだ。

 私は、彼女を羨ましく思った。

 事故が切っ掛けだったとはいえ、彼女は一線を越えることができたのである。

 私もまた、己の欲望に従う日々を過ごしたくなったが、そうすることはできない。

 安定した日々を失うことを恐れているからだ。

 しかし、彼女を羨ましく思うということは、私もまた、彼女のように生きることを望んでいるということになるのだろう。

 それでも動こうとしない理由は、刺激が少なかったとしても、波風に揉まれることがない日々が大事だと考えているからだ。

 堂々巡りとは、このことである。

 自宅に戻り、今後の身の振り方を考えたが、結論が変化することはなかった。


***


 彼女がこの世を去ったのは、事故から半年ほどが経過した頃である。

 多くの異性と関係を持っていた彼女だったが、そのうちの一人が、彼女が他の異性と関係を持つことを良く思わず、独占しようとした結果、彼女の生命を奪ったということだった。

 これが自由を選んだ彼女の最期とは、何とも粗末なものである。

 やはり、彼女のような道を選ばなかったことは正しかったのだと、自分に言い聞かせた。

 そのようなことを考えながら自宅へと向かっていると、公園の物陰に女性が倒れていることに気が付いた。

 近付いたところ、どうやら相当酔っているらしく、私の声に反応することはない。

 その肢体を見て、私は生唾を飲み込んだ。

 手を伸ばそうとしたが、背後に何者かの気配を感じたために、振り返る。

 だが、無人だった。

 安堵の息を吐いたところで、自身が愚かな選択をしようとしていたことに気づき、恐ろしくなってしまった。

 私は、女性を放置し、駆け出した。

 しかし、私に付きまとっている存在が消えることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

らしくない 三鹿ショート @mijikashort

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ