巡りの僧

 夏の渡翼わたりが近づく頃、ガジの村に巡りの僧がやってきた。


 シシト国中を旅する巡りの僧が村に寄るのは、めでたいこととされていた。僧は村長の来客棟に通され、村ではニシャの枝が焚かれて祭りのような気配が漂った。

 硬い肌に大樹のようなしわを刻んだ僧は、夏にまつわる縁起の良い話や天の国の逸話などを村人に語って聞かせた。両親に連れられて巡りの僧の話を聞きに行ったガジは、帰る前にそっと彼の座布団へと寄って尋ねた。


僧都そうとペナンは、カムルランギの山のふもとにあるんですよね。天の民にも会えますか?」

「君は、天の民に会いたいのかい?」

 僧は優しい眼差しをガジに向けて言った。


「残念だが、私も天の民には会ったことがないよ。渡翼わたりの日に互いの空が繋がったからといって、彼らはそう簡単にシシトの地に降りることはない。カムルランギの中腹にある奥院おくいんでは、まれに天の民を見るという話だがね」


「どうすれば、そこへ行けますか?」

「カムルランギは修行の地。僧以外は入れないよ」

 そう言って、僧は目を細めてガジを見た。

「行きたいなら僧になるしかないが。君は両親や友達、生まれ故郷から離れてもなお、それを目指したいと思うのかい?」


 家に帰ったガジは、寝台に腰かけると掛布を羽織って目を閉じた。頭の中には先ほど聞いた巡りの僧の言葉が響いていた。


 父と母は大好きだ。アリィと毎日こなす羊番の仕事も、大変だけど嫌だと思ったことはない。この村を出るなんて考えたこともなかった。


 けれど、とガジは目を開けて懐を探った。

 折りたたまれた端切れの布を広げると、銀色の鈴がころりと転がる。指先でつまみ上げて軽く振れば、リィンと優しい音がこぼれ落ちた。

 この音を聴くたびに、澄んだ春の空色がガジの心に湧き上がる。あの少年のことを思い出すたびに、胸がぎゅっと締めつけられた。

 ペナンに行ったところで、彼とまた会えるとは限らない。むしろ会えない可能性の方が大きいだろう。そのために今の生活を捨てるなんてあり得ないことかもしれない。

 それでも、諦めてしまえば、もう絶対に彼とは会えないのだ。


(僕は、鈴の君にもう一度会いたい)


 ガジは鈴をしまうと寝台を降り、灯りのこぼれる土間に行く。母親は湯気の上がる鍋をかき混ぜ、敷布に座った父親はゆるりとスーチャを飲んでいるところだった。

 ガジは早鐘のように鳴る胸を押さえながら二人に声をかけた。


「父さん、母さん。……僕、僧になりたいんだ」



 僧都そうとペナンまで連れていってほしい、とガジが両親と共に改めて頼みに行くと、巡りの僧はじっと三人を見つめた後で言った。

「急な別れは強い後悔を残すだろう。もし一年後、君の気持ちが変わっていなければ、その時は私が責任を持ってペナンまで案内しよう」


 それから一年、ガジは羊の番も両親の手伝いも一生懸命こなした。

 来年になったら自分はこの村にいない。そう思うと、羊の背中も庭に咲く花も、しわの目立つ両親の顔立ちも。今まで見ていたものは全て、かけがえのないものだったのだと思わずにはいられなかった。


 翌年の夏、約束通りやってきた巡りの僧と共にガジは僧都ペナンへ旅立った。


 暖かな赤色の僧衣は、シシト国の大地を表す。それを身にまとう者は自らの使命を果たすために修行に励むのだ、と巡りの僧はガジに教えた。

「使命、というのは?」

「人は誰しも魂に刻まれた使命を持っている。自身を見つめ、それを果たすことによって、今生こんじょうの魂は磨かれ次の世へと繋がれる。僧になることを選んだ君にはきっと、そうしなければ果たせない使命があったのだよ」


 僧の言葉を聞いたガジは、困ったように胸元にしまった鈴を握った。

(でも、僕はただ、鈴の君に会いたいだけで。……そんな理由で僧になろうとする僕に、一体何ができるんだろうか?)


 僧都に着いたガジは、浮かぶ迷いを振り払うように修行を重ねた。

 時間があれば書物にかじりついて勉強をし、僧院の掃除も、畑や山牛ディーの世話も熱心に行った。渡翼わたりの日に人々から持ち寄られた寄進の麦粉に深い感謝の気持ちを抱き、彼らの善意がカムルランギのいただきまで届くように心を込めて祈りの言葉を唱えた。

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