初秋

川谷パルテノン

習慣

 ようやく夏も鳴りを潜め風が冷たさを帯びる。初秋は彼の命日と重なり、その季節に生まれた彼女の名前にも残されていた。久遠秋は彼女。彼とはその父である。秋は墓前で手を合わせ終えると古い花を手に取りその場を後にした。既に枯れた花を彼女はいつも花瓶に生けて飾った。それはもうどうしても元には戻らないのだが不可逆の花をしばらく捨てれないでいるのはどこかで祈りとなっていた。

 出勤のために自宅を出ると隣家の女性と出くわす。軽く会釈をしてみせるが声は出ない。対して隣人は明るく挨拶を述べた後「いってらっしゃい」と告げる。秋はもう一度だけ頭を下げてその場をやり過ごした。一人で住むには大層な家だった。母親が亡くなった時、秋はまだ六歳でそれからは父親と二人で暮らしてきた実家である。生まれてこのかたここを出たことのない秋に一人暮らしの経験はなかったが計らずとも親元のほうから離れてしまった今日である。引き払って別天地で暮らすことも考えたりはしてみたものの通勤のことや様々な手続きのことを思うと最後は億劫になってそのままになっていた。

 秋の仕事は印刷会社の事務だった。自分でも地味な仕事で特にやり甲斐や面白みといったものを見出してはこなかったが、かといって特に不満もなく五年が過ぎた頃、彼女はこの日二七を迎えていた。父親が逝去して三年、一人で生活し始めてからの二年。これといって大きな波もなく静かな暮らしをしてきた。特に一人になってからの秋の生活は無味なもので同じことの繰り返しだった。仕事が終われば真っ直ぐに帰宅して食事をとれば眠るだけ。テレビは父が亡くなってから一度も点けたことがない。世間のことは職場で誰かが話題にする程度のことしか知らず特に興味もなかった。しかし二七になる誕生日、彼女は成人してから初めて自分でお酒を購入した。缶ビールを机の上に置いてしばらく見つめた。成人式の日に友人と訪れた居酒屋で初めて飲んだアルコールの味を今でも覚えている。口に合わなかった。それに自分は強くないこともわかった。だからこれは気の迷いでもある。たかが生まれた日。彼女は誕生日というものに対しても冷めた思いしかなかった。母が生きていた頃は秋の誕生日が毎年盛大に祝われた。母が亡くなってからそれは途絶える。父の態度には戸惑った。それから二十年も経てば全部が当たり前になっていた。動機は自分でもわからない。ただ目の前にはお酒がある。秋はおそるおそる手を運んだ。指先をプルタブに引っ掛けて起こす。プシュッと音がして溢れ出た泡はそのまま机の上にこぼれた。水道で手を洗い流すと布巾でこぼれたビールを拭き取り再び座り直してからまた向き合う。大きく息を吐いた後ようやく口をつけた。不味い。半分も飲まないうちにラップで封を施し冷蔵庫に戻そうとしたがそこで一旦手を止めて仏壇に供えた。「残りものだけど」そう呟くと彼女は手を合わせた。

 翌朝、また隣人は秋に元気よく挨拶した。秋もまた二度会釈して出勤する。今日の秋は退勤間際に同僚に呼び止められた。入社して五年、初めてのことだった。口数の少ない彼女は同僚にとっても接しづらいもので秋自身も特に交流を望んでいなかった。声をかけてきたのは最近この印刷会社に中途採用で入ったばかりの男性社員だった。

「久遠さん、もし良かったら飲みにいきませんか」

「すみません、用事があって」

「そうですか じゃあ明日とかは」

「明日も」

「明後日は」

「会社休みですけど」

「休みですけど」

 秋はそれ以上何も告げず同僚の前から立ち去った。面倒なことになったと感じる。別に断ったことはなんとも思わない。けれど彼とはまた明日も顔を合わせるわけでなんとなく気まずいといった感情が芽生えた。その日の夜は上手く眠れず、仏壇に供えてあったビールに手を伸ばした。すっかりぬるくなったそれはより一層不味く、果たして飲んでいいものなのかといった疑問はあれど一気に流し込んだ。

 翌朝にはまた隣人が挨拶してきたけれど秋は何の反応も見せずに立ち去ってしまう。出社直後、昨日声をかけてきた男性社員と目が合う。彼は爽やかに笑っていたが秋はなるべく表情に出さないようにするのが精一杯だった。軸がぶれていく感覚があった。父と二人きりで暮らし始めてしばらく経った時から出来るだけ自分を主張しないようにしてきた自分を変化させるのは不安だった。どうにか元通りに戻そうとした自分はここ数年で一番焦っていた。感情を押し込めようとするほどに表に浮かんできた。

「久遠さん」

「なんですか」

「昨日はすみませんでした 不快にさせちゃったかなと思って」

「気にしてません」

「いや、でも」

「気にしてないですッ」

 あたりは一瞬時間が止まったようにひっそりとなった。入社してこのかた久遠秋のこうも大きな声を聞くのは社員一同誰もが初めてだったのだ。よって事態は秋が思うより妙な方向に走り出そうとする。小さな会社である。新人がセクハラを働いただとかそういう下世話な噂が広まりかけたため社長までがこの件に乗り出してきたのだ。秋も流石に男性社員のことが居た堪れず、数日後の朝礼でそういった事実はなく妙な噂を広めるのはやめてほしいと皆に告げた後、彼にも謝罪する羽目になった。それはそれで最悪だと思えた。ともかく秋が釈明したことで会社はまた元の静けさを取り戻し、男性社員に至っても無論なんのお咎めもなかった。

「なんか僕のせいで申し訳ないです」

「気にしてません」

「僕はただ皆さんと早く仲良くなりたかっただけで、とはいえ距離感を間違えてしまいました すみません」

「花村さん」

「なんでしょう」

「仕事に戻ってください」

「はい」

 疲れを感じていた。またお酒を買ってしまった。睨めっこしながら泡をこぼさない方法を考えるうちに花村の顔が浮かんだ。早急に振り払うと秋はプルタブを捻った。今度はこぼれなかった。父親がビールを飲む時はいつも瓶だった。今はもう店を畳んでしまった酒屋が家の近くにあってそこでいつも買って飲んでいた。父親が秋の誕生日よりも母、つまり彼にとっての妻の命日を特別視するようになって、その日は必ず飲んでいた。いつからか秋がそれを注ぐようになって、彼を決して悪い父だったとは思わない。けれど彼がこの世で愛していたのは秋ではなくもういない母だったことに寂しさを覚えた。男手一つで自分を大学にまで行かせてくれた父がまったく自分のことを愛さなかったわけではないことを承知しつつも一番ではないのだという無力感はずっと付き纏った。その父も亡くなって一生父の中の一番になれる機会を失った時、彼女は人生で一番泣いた。複雑な涙である。悔しさのような、寂しさのような。

 翌朝、疲れは増していたがいつもの声が聞こえないことには気がついた。習慣を愛するがゆえにその逆には敏感だった。この時間、彼女は必ず外に出ていた。毎日、それは秋がまだ小学生の頃からずっと欠かさず挨拶してくれた彼女だ。体調でも崩したのだろうかと秋は思った。そこでふとよぎったのは父親のことである。いつもより顔色が悪く、かといってそれまでどうということもなかった父だったのでゆっくり休むようにとだけ言い聞かせて出社してしまったあの日をずっと後悔してきた。家に戻ると父親は静かに眠っていた。食事のために起こそうとしたがもう起きなかった。秋は二度とそんな思いをしたくはないと感じ、隣家の戸を叩いた。返事はない。玄関には鍵がかかっておりどうすることもできない。ただ自分しかいないのだと秋は考えた。何事もなければそれでいい。秋は救急を呼んだ。

 隣人の彼女はなんとか一命をとりとめることになった。秋の読みどおり救急隊員が扉をこじ開けると女性は玄関口に倒れていた。高齢で心臓に病を持っていたとのことである。身寄りもなく助けを呼ぶこともままならず意識を取り戻した彼女はしきりに秋へ感謝を述べた。秋もまた今までの素っ気ない態度を恥じて謝った。「大きくなったね」と握られた手は温かく、なぜか六歳の頃に戻ったように感じた秋は小さな手でこれを握り返した。その日会社を休んだ秋は昼を過ぎてから電車を乗り継いで父母も眠る墓に参った。つい最近も訪れたばかりで供えた花はまだ枯れきってはいなかったが新しいものと取り替えた。いつもより長く手を合わせると静かに呟いた。女性を助けられたのは父のおかげだったかもしれないと思えばこその一言だった。

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