安息
そこから夕食までは全員がまったりとした時間を過ごしていた。
フウとユウキは車の中で大熱唱していたのに到着するなり部屋の探検に身を乗り出したせいか爆睡していた。大きいいびきをかくわけでもなくまるで死人のように眠っていた。
その他の三人はそれにちょっかいをかけることもなく、三人で車やバイクを操り物理的に大丈夫なのかを考えた瞬間に夢が現実に代わるゲームをしていた。うっ、おらっ、という不規則な断末魔や意気込みは寝ている二人にとっては何でもないようだった。
「おんりゃっ、このっ……」
「そこまで体動くことある?」
「動かないと連動しなさそうじゃん」
「無線っていう言葉を知らねえのか?あいつは」
「知ってるよ。俺ワイヤレスのイヤホン使ってるし」
画面から目を離さずに騒がしいハヤミを真ん中にその両脇は静かに小さいコントロールを握って右に回転させたり、左に回転させたりしている。
「でもこれで相当上手いからおかしいよな。ハヤミの場合」
「もっとデカいコントローラーの時代から俺はこのスタイルだ」
「でっかいコントローラーからやってるなら動くことなく出来そうだけどね」
「無理」
「無理なんかい」
大真面目な表情をして体をくねくねと動かす様子がヒナタとハネのツボに刺さりすぎて笑いをこらえながら試合をするため手が震えていた。
「ハヤミお前マジで動くな!俺たちの実力が出ない!」
「俺のスタイルにどうこう言われても対応しかねます」
「元から同じくらいの実力じゃん。それオンラインでやるからじゃん」
有料化してもオンラインで車のゲームをするほど熱狂的に好きというのは知っていたけれど、それでも全員が同等に下手で上手だったから楽しかった。今はハヤミと言う爆弾がものすごい動き方をするもんだから勝ち負けが試合の前から決まっているようなものになってしまっている。
「なんかハンデつけよう」
「俺に?」
「お前以外誰がいるんだよ」
「ガチで動かないって約束してよ。ここまで負けてちゃ男が廃る」
「男の尊厳さえこのゲームは司れるわけだ」
いつの間にか正座していたことに気づく。知らず知らずのうちに払っていた敬意を実感する。
「ハヤミは動いたら彼女に甘いセリフ一回送る。ちょっと体曲げるとかならいい。ダンサーもびっくりのくねり方はもう、だめ。やめろ」
「俺たちの腹筋がバキバキになるか、ハヤミの脊椎が終了するかの実質二択だから」
「結構ガチで嫌なんだけど。セリフ送るとか」
「一緒に考えてやるよ」
思いっきり表情を歪めたハヤミはスマホを恨めしそうに睨む。肩をポンポンと叩くハネはまだ笑いをこらえて、どう転んでも面白い状況に正座からあぐらに足を変えた。ハネのくしゃりとした笑わないようにする顔が今度はヒナタの面白いメーターを破壊した。
「早く、もう一戦。動かないっていう精神統一が出来てるうちにやろう。ってか、俺だけの損なので何か決めよう。勝利した人間に何か商品を与えよう」
「無難にジュース驕りとかでいいんじゃない?母屋の方まで買いに行かせれば」
「何気に地獄なやつ思つくのな、ヒナタは」
「オホホホ、光栄ですわ」
「怖いわ」
かくして始まった男の尊厳、急なキャラクター変更、疲れた体に鞭を打つわけでもない戦いが始まった。いつもに増して断末魔は響き渡り、けれど静止した背中から放たれるそれは見事なまでにアンマッチだった。
一週目のスタートでヒナタのエンジンが爆発し、おとなしそうなヒナタの口から舌打ちが飛び出す。それに驚いたハヤミがハンドル操作を間違え天空のコースから落ちていく。その間にヒナタに追い越され、ハネはさらに先に自分のバイクとキャラクターを進めていた。
「ちょっと待て!」
「待たねーよ。落ちたのはお前の責任だろー」
「青甲羅行ったよ」
「っざけんな、こんな序盤からアリかよ!」
トップを走る者に向かって青色のごつい甲羅が飛んでいく。三位まで上り詰めていたヒナタはその爆発に巻き込まれないように通り過ぎて一位になる。二位だったコンピューターはハヤミにさっさと追い抜かれ、ハネは六位に落ちていた。
「ヒナタ、悪いな……」
「マジか。赤甲羅!」
「おらあ!」
一つ前を走っているユーザーに当たる赤甲羅を二位のハヤミが投げた。必然的に一位を守るヒナタに当たることになる。
「残念だったね!」
「何っ!?」
直前のアイテムのゼリーを通り三つの緑色の甲羅を獲得したヒナタ。二つはさっさと投げ、もう一つは後ろに設置した。必中の赤い甲羅は緑色の甲羅に当たり、相殺される。悔しいが故の声を上げてその声に反応したフウが体を起こす。
何事も起きていないことを瞬時に理解しそのまま枕にしていた二つ折りの座布団に頭を沈めた。
「平和じゃん……」
と呟きながら。
「結局ヒナタの一人勝ちかよ……」
二周目とラストの三周目も目立ったドラマが起こることもなくヒナタが一位を独走して終わった。
「最下位の者、我は炭酸が飲みたいぞ」
「なんでそんなにノリがいいんだよ……へーへー買ってきますよ」
最下位はハネだった。一度リズムが崩れるとそのまま落下を繰り返した。けれどラストでどうにかその負の連鎖を断ち切り四位まで浮上した。ハヤミは二位だった。
「ハヤミは?」
「俺はあ……」
「5……4……3……」
「ひでえひでえ!」
「勝者以外に施すつもりはない。早く決めろ」
「えーじゃあ、フルーツ」
「ぶどうとか、りんごってことか?」
「そうそう。出来ればりんご」
「なかったら熱々ココアでいいと……」
「せめて冷たいのにしてくれるかな!?」
五百円玉と百円玉を一枚ずつ財布から取り出して未だキャッシュレス決済に慣れないハネは離れから出て行った。
「ヒナタがそこまでゲーム強いとは思わなかった」
「ハヤミが動かなくなったからだけどね」
「俺は本調子じゃねえってことだからな」
「あちらが立てばこちらが立たずだね。まさに」
「そうだな」
湯飲みの中に入っている既に冷めて苦味だけが残るお茶を飲み干した。ペットボトルの空きが何本か集められている部屋の角を見る。特に意味はない行動だった。
「ヒナタって他なんかゲームやってる?」
「某島作り」
「あ、マジ?やろうよ。ある?」
「ダウンロード派閥だから持ってるよ。やろうやろう」
「ハネコ持ってたかなあー。なんか、持ってたとしてすごい治安の悪い街をつくりそう」
「偏見が過ぎる」
使っていたのはハヤミのゲーム機。持って来ていた別売りのセットコントローラーをハネは使っていた。
「ヒナタはなんていう島を作ってるの?」
「日本」
「でか」
「嘘。ヒナタノ島だよ」
「名前だ」
「名前だよ」
庭に面している部屋に乱雑に置かれている荷物の山の中からヒナタは自分のカバンを探り当てる。引っ張り出したところで自分は誰のコントローラーを使っていたのかを思い出して振り返る。するとハヤミが声を出さずに笑いながらコントローラーと画面を持っていた。
「言ってよ」
「面白くてつい」
「探してるの馬鹿らしいじゃん」
「面白くてつい」
「オウムかよ」
「オウムかよ」
「オウムじゃん」
「俺、秀逸かよ」
三つのバラバラ死体から、一つの人間に逆戻りさせたゲーム機をハヤミはヒナタに渡した。
白熱したゲームの戦いに敗れたハネは離れを出て綺麗な花が見える渡り廊下を歩いていた。ヒナタとハヤミが風呂に行ってから戻って来た際に話していた誰もいない気配がする、という矛盾をまさに今感じていた。
「ほんっと、誰もいねーのな」
多少の怖さをかき消したいがために呟く。いっそのこと目の前に現れてくれた方が楽だ。明確に怖がる対象がないこともより一層の恐怖の根源となってしまう。お化け屋敷もふざけて見せられるホラー映画や、その耐久合宿なども真顔でやり通せるハネだけれど実際に起こるとなると全く話が変わってくる。
無駄に長い離れと母屋を繋ぐ渡り廊下で肌で覚えた違和感が母屋に入ったらどうなるのか。ハヤミを引っ張ってでも連れてくればよかった。なんて思うほど。
「ハッ、馬鹿らしい」
顔を上げてみた。遠くの方に山が見える。内陸の方だから海が見えることはない。東京とは違う開放感あふれる空間でマイナスイオンを鼻から体の中に出来る限り巡らせていく。
普段から写真を撮ることが少ないハネがまだオレンジ色には染まらない空を。感性が死んだ現代人になりかけている若造から見たら東京と何も変わらないと思ってしまう空を写真に撮った。綺麗だと思った。それ以外の言葉で表せばなんだか不敬罪にでもなってしまう気がして。写真にしてしまえば透明感は一気に消え、それこそどこでシャッターを切ったとしても同じに見える。
映さなければいけない。
使命感だった。尻のポケットに入っているスマホを取り出してから、山と太陽を重ね合わせる。画面を通して生気が失われた太陽と、激しいまでの色味を持つ緑を。切り抜いても現実世界が黒塗りになることもない。戦時中の教科書みたいな。戦時中の野球を漫画に起こしたみたいになるわけでもない空間を映す。その動作は川が流れるようだった。
バシャン
しゃぼん玉が弾けた。
風船に針を刺した。
炭酸をなみなみと注いだ時のコップの上の方。
張りつめているものがプツンと途切れた。
水を叩いた。
そんな音がした。音が鳴るとしたら渡り廊下の柱が立っている水の方。柵から身を乗り出しても水の波紋も、音を鳴らした人もいなかった。何かが落ちたんだろう。そう思うことにして雲に隠れた太陽に気づかず、いつの間にか自分の影が薄くなっていることにも気づかないで母屋に向かって足を速めた。
「ヒナタが炭酸、ハヤミがあればりんご。ついでだし、俺も……」
誰に聞かせるためでもなく。返事を求めるのでもなく。言葉を呟きながら進んでいく。
「不気味なくらい、人がいない宿」
ホラー小説のサブタイトルにありそう、と笑う。そうでもしないと足を止めて、一気に離れに戻ってしまいそうだった。
感じた異様さは全て気のせいだ。水の音も自分の勘違い。脳が目を覚ますために鳴らした警報音のようなもの。思い込みの効果でオーバーサイズの服が跳ねる歩き方で自販機までたどり着いた。
小銭を入れてレモン味の炭酸の飲料を買う。冷たいそれを脇に挟みながら、ハヤミのリクエスト。りんごジュースがあったのでそれも購入。自分は何にしようか、悩みそうだったので近くにあった椅子に二本の飲み物を置いた。
「あ、フルーツティーにしよう」
柔らかいペットボトルの中に入ったレモンティーと色はほぼ一緒の飲み物を受け取り口から引っ張り出す。椅子の上の二つも持ち上げた。
「え、この椅子どこにあった?」
窓口がないのは入って来た時に高級な宿だからだと不思議に思うことなくすんなり受け入れた。一切の家庭的な要素を感じることがなかったことも印象に残っていた。
どこにでもありそうな。けれどアンティーク調な椅子は記憶の限りどこにもなかった。何かを待つ人が座るための椅子は長椅子が二脚置かれていた。しかし完全に木で作られた椅子が置かれているのは舐めるように見回した自信があるハネでも見ていなかった。
自販機で何にしようかを悩んでいる時に人が近寄ってくる気配に気づきづらいことは人生踏まえても経験があった。椅子を置かれるという盛大な干渉には気づける自信があった。
「マジかよ……」
冷や汗をかいていた。日本家屋は空気の通りがいいとよく聞くがそれとは違う次元の歌で通しの良さを汗が冷えることで感じていた。シースルー素材の上着がはためいていた。
ほぼ走るようにして離れに帰った。
「おーおかえりー、さんきゅーな」
「ありがとー。あ、これ好きだわー」
「ハネコ?どうしたの?めっちゃ顔色やばいよ」
「は、走って来たからじゃね?」
息を切らすほど走っていた。途中、自分の買ったフルーツティーを落とした時にはすごい勢いで追い越した分を戻って拾った。追われている気がしたわけではなく、何もないことを実感するために離れに戻りたかった。
惨殺死体が転がっているなんていうありもしない想像が現実になっていることもなくハヤミとヒナタは同じような姿勢で壁に寄りかかってゲームをしていた。フウとユウキは寝返りを打ったであろう場所で寝息を立てていた。
「何、お化けでも見たん?」
「違うわ。でもそういう雰囲気感じる」
「やっぱー?俺も風呂場でちょっと思ったんよー」
「いたの?」
「いや、ヒナタが露天風呂にいる時に傍に誰か立ってたんだけどヒナタに誰と話してたのか聞いても話してないし、いないって言うから」
顔を上げずに衝撃的なことをハヤミは口に出す。深くは気にしない。『そういう場所』に来ているのだから『そういうこと』も起こるだろう、くらいの認識だった。何なら求めていたこと、予想しているようなことが起きているのだから旅として素晴らしい成績とまで思っていた。
「よく考えたらさ、その人服着てたしちょっと女の人っぽかったんだよね。あり得ないよね。男湯だよな、ってちょっと思ったし」
「心霊現象じゃねえか……」
「そうねー、何?追っかけられた?」
「別に。それはないけど、水の音がしてでも、誰もいなかったし、落ちたもの?みたいなのもなかった」
「そんなこともあるある」
「ハヤミ?ないないだよ」
子供に言い聞かせるヒナタのいつも通りのツッコミに安心する。二人がしているゲームを覗いて持っていないカセットと分かってからスマホのゲームを始めた。
そういえば、と思って行き渡り廊下を優雅に歩いていた時に取った写真を確認した。何か異常がないかと調べるために。
「何もない」
指でレンズを押さえていたのか何も映っていない写真が保存されていた。容量の無駄、とゴミ箱へ葬り去った。そこからバッテリーが七十二パーセントから六十三パーセントになるまで。九パーセント分ゲームや動画を徘徊していた。
夕食を用意する、と言われていた時間になってリビングの扉がノックされた。はーい、と返事をして開いたふすまの奥には到着時に説明をしてくれた人とは別の人が待ち構えていた。
「失礼いたします。ご夕食の準備をしてもよろしいでしょうか」
「あ、お願いします」
答えたヒナタとまだ寝ているフウと起きて顔を洗ってすっきした顔をしているユウキ。起き上がってスマホを見て小さい声で礼をするハネ、ミニゲームに集中していたハヤミ。ハヤミはもう別のゲームに移っていた。
ゲームをすぐさま中断したヒナタが机の上を片付ける。
「ありがとうございます。最初のお飲み物の方選んでいただけますか?」
「あ、分かりました。ユウキ、フウ起こして」
「りょうかあーい」
「ハネコもちょっと来てー」
「んー」
「ごめんごめん。ありがと。車運転するし、酒はだめだよなー」
運転しないヒナタは平気で飲もうとしていたらしい。
「みんなに合わせて飲まないけど」
「すいません、ノンアルってあります?」
「ございます」
「じゃあ俺それにしようかな。フウ、起きないとお前だけベロンベロンに酔わせてここで待機にさせるぞ」
「あ、僕はコーラでお願いします」
「俺も」
「じゃあコーラ二つ」
「かしこまりました」
無視する能力に長けているハヤミとヒナタが注文を済ませる。ユウキにドリンクのメニュー表を渡す。まだ目が開いていないフウとそれを眺める。
「俺は、オレンジジュースお願いします」
「特製梅ジュース…」
「梅ジュース一つお願いします」
「かしこまりました」
もう一人やって来ていた到着時にいたか分からない別の人に書いた紙を渡す。お辞儀を忘れることなく部屋から出て行き、母屋と繋がるドアの前の軋む床を踏んだ音がした。
「では、ご夕食の準備をさせていただきます」
五人分のランチョンマット竹バージョンが置かれて、ベトナムでは作られていないだろう箸が繊細なデザインの箸置きと共に設置される。お品書きが書かれた紙が並べられる。近くの横に長い長方形の紙をハネとヒナタが覗き込む。
「アワビだって。三重ってアワビ有名だっけ」
「そうだな。アワビより伊勢エビのイメージあるわ。伊勢だし」
「山の中なのに意外かも」
「ここは内陸なんですが交通の便がよろしんですよ。トンネルで山の中を通れば一番近くの港から冷凍保存せずに、低温のまま、新鮮な状態を保って運べるんです。山の中ですが美味しい海の幸が食べられるんです」
「へえー、そうなんですね。山なのに海のものだ!ってちょっとびっくりしてました」
「あははー、そうですよね!」
何となくどう返事をしたらいいのか分からない会話が終わり、お品書きを最後まで見てから腰を下ろした。
最初の料理が並べ終わった。
コンソメスープ(冷)はごろごろと野菜が入っていた。小ぶりなトマトが綺麗な皮を剥かれた状態で鎮座していた。
長方形の皿には鶏と書かれている何を施したのか分からない一口サイズの何か。その隣には季節の野菜を和えたもの。細長い野菜が混ぜ合わされていた。鮭のような形、色をした鮭の小さめの南蛮漬け。酢の香りがする酒の絵の優しに食欲が刺激される。小さい切子の芸術センスが美しい器の中には冷や汁が入っていた。鯉の押し寿司が最も左の席を飾っていた。
お品書きを見た一般人は鯉って食べれるのか、と餌やりが出来る今まで見てきた鯉たちの認識がどんどん変化していった。そしてこれからは観賞用ではなく、食用にもなる鯉として見る人生を歩むことが決まった。
「多分だけど俺たち変なこと考えてるよねー」
「鯉って、食えるんだ」
「まあ魚だし」
「ユウキまだ寝ぼけてんの?」
「観光地にうじゃうじゃいるあの魚たちに毒があると!?」
納得せざるを得ない反撃に負けたふりをして常識を超えてきた料理に敬意を払い食事を始めた。
「待て!」
「何?どうした?」
「乾杯をしよう」
ユウキの発案に賛成多数でグラスを掲げた。
「肝試し楽しみっすね、かんぱーい!」
「音頭終わってるだろ!」
グラスを鳴らして喉が潤ったところで一斉に手を伸ばし始めた。
「いただきまーす」
「うっまー!」
「なにこれ!鯉美味!」
「まだ引きずるのかよ」
「トマト苦手だったけどこれめっちゃ食える」
「トマト苦手って地球人なのかよ」
「ひっろ」
トマト全肯定派のハネと隣り合って座っているのはハヤミ。トマト苦手全日本選手権代表の選手だった。大学生にもなり
友達との旅行で残すわけにもいかない、と覆いきって口に入れたトマトの味にいつもの抵抗感がなかった。コンソメスープも一役買っていた。
「鯉がマジで美味い」
「鯉と知らなければ全然魚」
「何言ってんの?」
「ヒナタくんが冷たい!」
「そうかいそうかい」
全員が長方形の前菜を食べ終わり、座椅子の背もたれに寄りかかったところで再びふすまがノックされた。
「失礼いたします。次のお料理をご用意させていただきます」
テキパキと片付けられた皿の代わりの新しく置かれていく小皿たち。
季節の寿司五貫はアジ、マグロの赤身、ブリ、スズキ、赤いか。白身魚が多いがたんぽぽでは終わらない華々しい飾りつけで魚の色合いがより引き立てられていた。アワビで出汁を取った茶碗蒸しが全員の期待をくすぐっていた。早く蓋を開けたくなる名前と、すでに漂う熱気の中の海の香り。大きな汁物用の器は牡蠣のお吸い物。文字だけで高級さ、気品の高さがあふれ出る料理に期待は高まるばかり。
「お楽しみくださいませ。お飲み物はすぐにお持ち致します」
ふすまが閉じられた瞬間にお吸い物と茶碗蒸しの蓋を開けた。
「いや、もう生きててよかった……」
「そこまで?大げさだなー」
大きく反応するヒナタを見て、そう言いながらハヤミが一口茶碗蒸しを口に含んだ。
「生きててよかったわ……」
「完璧な流れ作ってんじゃねえよ。生きててよかったって大げさすぎるだろ……」
流れを否定するノリと思いきやハネが同じく茶碗蒸しを食べる。
「生きててよかった……」
流れやノリ関係なく茶碗蒸しが美味しすぎるあまり走馬灯として駆け巡る今までの辛かったこと苦しかったことが浄化されていく気がした。その感覚に浸りながら運ばれてきたノンアルコールビールを注ぎ飲み干すハネとユウキ。特性梅ジュースの味をしめたフウは同じものを頼み、今度は炭酸で割ったものを飲み干す。ハヤミはジンジャーエール。ヒナタは同じくコーラを喉に流し込んで爽快を得た。
「ここで落ち着いちゃあ、だめなんよ。まだイベントは残ってるんよ」
「分かってる分かってる。でも今はノンアルで酔わせろー!」
「こりゃあ長い夜になるなあー」
コーラで酔ったかと疑われたヒナタだった。
牡蠣のお吸い物は海のミルクと白出汁の透明さが美しい以外に形容できないほど。それが口の中で合わさり、喉を通っていく様はまさに芸術作品の完成を目の前で見学してるかのよう。
その後やって来たアワビのステーキは思わずご飯が欲しくなるバターと醤油という間違いがない味で、寿司を食べたことも忘れて茶碗一杯よりも少ないご飯で飲むようにして食べた。
最後は伊勢海老のしゃぶしゃぶだった。ラストに入った時点で普段よりも食べていることは確かだったのに用意されている瞬間に一瞬たりとも満腹のあまり苦しいと思わなかったのはまだ食べたいという欲が満腹中枢を麻痺させていたのかもしれない。
「こちらのお刺身は醤油でそのままお食べになっても、目安三十秒弱しゃぶしゃぶしてから食べてもお好きなようにしてください。こちらの大きいビンがポン酢となっております。お野菜も固め柔らかめ、ご自身のお好きなタイミングで取ってお食べになってください。締めの雑炊の際は具材が残っていても、全部食べてからでも大丈夫です。残りのお野菜は足りなくなったな、というタイミングでいれてください。では、失礼します」
煮えるまでに伊勢海老を煮えたぎる出汁の中につけた。ポン酢に軽くつけて口の中に放り込むと冷たいポン酢に冷やされた海老の身が引き締まって味が凝縮されて旨味でこれでもかというくらい口の中を殴っていた。
この美味に酒がないことはなんとも惜しまれたことだが本来の目的を全員は忘れなかった。酒がなかったことも理由だったが、怖いもの見たさという言葉が生まれるくらい人間の本能の中にある衝動を忘れなかったからでもあった。
締めの雑炊も海老の刺身を残しているものは貴族、余すことなく食べてしまったものは貧民。そんな構図が完成しつつある中海老の風味が残る雑炊に垂らされた卵はまるで宝石のようだった。
夏の果実が盛り合わせで最後を締めた。皿の端に盛られているアイス。まだ熱を持つ口の中を冷やしてくれた。
全ての食事が運び終わり、食べ終えた。そして満腹になった。そして急にこれ以上は食べられないと胃が限界を訴え始めた。極限の集中状態ゾーンが終わったようだった。
「もう俺、これでいい……」
「分かる……」
「ヒナタとフウがやる気ないってー!しばき回せー!」
「やめてやめてー!出るっ!マジで出るって!」
「フウ」
「救世主ミヤ……助けて、くれ……」
「トイレあっちな」
「俺に人権は存在しないのか?」
一足先に枕投げ大会ならぬ座布団投げ大会が勃発した。ほこりが舞うから、と隣の部屋に移動するだけの理性はあった。
「俺のリサイタルだー!」
「おー!待ってましたー!」
「ジュースで酔えるのかよ!」
ギターを手にしたハヤミが弾くけれどただ弦を弾いているだけ。コードも何もかも形に捕らわれない新しい音楽が誕生していた。ツボがおかしくなっている五人は笑うあまり吐きそうになっていた。
残すイベントは肝試し。そして枕投げ世界選手権本番。
食休みの後はホラーが待ち受けている。
【続く】
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