第24話:渇きを満たす存在を、我が手に
「こっちだ、エル!」
「うんっ!」
エルマードの強さが理解できてからは、もはや恐れるものなどなかった。彼女の鋭敏な聴覚は、通路の先の兵士の存在を感知する。
相変わらずの「あおおおんっ!」の雄叫びは、奇襲には不向きだがその声が兵士を威圧すると分かってからは、それほど心配でなくなった。
とはいっても、彼女は体のあちこちから血を流している。床に血の跡が残るくらいに。──無茶をさせるわけにはいかない。
「エル! 無闇に前に出るな! お前は強いかもしれないが、不死身じゃないんだろう!」
「だいじょうぶだよ! ボク、強いもん! ご主人さまが喜んでくれるなら、ボク、なんだってできるよ!」
「だったらなおさらだ! 俺のためにも前に出過ぎるな!」
「だいじょうぶだってば! ご主人さまを危ない目に遭わせるくらいなら、ボクがみんなやっつけちゃうから!」
そう言って耳を動かしたエルマードが、「ボク、先に行くね!」と一気に壁を蹴りながら、曲がり角の向こうに身を躍らせる!
「待て、エル!」
しかし、その声が届いたかどうか。
廊下の向こうから響いてくる叫び声。
『撃て、撃て──ッ!』
「当たらないもん!」
立て続けに響く金切り声のような発法音!
この音──俺は背中に冷たい衝撃が走ったのを感じた。
ブレン
「エルっ!」
矢も盾もたまらず彼女の元に駆けつけようとした時、彼女の咆哮が聞こえたと思ったら、王国兵たちの悲鳴や発法音、何かが叩きつけられてへしゃげるような音!
「エル、エル────っ!」
曲がり角を曲がったその先。
床や天井に飛び散る赤いもの。
「え──エル! お前……!」
「えへへ……ご主人さま、ほら、あっち……出口……」
積み上げられた土嚢の向こう、へしゃげた三脚の上に乗っているのは、ブレン
そして、
何も言えなかった。
駆け寄り、手を取り、抱きしめる。
「エル……!」
「だ、だめだよ、ボク、怪我してるから……。汚れちゃうよ、ご主人さま……」
そう言って身をよじるエルマードを抱きしめる腕に力を込める。
その背のふかふかの毛をぬるりと濡らす、熱い血潮。
──ああ! 本当なら、こんな怪我など負うことはなかっただろう!
彼女が先行したのは、きっとこの装備を察知したからなのだ!
「……エル、よくやった! お前は本当にすごいやつだ! ……すぐ脱出する、走れるか?」
「うん……。だいじょうぶ、ボク、がんばる」
さすがにもう、先ほど余裕はなさそうな様子だが、走るしかない。出口は目の前、悠長に考える時ではない!
本当はロストリンクスたちの安否を確認せねばならないところだろうが、むしろ俺たちが脱出しそびれていたのだ。撤退支援に待機しているはずのフラウヘルトたちだって、いるかどうか分からない。自分たちの力だけで脱出するしかないと考えた方がいい。
「エル、こいつを外せるか?」
「待ってて? ……はい、どうぞ」
エルマードが、破壊された三脚をねじり上げてブレンを取り外す。エルマードを傷つけた憎い
なにせ、丈夫で知られるこの
忍び込んだ際に使った塔の、崩れた穴。そこの壁の端に
その放棄される城から今回、俺たちは重要な資料を盗み出すことに成功した。ざまあみろ、というやつだ。
「エル、急がなくていい。ゆっくり……」
降りてこい──そう言おうとして、俺は慌ててザイルの下に入る。血でぬめったザイルが滑ったのだろうか、彼女がバランスを崩したと思ったら、そのまま一気に落下してきたのだ。
どさっ、と腕にものすごい衝撃が走る。「きゃっ……!」と可愛らしい悲鳴をあげ、俺の腕の中に小さく収まるエルマード。一階分程度の高さだったとはいえ、獣化して身長は俺と同じくらい、そのうえ筋肉質になった彼女の重みと衝撃に、もう少しで腰を痛めるところだった。
「ご、ごめん、なさい……!」
「いい。行くぞ!」
「うん……!」
すぐさまその場を離れようとした時だった。
発法音とほぼ同時に、地面がえぐれる!
「エル、隠れろ!」
叫んですぐさま、城壁の陰に飛び込む。数発がさらに隠れた先の石壁をえぐるのを感じながら、俺は素早く応射! 様子をうかがうと、そこにいたのは──
「またしても貴様か……。今度はこそこそとネズミの真似か?」
──忘れもしない、赤い軍服姿の、あの男……!
「ライヴァ……ライヴァ・デ・リアジュート!」
「ネズミに名を呼ばれるのは不快極まることだ」
奴は、流暢なネーベルラント語で答える。
まさかここで出会うことになるとは思わなかった。周囲に護衛の王国兵が数人いるようだが、この好機を黙って見逃す俺でもない! 素早く
「無駄だ。だが、貴様にはこの傷という貸しがあったな……!」
奴は、右目の周りの傷痕を指差した。
以前、駅で遭遇したとき、俺をなぶりものにしている最中に
……ざまあみろだ!
「貸しだと? お前こそ俺にたっぷり貸し付けやがって! 今返してやる!」
二発、三発──立て続けに射撃するが、奴がマントで大きく払った瞬間、青い火花が散る。
チッ、やはり法術による防御陣を展開しているのか。あの時と同じように……!
「ご主人さま! これ!」
エルマードが背中に背負っていたものを渡してくる! いいぞエル、阿吽の呼吸というやつだな!
「お前に貸しつけられた分、利子付きで返してやる! 受け取れ!」
ガガガガッ──!
王国兵たちの悲鳴!
だが、肝心のライヴァの奴は、傲然と言い放つ。
「無駄だと言っただろう」
「無駄かどうかは──!」
弾倉の中身が空になったのを受けて、エルマードが素早く予備弾倉を渡してくる。ああ、女房役とはこういう奴だ!
「でも、ご主人さま……あの人には勝てないよ!」
「勝てない? エル、それはどういう意味なんだ」
「ボクだって、元気いっぱいの時でも難しいもん」
首を振りながら答えたエルマードに、俺は息を呑む。
あの、壁や天井を蹴りながら、
「あの人は特別なの。ボクと──」
その瞬間、俺のふくらはぎと脇腹を貫く灼熱の一撃!
「ご、ご主人さまっ⁉」
エルマードの悲鳴に応えず、俺は必死でさらに壁に身を隠す。
──クソッ、ぬかった! 敵はライヴァの野郎だけじゃない、その部下たちだっている……!
この角度──俺がライヴァに牽制射撃をしている間に、奴の部下が回り込んだか!
「ご主人さま、このままじゃ──!」
「ああ、分かってる!」
俺は、貴重な資料を詰め込んだ背嚢をその場に下ろす。「……ご主人さま?」と不安げな言葉を漏らしたエルマードに「こいつを頼んだぞ」と言うと、先ほど制圧した陣地で拾った手榴弾のピンを抜いた。城壁から身を乗り出すと王国兵がいそうな方向めがけて、目いっぱいぶん投げる!
──カン!
石壁から身を乗り出した瞬間を狙われたかのようにヘルメットが弾に弾かれ、その衝撃に一瞬意識が持って行かれそうになる──が、自分の体を無理矢理倒すようにしてもう一発投げ、その場に伏せる!
「ご主人さまっ⁉」
「伏せろ!」
叫んだ瞬間、手榴弾が炸裂!
王国兵どもの悲鳴が上がったところで、続いてもう一発が炸裂!
舞い上がった土埃の中、俺はブレンを構えた。
「ご主人さま、だめっ!」
突撃しようという俺の意図を察したのか、エルマードが悲鳴を上げ、身を乗り出した瞬間だった。
重い連続する発法音と共に、エルマードの体が、その場にくずおれる……!
その向こうに、排莢をして次弾を撃とうとしている兵の姿!
「ちくしょう! やりやがったな!」
腰だめにブレンをぶっ放すと、エルマードを撃ったと思われる兵が悲鳴を上げて倒れる。
──エル、お前が……だと⁉
地面に倒れているエルマードは、動かない。
続いて体に食い込む、焼けつくような痛み!
たまらず地面に膝をつく。
──畜生! ……ちくしょう!
「ちくしょう! 貴様ら、何度俺から奪ったら……!」
遠い──あまりにも遠い。
奴までの距離が、あまりにも……!
ブレンを引きずりながら、俺は必死に立ち上がった。
太ももに食い込む衝撃に、耐える。
……まただ!
ミルティを失い、今また、エルまでも!
くそっ……くそっ! くそぉおおおっ!
せめて、せめて奴に、
「……貴様、なぜ立ち上がる! なぜ立ち上がれるのだ!」
「てめえに、返す、借りが、たっぷり、あるから、に……決まってるだろう!」
「この……死にぞこないめが!」
奴が構えた
──ああ、もう、俺は……。
そう思った瞬間だった。
続く発法音の直後、キイイイイン──奴の
「くっ──しまった、弾切れか!」
奴の狼狽する声──この好機、逃すものか!
「ネズミの最期の噛みつきの、その痛みを思い知れ!」
「……こざかしい真似を!」
これが最期──奴に鉛玉をぶち込むために歯を食いしばり、腰だめにしたブレン
体から急激に力が吸い取られるような、恐ろしい感覚。
それと同時に、矛盾するような、体の芯から湧き上がってくるような衝動。
脳裏でチカチカと星が瞬くような感覚と、恐ろしいほどの脱力感と、そして暴力的とすら言える恍惚感を伴う、果てのない衝動的な解放感──!
力が入らないのに、体の芯から湧き上がってくる何かのせいで
──走れる!
あれほどの弾を食らいながら、
『く、来るな! 貴様、いったい──⁉』
奴の取り乱す王国語に、俺は奇妙な征服感を覚えた。今まで奴は、ネーベルラント語で話していた。それだけ奴に、余裕がなくなったということだ。
ブレンが軽い。
それを軽々と構えて突撃し、乱射する。
……血を流しすぎたか? 俺もいよいよ幻覚を見始めたのか。
奴の前に展開されていた法術による防御陣の青い光の壁が、派手に粉砕され粉々に飛び散り、
それが妙にゆっくりに感じられ、気が付いたら俺は、弾が切れたブレンを抱えて奴の前にいた。
『貴様……まさか、本当に覚醒したと……』
最後まで言わせなかった。
『ぬんっ!』
すんでのところで、奴はその一撃を
くそっ、この死にぞこないめ!
「クソ野郎がっ!」
『おのれ、化け物め!』
「化け物はどっちだ……人間の心があったら、女たちにあんなことができるかよ!」
『撃たれても死なぬ貴様といい、そこの化け狼といい、化け物以外に何と呼べばいいというのだ、この化け物どもめ!』
「また……言いやがったな!」
渾身の力を込めてもう一度殴りつけると、それを受け止めた奴の
冗談みたいな光景だった。
頑丈な樫の木でできた
殴られた人間が、宙に浮いて、吹き飛ぶ……?
しかも、そうしたのが、……俺?
人間が地面を
その瞬間だった。
『ライヴァ様をお助けしろ!』
『この化け物どもめ!』
王国兵どもが殺到して来る。
体を貫く、灼熱の弾丸──
──化け物、
思わずよろけたその視界のすみに、血にまみれて倒れる、金色の毛皮に包まれた奴の姿が入ってきた。
……ああ、エル!
エル──エル‼
その瞬間、俺は弾かれたように、
倒れているエルマードの体を抱え上げて背嚢をひっつかみ、力の限り走り続ける。
王国兵どもの『追え!』という叫び声も、すぐに耳に届かなくなるくらいに。
何を血迷っていたのだ、俺は。
俺は資料を手に入れるために潜入したのだ。
奴をぶっ飛ばすためじゃない。
それよりも、俺はつかんだのだ。
あんな木っ端騎士などよりも、明確にぶっ飛ばすべき奴らのしっぽを。
それに──血が高ぶる。
かつてないほどに、俺は今、彼女を求めていた。
もはや撃たれた痛みなど、どこにもなかった。
その衝動は、あまりにも強かった。
恐ろしいほどの渇きを満たす存在を、我が手に掴んだ──。
俺はこれまでに感じたこともないほど、例えようもないギラギラとした高揚をたぎらせていた。
自分が自分でなくなったような衝動に駆られ、俺は森を走り続けた。
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