第21話:とんでもない底無し沼に、足を

「……あまり、見ないで? ボクも、変だって思ってるから……」


 すこし、息が吹き抜けるような不思議な発音。だが、人とは違う口の形なのだから、仕方がないのだろう。それでも、その声から、目の前の、ふかふかの毛におおわれた金色の犬属人ドーグリングとおぼしき獣人が、エルマードだと分かる。


 姿を変える前に衣服を全て脱いだ理由も察することができた。理由は単純で、大きくなる体に、服が合わなくなるからだろう。


 エルマードはもともと、俺より頭一つ分くらい小柄で、華奢な少女だった。だが獣人の姿になると、俺と同じくらいの身長になったうえに、体つきも筋肉質になったのだ。今はふかふかの毛皮で覆われていて分かりにくいが、変身の過程において、細い体がみるみるうちにたくましくなっていったから間違いない。

 

「あ、あの、……ボクもいちおう、その……女の子だから……」


 エルマードが、恥じらうようにうつむいた。


「あんまり、その……じろじろ見ないでくれると、うれしいかな……?」


 言われて初めて、俺は彼女を無遠慮に凝視していたことに気づく。しまった、女性に対して失礼だった!


「だ、だいじょうぶだよ? ぼ、ボク、アインになら、見られたって……ううん、アインになら、見られたいもん! だ、だってつがいになったら、……は、はだかでお互い、見せ合っこ、する……はずだもん、ね?」


 言いながら、どんどん顔が赤くなってきているのが見て取れる。淡い金色の毛でおおわれているはずなのにだ。間違いなく、夕日のせいだけじゃない。


「……だからその……。えっと、ボクもそのうち、慣れてみせるから、その……今はまだ……」


 待て。違う。頼むから先走るな。

 何やら勘違いをしているらしいエルマードに、俺は自分の上着を脱いでかぶせた。


「んう?」


 不思議そうに首をかしげるエルマード。ほぼ犬の顔になっても、こういう仕草はいかにも彼女らしい。


「アイン、ボク、別に寒いわけじゃ……」

「犬は黙って主人に従え」


 俺の目に毒だから、とはあえて言わない。するとエルマードが、目を険しくした。


「ぼ、ボク、犬じゃないもん! 狼だよ、狼!」

「狼も黙って主人に従え」

「アイン、ボクは……!」


 なおも何かを言いかけたエルマードだったが、何かに気づいたようにぽかんと口を開けた。ずらりと並んだ鋭い歯。ああ、やはり彼女は人ではない──そう思ったら、エルマードは口を閉じ、そして上目遣いに俺を見上げ、そして、微笑んだ。


 狼──そう自称する彼女の、獣の顔が、確かに微笑みを浮かべたのだ。

 その表情の意味が理解できた瞬間、エルマードが飛びついてきた。

 筋肉質ながらしなやかな腕の感触、ふかふかの毛皮、そして、ヒトの姿の時とは全く違うふくよかな胸の感触。


 ……その、色々な意味での衝撃に、俺は頭の中が一時的に真っ白になっていて、気が付いたらしりもちをついていた。エルマードが俺の上にまたがっていて、嬉しそうに顔をこすりつけてくる。


「えへへ、アイン。『主人に従え』だなんて、うれしい……!」

「え、エル……?」


 適当に流すつもりで言った言葉に強く反応されて戸惑う俺に、エルマードはふんふんと俺の胸元で鼻を鳴らしはじめた。脇、首、そして耳の後ろ当たりへと、やたらとにおいをかぎはじめる。……いや、そんなににおうか?


「アインは、ボクの『ご主人さま』なんだね? ボク、やっとアインのものになれたんだね?」


 ぶんぶんとしっぽを振りながらすんすんとにおいをかぎ続けるエルマードに、俺は自分が何の気なしに言ってしまった言葉の、その重大性に気づかされた。


「んん~……。アインの……ご主人のにおい……! ボク、ずっとずっと、こうしたかったの」


 とろんと蕩けた流し目で見つめられ、耳元で熱い吐息を感じさせられ、なによりしなやかな指でしがみつかれて豊かな胸を押しつけられては、ずっと男所帯で暮らしていた俺には刺激が強すぎた。


「えへへ……うれしい、ご主人さま、ボクで興奮してくれてるの? ……ボク、知ってるよ? 男の人って、女の人で興奮すると、こう・・なる・・んだよね?」

「……ただの生理現象だ。エル、いつまでもこんなことをしているんじゃない。お前が俺に正体を晒したのは、このためではないだろう?」


 俺は、ミルティを始め女性からひととしての尊厳を奪った「ゲベアー計画」をぶっ潰す、という名目で、ミルティを奪ったクソ野郎どもへの復讐をするためにここに来たのだ──そう自分に言い聞かせて、目の前でぶどうの房のように豊かに揺れる胸から目を引き剥がし、理性を引っ張り起こす。


「ボク、それでもよかったよ?」

「……よくない。そこにさわるな。なでるな。……頼むからにおいなんてかぐな! それよりも、お前の言う『強さ』というのはその体のことだったんだな?」


 彼女の体に反応してしまった自分の見境の無さを一部認めつつ、俺は彼女を押しのけて立ち上がる。

 エルマードはゆかにぺたんと座ったまま、俺を見上げた。


 ──感情のみえない目で。


「どうした?」

「……ううん、なんでもないの。やっぱりご主人さまは、ボクのご主人さまなんだなあって。ボクのことを、支配する人なんだなあって」


 その奇妙な視線は一瞬で終わり、いつもの目に戻った彼女は、にっこりと微笑んだ。犬のような顔になってしまったエルマードだが、やはり目から感情が伝わってくるのは変わらない。


 だが、それよりもだ。


「おい、俺がお前を『支配する人』とはどういう意味だ」

「そのままの意味だよ、ご主人さま。どうして?」


 不思議そうに聞き返され、俺はこめかみを押さえる。こいつのペースに乗せられていたら、いつまでも話が終わらない。


「……わかった。それはもういい。だが、『ご主人さま』ってのをやめろ。俺はお前とそういう関係になったわけじゃない」

「だって、さっき、『主人に従え』って言ってくれたもん。あの瞬間から、ご主人さまはボクのご主人さまだよ?」

「……仮にそうだとしてもだ。俺のことはアインと呼べ」

「じゃあ、『だんなさま』で」

「……アインと呼べと言っただろう」

「しょうがないなぁ……。いいよ。じゃあ、アインさま」


 「さま」自体そもそもいらないが、これ以上くだらない問答をしていても時間の無駄だ。彼女がそれで納得するなら、それで妥協することにしよう。


「えへへ、うれしいなあ。アインさまをボクのご主人さまとして、これからもずっとずっと、──あなたのおそばで、お仕えしますね」

「分かった分かった」


 適当に、その大きな三角の耳ごと頭をくしゃくしゃしてやる。いつもならこれで、嫌がってみせるからだ。これで頭を冷やさせよう──そう思ったのだが、エルマードはうれしそうに目を細めて俺を見上げるだけで、『もう!』の一言もない。


「……エル?」

「えへへ……髪をなでてもらえるのは、女にとって、お仕えする相手が決まったってことだから」


 確かに、物心ついてからの女性の髪には、触れないというのがマナーだ。万が一、妻や恋人がいる女性の髪を触ってしまおうものなら、相手の男の受け取り方によっては決闘案件にすらなりうるくらいに。

 男が、妻や恋人以外の女性の髪に触れるというのは、それくらいの覚悟が必要となる、常識中の常識という禁忌。


 ……いや、それは分かってはいたんだが、なにせ相手はエルマードだ。弟分の気分で頭をぐりぐりやっていた気分が抜けきっていなかったのだ。


 立ち上がった彼女が、嬉しそうに頬を舐めてくる。


「ご主人さまが髪をなでてくれて、ご主人さまが口をつけたものを分けてくれて。ひと晩、ベッドも共にしたし、昨夜だってひとつところで共に過ごしたよね? だからボクとご主人さまは、もう夫婦めおとだよね」


 待て。

 ほんとにちょっと待て。

 なんでそうなる、と言いかけて、すぐに分かった。


 女性との婚約には、めあわせの儀と呼ばれる三つの儀式「ちぎり固め」がある。


 一つ、くし流し。

 男が女の髪をなでる。正しくは、櫛ですく。髪は頭に繋がっているため、相手の想いに触れる、想いの全てを男が受け取るという意味がある。

 ……あー、うん、日常的にやってしまっていたな。


 一つ、妹背いもせみ。

 二人で同じもの――口をつけたものを、分け合って食べる。末永く共に生きることを象徴する。

 ……そういえば、しばらく前にも干し肉、分けて食ったっけ。俺が口をつけた水も飲ませたな。


 一つ、三夜の臥所ふしど

 連続していなくてもいいから、三夜を同じベッドで共に過ごす。もちろん、致す・・。致さなくてもいいが、それを我慢できる狂気の男は、まずいないだろう。

 ……待て、これだけはまだ達成していないぞ! 昨夜だって、ベッドでは寝ていない、ベッドでは!


「え? だって、ボク、ご主人さまとベッド、ご一緒したよ?」

「いつ⁉」

「ほら、ご主人さまが、アテラス駅で倒れた後。起きなかったご主人さまをあっためてたのがボクだよ! 血を流しすぎて、すっかり冷えてたから、ボクが添い寝して温めてたの!」


 ……それを入れるのは反則じゃないか? 確かあの時、二晩寝ていたんだっけか。


「うん! だからボク、もう、ご主人さまに嫁ぐための『ちぎり固め』、全部整ってるから! だから、ご主人さま? ボクのこと──」


 しっぽをぶんぶん振り回しながら飛びついてくる彼女に、俺は血の気が引く思いだった。


 いや、エルマードという少女に不満があるわけではない。

 人体実験に供された哀れな少女だ。

 天真爛漫で、俺に懐いてくれている愛らしい少女だ。


 だが、何を考えているか、時々分からないところがある。

 なにより、本当に俺たちの味方なのかどうかすら、怪しいこともある。


 それなのに、もう俺の妻宣言をしているのだ。

 聞いたことはある。

 獣人族ベスティリングの女性は大変に情が深く、それは獣面度が高ければ高いほどその傾向も強いのだと。

 特に原初のプリム・獣人族ベスティリングと呼ばれる、「二足歩行の動物」といった外見の獣人は、一度決めた相手と、よほどのことがない限り、生涯連れ添うのだという。


 にこにこと俺を見つめる、淡い金色の狼(自称)の、この娘。

 ばっさばっさとしっぽをゆらしながら、いまも淡い青紫の瞳をきらきらとかがやかせて、俺の返答を待っている。


 俺は貴族だ。

 もとより婚姻について、自由があるはずもない身分なんだ。

 それなのに、もう、生涯を俺に捧げると言い張る女が目の前に現れた。

 しかもその意思が、とんでもなく固いときたものだ。


 ……俺は、とんでもない底無し沼に、足を踏み入れてしまったような気がした。



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