第七十四話 関門
まだ箱屋を出た段階では日が高く、ひとまず黒い箱から出てきたものを、『運び屋』に運んでもらうことにした。
箱屋でしばらく待っていると、ファルマさんが手配してくれた運び屋が訪ねてくる。愛想のいい、俺と同年代くらいの男性だった。どうやら、日本人のようだ。
迷宮国でわざわざ仕立てたのか、それとも転生したときに着ていたのか、運送業者の作業着にしか見えない格好をしている。まあ、俺も転生したときに着ていたスーツを未だに持っているし、みんな転生時の服は貴重品と思って大事にしているようだ。
「ちわーす、運び屋の『金猫商会』から来ました。箱から出てきた処分品を運んでもらいたいってことで、依頼者さんはアリヒト=アトベさん。間違いありませんか?」
「はい、俺がアトベです」
「お噂はかねがね伺ってます。前回はうちの新人と一緒に担当させていただいたんですが、いや、ものすごかったですね。あんなばかでかいオーク、見たことありませんよ」
ジャガーノートの輸送も、『金猫商会』が担当してくれたようだ。山のように巨大な魔物だったが、それでも運んでしまう彼らは、まさに運送のプロフェッショナルだといえる。
「あ、貴重品や価値のあるものは持ち出されてますね。残してあるものは全て売却されますか?」
「いや、初級の装備品なんかは寄付します。売ってもそれほどの金額にならないですし、もともと新人探索者が、不慮の事故で落としたものだと思うので……」
「ああ……それは、確かに。迷宮は危険ですからね、運び屋といえど絶対安全とは言えません。専門の技能がありますんで、相当危険なところからでも運ぶ自信はありますが」
「それは凄いな……『金猫商会』さんは、七番区でも営業されてますか?」
「えっ……七番区に上がられるんですか!? そいつはめでたい! 勿論『金猫商会』は営業しておりますよ、担当者は私よりレベルの高い者に変わりますが」
俺は今後も世話になる旨を伝え、名刺を受け取った。彼の名前はナオマサ・サカイというらしい――『境直正』と、漢字の名前も併記してあった。
「ではご指示通りに運ばせていただきます。手数料は、変形している貨幣などをこちらで処分しまして、それで賄わせていただくということで。余剰金は銀行にお戻しいたしますね」
「はい、よろしくお願いします」
サカイさんは被っていた帽子を整えると、軽い足取りで階段を下っていく。後から三人ほど部下らしき人たちが入ってきて、境さんの後に続いた。
「アトベ様、もしよろしければ、これからもシオンを連れていっていただけますか?」
「えっ……いいんですか? 俺たちは助かりますが、ファルマさんたちの護衛としても、シオンはとても優秀だし……」
ファルマさんは微笑み、待ちくたびれて椅子に座ったまま眠っているエイクとプラムに近づくと、その頭を優しく撫でながら言った。
「可愛い子には旅をさせよ、と言います。アシュタルテも、主人と一緒に旅をして強くなりました。シオンにも同じ経験をさせてあげたいと思いまして……もし難しいようでしたら、そのときは、アトベ様のおっしゃる通り、この家で一緒に暮らしていこうと思います」
「……それも、とても良いことだと思います。でもシオンがいて、何度も俺たちは助けられてる。できれば今後も、一緒に探索していければと思ってます」
「ありがとうございます。ふふっ……シオンも嬉しいみたい。なかなか無いんですよ、この子がこんなふうに尻尾をぱたぱたすることって」
「バウッ」
シオンは確かに、お座りをしたまま尻尾をぱたぱたと動かしている。犬好きな五十嵐さんはどう反応するだろう――と視線を送ると、もうメロメロになっていた。
「はぁ、可愛い……モフモフしたい。シオンちゃん、あんなに後部くんになついて……どうやったら私にもなついてくれるのかしら……」
「……私は本物の動物より、ぬいぐるみの方が……」
「エリーさん、何か言いました?」
「っ……な、何でもないわ。ところでアリヒト、これからどうするの? まだセラフィナがギルドセイバーの人たちと合流するまで、時間があるけど」
夕食の前には彼女たちは帰還しなくてはならないそうなので、あと数時間はある。この時間でできることといえば、何があるだろう――昼食時なので、どこかで食事でも摂るか。
「……っ」
ぐぐぅぅぅ、と何か音が聞こえてくる。みんな顔を見合わせるが、俺は間の悪いことにセラフィナさんに話しかけようとしていたので、彼女のお腹が鳴ったのだと気づいていた。
彼女は隠しきれないと悟ってか、お腹に手を当てる。胸甲はかなり分厚いのだが、腹部までは装甲が覆っておらず、下に着ている鎧下が見えている――それは軽量化の工夫なのだろうが、十分過ぎるほど重装備ではある。
「……そ、装備が重い者は、燃費が悪く……一日に五回ほど食事を摂る必要がある。今回は、弁当を持参していないので、その……」
「セラフィナさん、いつもはお弁当を作ってるの?」
「うむ……いえ、平時ですから、堅い口調は解くとしましょう。携帯食料では味気ないので、一日二食分は自分で作っています。私が使っている宿舎は、厨房の設備が充実していますので」
軍人口調は仕事中だけということか、急にセラフィナさんの言葉遣いが柔らかくなる。
「そう言っても、硬い丸パンを割って、野菜と燻製肉を挟む程度のものですが。チーズが手に入るときは、そのようなものでもご馳走に変わりますね」
「ああ、いいわね……私、ラクレットが好きなのよ。癖が強いチーズは苦手だけど」
「和食を作れる人もいるというので、少し楽しみにしています……でも、そういった料理人の方は、とても忙しくされていますよね」
スズナは和食派ということらしい。俺はどちらでも構わないが、牛丼屋やハンバーガーショップ、定食屋に通った日々を思い出すと、とにかく濃い味だったり、ジャンクな食べ物を身体が欲する感覚がある。
「まあ、今のところは八番区の味を楽しむとするか。できれば明日から七番区に行くとして、今日でしばらくこの街とはお別れになるからな」
「そうね……アリヒト、やり残したことがないようにしてから行きましょう。これまでお世話になった人たちにも挨拶できるといいけど」
エリーティアはかつて五番区に行くまで、どんなふうに別の区へと移っていたのだろう。
俺も自分で言っておいて、いざ離れるとなると、八番区の街並みに感慨を覚える。まだ転生してから、一週間も経っていないのに。
「え、えっと……私が偉そうに言うことでもないけど。どこに行っても私たちが一緒なんだから、そんなに寂しがらなくても……ああっ、どういう言い方をしてもなんだか……っ」
「キョウカさんのおっしゃる通りです。アリヒトさん、パーティのみんなが一緒なら、きっとどこに行っても寂しくないですよね」
スズナが朗らかに言う。ミサキも今は茶化さずに、照れ笑いをしていた――この正反対の二人が親しいのは、互いの考え方を認めあっているからなのだろう。
「……このパーティの関係性には、見習うべきところがある。アトベ殿が、特定のメンバーと深い関係でないからこそ、均衡が保たれているのだな」
「はは……セラフィナさん、やっぱりそっちの口調の方がしっくりきますね」
「私もそう思う。淑やかな振る舞いをしていると、いざというとき気合いが入らない」
さっきお腹が鳴っていたときのセラフィナさんはある意味、今までで一番奥ゆかしかったのだが――そういった姿は基本的に見られない、貴重なものになりそうだ。
「なんだか、もうセラフィナさんがパーティの一員になったみたいな気分ね」
「ですよねー、でもレベルが段違いですからね。それに、ギルドセイバーさんですし」
「探索者とギルドセイバーの間には、それほど大きな差はない。レベルを満たせば所属できるし、一ヶ月前に申告すれば離脱することもできる。私は二年ほどギルドセイバーを続けているが、そういった者が珍しいほど、新人の入れ替わりは多いのだ」
ギルドセイバーという組織の構造についても興味が湧くが、それは聞ける範囲で昼食の時間に聞いてみるとしよう。
◆◇◆
俺たちは町の食堂に入り、テーブルを囲んで思い思いのメニューを頼んだ。
俺とエリーティアが頼んだのは、レベル3程度ではかなりの難敵だという『ガンフィッシュ』のグリルだ。頭に筒のような角がついていて、そこから圧縮した水弾を撃ち出してくるそうだが、肉は白身で柔らかく、癖もなくて旨かった。七番区には上位の魔物『カノンフィッシュ』が生息している迷宮があり、後衛殺しとして有名だと教えられた――そういったところで情報が得られることもある。
五十嵐さんはチーズの話をしていて惹かれたのか、水牛の乳で作ったチーズを使ったパスタを頼んでいる。セラフィナさんも五十嵐さんと同じメニューで、ミサキは魚介のパエリアをスズナ、テレジアとシェアしていた。シオンはスイートバードの丸焼きを店員さんに切り分けてもらい、食べやすくしてもらってありついている。
まだ見たことのない魔物も食材として出てくるが、それは俺たちがまだ入っていない、八番区の三つの迷宮から獲れたものだ。
ほとんどの探索者が、一つか二つの迷宮を攻略するのにかなりの日数を要し、それでも完全攻略できずに立ち止まることもあったりするので、迷宮国のギルドは、『全ての迷宮を攻略する必要はなく、各区の序列一位となった者は昇格試験を受けること』と方針を示している。
セラフィナさんによると、一つ上の区に上がると、下の区の迷宮の情報は請求すると得られるようになるそうだった。ただ、ギルドにとっては重要な収入源の一つだそうで、情報料はお安くないらしい。
「ギルドの資料館が奇数番号の区に設置されている。司書に頼めば、必要な資料を探して持ってきてくれるだろう。私も時間が空いたときなどは利用している」
「それって、図書館みたいなものですか? 私は静かにしなきゃいけないので苦手ですけど、スズちゃんは何時間でもいられるんですよー」
「本を読むのが好きなんです。学校の図書室にはよく通っていました」
俺も本は嫌いではないので、七番区に行ったら一度は立ち寄りたい。セラフィナさんの話を聞いていると、気持ちが自然に上がってしまう。
「アトベ殿、このような話でも、参考にしてもらえているだろうか……?」
「ええ、俺も七番区に行くのが楽しみになりました。そういえばセラフィナさん、レベル11だと、適正な難度の区は、四番区くらいになるんですか」
「そうなる。アトベ殿たちのレベルは、八番区の段階で平均的に2ほど高い。エリーティア殿は五番区まで上がられていると思うが、五番区の探索者はレベル8から9といったところだ」
「セラフィナさんが盾を構えると、どんな攻撃も通じないっていう迫力があるわよね。レベル11……私たちもそこまで強くなれたら、凄いパーティになりそうね」
ただ安全に生きていくだけなら、テレジアを人間に戻し、エリーティアの仲間を救うことができたら、あとは無理をせずに暮らしていけばいい。今の俺達の資産は、数年は遊んで暮らせるくらいにはなっているだろう――ある意味、転生前の俺にとって、働かなくていいというのは夢のような話ではある。
しかし、立ち止まるということは、ゲオルグたちのように迷宮で壊滅したパーティを助けられる機会もなくなるということだ。
少しでも上を目指して迷宮に潜る間に、見かけたパーティを助けるくらいのことはしてもいいだろう。俺達の実力がなければ双方全滅ということもあるので、強くなろうとする向上心は常に持っていたい。
「いつかセラフィナさんに追いつける頃に、また……いや。その前に、セイバーチケットを使ってしまうかもしれませんが。もう一度、俺達と一緒に戦ってくれますか」
「あ、後部くん……それってちょっと、まだ会ったばかりにしては、熱がこもりすぎてない……?」
「そ、そのようなことはない……一緒に戦いたいと言ってもらえるのは、戦士の誇りだ。アトベ殿、そしてパーティの皆とも、また再会できるときを楽しみにしている」
ここでパーティを組めたのも何かの縁だろう。俺は将来、彼女が前衛としてパーティに加わってくれたりはしないだろうかと想像する――しかしそうならなくても、いつか彼女に追いつけるよう、たゆまず前に進んでいきたい。
◆◇◆
ルイーザさんに黒い箱の二つ目を開けたことを報告し、夕食を共にしたあと、彼女とは宿舎に戻る前に分かれ、それぞれの帰途についた。
彼女もまた俺達の担当官として七番区に移ることになっているので、名残惜しそうにしていたが、今日は泊まりということにはならなかった。今日の夜のうちに、荷物をある程度整理しておく必要があるからだ。
宿舎で待っていたマドカに武具を鑑定してもらい、装備を変更できれば変えようと思ったが、性能が近かったために即交換できる装備はなかった。しかし、魔石の収穫は大きい――『陽炎石』『土竜石』『爆裂石』の三つが新たに手に入り、属性付加の幅が増えた。
「控えの装備を用意して、迷宮ごとに違う魔石がついた装備を使うというお話もよくうかがいます」
「ああ、そうだな。装備は倉庫を借りて収納しておこう。装備棚でも用意して整理した方がいいかもな。マドカ、予算を出すから、倉庫の改装を頼めるか。七番区に上がってからでかまわない」
「は、はいっ……そんな大きなお仕事を任せていただけるなんて……ありがとうございます、お兄さん……っ」
マドカはしきりに恐縮しているが、彼女がいてくれて本当に助かっている。できるなら、彼女がやってみたいと思うことを、俺がスポンサーとなったような気分で色々やらせてやりたい。
そんなやりとりを横で見ていたメリッサが、少しうらやましそうに言う。
「……私も、早く役に立てるといい。これまでは、それほどのことはしてないから」
「そうだな……意外にミサキの技能が役に立つから、なかなかメンバーチェンジの機会がないんだよな」
「あ、でも私、実はか弱い女子なので、ちょっと連日の冒険で疲労こんぱい気味です。こんぱいってどういう意味ですか?」
「疲れて困り果ててる、みたいなニュアンスだろうが……そうか、疲れてるよな。それも考慮に入れて、疲労が蓄積していかないようにローテーションするか」
「それなら、私も一緒に行ける。『解体屋』は探索中だけ使える技能もあるから、久しぶりに使いたい」
いつものように口調は淡々としているが、やはり留守番でエネルギーが有り余っているのか、メリッサの目からかなりのやる気を感じる。
(ライカートンさん、ファルマさん。大事な家族を預かりますが、必ず無事に戻ってきます。長い旅になりますが、安心して待っていてください)
「どうしたの? 後部くん、神妙な顔しちゃって」
「ああ、いえ。七番区に行ったら、世話になった人たちに手紙を書こうかと……」
「じゃあ、その時はみんなで手分けして書きましょうか。そんなことしなくても、向こうに行ってもお世話になるんだから、大丈夫だと思うけど」
「それもそうですね……すみません、急にセンチメンタルというか、そんな感じになってて。いい年した男が何を言ってるんだって、自分でも思いますが」
五十嵐さんは俺の話を呆れたりせずに聞いてくれていた。何かそんな優しい目で見られていると、益体もない話を続けてしまいそうになる。
「お兄ちゃんがさみしいなら、テレジアさんが一緒に添い寝してくれますよ。あ、スズちゃんでもいいですけど」
「っ……そ、そんなこと……アリヒトさんと一緒のお部屋になれるならいいけど、そうじゃなかったら、不自然だと思う」
「……えっ? それだと、スズナは一緒の部屋だったら、アリヒトと……し、してないわよね? 添い寝はちょっと早いというか、アリヒトも男だから……」
エリーティアが微妙にひどいことを言っている気もするが、俺もスズナに真意を確かめたくなるような発言だった。添い寝を熱望してるわけじゃないし、ありえないとは思うのだが――と葛藤していると、案の定というか、テレジアが俺をじっと見ていた。
「…………」
「……い、いや。風呂はその、他のみんなと入るのが自然で、添い寝よりもある意味では危険であってだな……」
「…………」
無言の圧力が、俺の正論を受け流す。そして今日に限っては、皆が助け舟を出してくれない。
「今日で、この宿舎で過ごすのは最後だから……それを考えるとね」
「また一緒に入って止めたりしたら、その方がアリヒトも困るしね。私たちは、おとなしく順番を待っていましょう」
「な、なんですかこの空気……テレジアさんが公認お兄ちゃんの背中流し係ってことになっちゃってます? アミダで決めません?」
「あ、あの……それだと、私とメリッサさんも、当たったらお兄さんと入っていいことになりませんか?」
「……? ごめんなさい、話を聞いてなかった」
メリッサは自分の名前を呼ばれて反応するが、自分の世界に入っていたようでぼーっとしている。彼女に恥じらいという感情は希薄そうだが、どうなのだろう――というのは失礼か。
「……いいのか、こんなおっさんと風呂に入って。テレジア、のぼせないように気をつけるんだぞ」
「おっさんっていうにはまだ若いですよ、お兄ちゃんは」
「そうですよね……十歳の差くらいなら、まだ許される範囲内ですね」
「……スズナが何か心配だから、ちょっと様子を見てないとね。キョウカもそう思わない?」
「え、ええと……後部くんが何かしたとしても、それはきっと、自覚がないと思うから、責めづらいわよね」
確かにこのままスズナがふわふわした状態では心配なのだが、戦闘中に上の空というわけでもないので、緊急で対策が必要ということでもない。
「アリヒトさん、ゆっくり温まってきてくださいね」
「あ、ああ……皆の順番もあるし、できるだけ早く上がるよ」
テレジアが席を立って浴室に向かう。俺が逃げないかどうか気にしたのか、振り返って確認してくる――彼女を待たせるわけにもいかず、俺は皆に微笑ましそうに見られながら着替えを取りに向かった。
◆◇◆
翌朝、早朝に支度を終え、俺達はミレイさんに挨拶して、短い間世話になったオレルス邸をあとにした。
庭先にメイドさんたちが並び、俺たちを見送ってくれる。泣いている人もいた――それくらい俺達の昇格を喜んでくれているのか、それとも案じてくれているのか。
「皆様、必ずまたこの屋敷に起こしください。私たちはいつでもここにおりますから」
「ああ、また顔を出すよ。色々ありがとう、ミレイさん」
俺は握手をして、お世話になった人たちと再会を約束した。
――そして、外に出ようとしたそのとき。
もう、医療所を出ることができたのだろう。ゲオルグたちパーティが、外からこの屋敷にやってくる。
「アリヒト……もう、行くのか……?」
ゲオルグ、ジェイク、ミハイル、タイラー。そして――蔓草の道化師に操られていた、ソフィもいる。
「ああ。最後に挨拶できてよかった。俺達が見つけた『北極星』の装備は、運び屋の人に届けてもらった。部屋に戻ったら確認してみてくれ」
「そこまでしてくれたのか……ありがとう。あんたは、俺たちの命の恩人だ。ソフィも、昨日目が覚めてから、ずっとお礼をしたいと言ってて……」
ベッドの上で光のない目をしていた儚げな女性は、今はしっかりとその目に輝きを取り戻していた。真っ白になっていた髪に、わずかに色が戻っている――体調が回復したことが、これほどすぐに髪色に影響を与えるものなのか。
元は栗色の髪をしていて、パーティの男性陣が取り合いをするのがよくわかる、落ち着いた雰囲気の美人だった。彼女は俺の前に立つと、ひどく緊張しながら、それでも何かを伝えようとしてくれる。
「……ありがとう。あなたと、亜人の彼女がいなかったら、今頃私は……」
俺とテレジアが、ソフィの精神世界に入って戦ったことを、彼女も覚えているようだ。
どういたしましてというだけでは済まないようで、何かすべきかと考えて――俺は、ソフィともミレイさんと同じように握手を交わした。
「元気になって良かった。大変なことも色々あると思うけど、俺たちでよければ力になれると思う。気をつけて頑張ってくれ」
「ええ……しばらく休んでから、また探索を再開したいと思ってる。全滅したことで序列は大きく下がってしまったから、みんなでばらばらの小さな宿舎からやり直しね」
「そいつは大変だな……だが、一度は八番区の序列一位になったパーティだ。ゲオルグ、かなり落ち込んでたが、もうすっかり元気じゃないか」
ゲオルグのゴーグルは修復されており、怪我が治っている。派手に出血していたが、ポーションを飲ませた途端に傷がふさがり始めていたので、この短期間で完治したのだろう。
「またあんな『名前つき』が出たらって、不安に思う気持ちはある。でも、やっぱり諦めたくはないと思った。『北極星』には、迷宮国で一番星を目指すって意味もあるんだ。だが、アリヒトたちにはかないそうにもないな」
「そんなことはない。未来のことは、誰にもわからないからな」
「……日本のサラリーマンは、会社の犬だなんていう思い込みをしてた。でも、違ったんだな。アリヒト、あんたはサムライだ。サムライとニンジャは、俺のあこがれなんだよ」
ゲオルグが握手を求めてくる。そこで彼は、俺が実際に
「なんだ、本当にニンジャじゃないか。道理で強いわけだ」
「そういう職業を書いてみてもよかったかもな。意外に、適性があったかもしれない」
冗談を言うとゲオルグは顔をくしゃっとさせて笑った。そして固く握手をすると、彼らは俺たちに道を開けてくれる。
「……アリヒト、パーティの名前を決めておくといいんじゃないか? 通り名があると、他の区にも名前が届きやすくなる」
「ああ、考えておくよ。それじゃ、またどこかで会おう」
挨拶を終えて、俺達はオレルス邸を離れる。通りに出て、門が見えなくなるまで、表に出たミレイさんたちと、『北極星』の面々が見送ってくれていた。
◆◇
八番区の西側にある、区を隔てている高い壁。その壁を越えて七番区に行くには、『関門』を通らなくてはならない。
七番区から八番区に戻ってきた探索者の姿もあるが、それほど関門の近くは賑わっていない。俺たちは手続きを済ませると、見上げるほど大きな鉄扉が左右に開くまで待って、七番区への通路に入る――すると。
そこには、見覚えのある姿をした女性がいた。迷宮国に転生するとき、案内をしていた彼女だ。
「いやはや驚きましたね、こんなに短い期間で、七番区に行く資格を得てしまうなんて。間違いなく迷宮国が始まって以来の、最速記録ですよ」
彼女は紫色の髪を三つ編みのおさげにして、帽子を被っている。前はシャツにキュロットだったが、今日は上からジャケットを羽織っている。それが、関門の職員たちが着る制服ということらしい――ここに入る前に、外で同じような格好をしている女性を見た。
「あなたは、ここで働いてる人だったんですね」
「はい。あ、でも、働いてるといっても下っ端じゃなくて、それなりに権限は持っているので。あなたがたが七番区に行く資格を得たと聞いて、ここの係を回してもらったんです」
彼女は俺達のパーティを眺め、そして微笑むと、俺のライセンスを受け取って操作する。すると、『七番関門通行許可』という文字列が表示された。通れる関門が増えるたび、ライセンスのページに情報が追加されていくようだ。
「ですが、八番区はあくまで初心者の人たち向けの、いわば練習用の区です。そこで序列一位になったとしても、七番区では……あっ、なんですか、脅かそうと思ったのに、もう飛び級で順位が上がってるじゃないですか。記録的な貢献度ですよ、これって」
「確か、現時点で294位ですね。七番区は、どれくらいの探索者がいるんですか?」
「一万人です。その中で294位ですから、すでに上位ですね。宿舎のランクも、八番区で使っていたものとそう変わらない物件が用意されますよ」
それは有り難い話だ――オレルス邸の住み心地に慣れると、なかなか宿のランクを落とすことは難しい。
「さて……もう少しお話したいですが、関門を開けられる時間は限られているんです」
「分かりました、じゃあ俺達はこれで……」
「はい。お決まりの文句ですが、言わせていただきますね」
女性は悪戯な調子で笑うと、案内役らしく手を上げて通路の先へ進むように促しながら言った。
「ようこそ、ルーキーのみなさん。ここからが迷宮国の、本当の始まりです」
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