6 差し伸べられた手は

 濁った水に満ちた外堀は思ったよりも深く、また水の流れも速かった。

 季節はもう冬が近く、すぐに死んでしまうほどではなくても、水の中は痛くて冷たい。


 勢いよく飛び込んで沈んだヴィヴィは、水中で水を飲んでむせてもがいた。

 ヴィヴィにはもう生きる理由はそれほどないはずなのに、肺は空気を求めて呼吸をしようとする。

 しかし生きようとする身体がもがけばもがくほど、水面は遠ざかり、土混じりの苦い水を飲み込んで胸が苦しくなる。


(だけどこれ以上はもう、頑張らなくてもいいのなら)


 浮かんでは消えていく泡沫を見て諦め、ヴィヴィは目を閉じて暗い水底に沈もうとした。


 だがヴィヴィが本当に意識を手放してしまう前に、誰かの手がヴィヴィの腕を掴む。

 そして何が起きているのかわからないうちに、ヴィヴィは水から身体を引っ張り上げられ、地面に投げ出された。


 ヴィヴィは身動きできないまま、息をしようとするのも忘れていた。

 何者かわからない人影は、強引にヴィヴィの濡れた身体を起こすと、背中を叩いて水を吐き出させた。

 水を吐いている間は苦しかったけれども、呼吸ができるようになるとだんだん胸が楽になる。


 ヴィヴィの息が整っていくのを見届けると、その人影はヴィヴィから手を放して立ち上がった。


(誰が、どうして私を)


 やっと周囲を見る余裕が出てきたところで、ヴィヴィはおそるおそる目の前の人間を見上げる。自分は恐ろしい敵に捕まったのかもしれないと思うと、見るのが怖かった。


 どうやら男であるらしい人影は、銀糸の刺繍が輝く黒い服を着て、赤色の飾り石のついた見事な細工の剣を携えていた。生まれて今日まで見たことがないその華やかな装いに、ヴィヴィはその男がオルキデア帝国の身分の高い人間であることを理解した。


 自分が敵と対峙しているとわかったヴィヴィは、この場から逃げるべきだと思った。

 しかしその男の顔があまりにも綺麗なので、ヴィヴィはまた息ができなくなりそうになる。


(夜の月みたいに、綺麗な人だ)


 死にかけた直後のぼんやりとした思考の乏しい語彙で、ヴィヴィは男の美しさを喩えた。

 男の背中まで伸ばして束ねた黒髪はしなやかに細く滑らかで、見る者を竦ませる力を持った瞳は、山の端から昇る満月のような金色をしていた。


 優しげな表情を浮かべた顔は白くまばゆく、村の教会に置かれてた神や聖女の偶像の美しさに似た、目鼻立ちが整った完璧な相貌をその男は持っている。

 しかし微笑みに残酷さがにじみ出ていたので、ヴィヴィは男が悪い人間であることをすぐに理解した。


(私はこれから、何をされるんだろう)


 見知らぬ大人に見下されたヴィヴィは、自分の未来を考えて震えた。水に濡れた身体にぼろ布のような服が張り付き、風が冷たくて寒かった。


 ヴィヴィが何も言えずに黙っていると、やがて男が仕方がなさそうに口を開いた。


「せっかく冷たい水の中を頑張って助けてあげたんだから、俺は君のお礼が聞きたいな」


 明るく剽軽ひょうきんな声色で、男はヴィヴィに恩着せがましく話しかける。

 確かに男は、ヴィヴィと同じように水に濡れていた。

 助けてほしいと頼んだ覚えはないものの、ヴィヴィは男が怖いので感謝の言葉を述べようとした。


「……っ」


 しかし飢えて死にそうだった上に、溺れて体力を奪われたヴィヴィは声を出すこともできず、気を抜くと再び意識も遠のいた。


 わずかに残っていた力も失われて、思考の形も保てなくなる。


 ヴィヴィは段々と視界が暗くなる中、男がヴィヴィのやせて軽くなった身体をそっと抱き上げるのを感じた。


「また今度ちゃんと、聞かせてよ」


 そう耳元でささやいた男の声の優しさに、ヴィヴィは安堵と恐怖が入り混じった感情を抱く。

 男はヴィヴィに暴力は振るわないのかもしれない。しかしもっと悪いことをされる予感が、ヴィヴィにはあった。


(私は助かったの? それとも……)


 男の腕に抱かれたヴィヴィは仔羊のように無力で抵抗もできず、どこにも逃げられない存在である。

 疲れ切ったヴィヴィはやがて、意識を完全に失った。

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