5 飢餓と死
村を略奪し尽くしたオルキデア帝国の軍が次に始めたのは、ゲンベルク城を包囲し兵糧攻めにすることだった。
オルキデア帝国の攻撃は秋の刈り入れ前に始まったので、城内は食料の備蓄に乏しい。そこに逃げてきた村民も流入したので、ゲンベルク城はすぐに飢えに苦しんだ。
気の良い領主は身分を問わず、城にいる者すべてに食料を分け与えたので、食料がなくなるのも早かった。
ほんの数週間で城の食料庫は空になり、人々はネズミや、中庭に生えている草や木の皮を食べて飢えをしのいだ。そんなものは当然人が食べるものではないので、身体の弱い老人や幼い子供から順番に下痢を起こして死んでいった。
飢餓に耐えきれず、城壁の一番上から飛び降りて死ぬ兵士もいた。
しかしそれでもなぜかゲンベルク城は降伏せず、オルキデア帝国の軍の包囲に耐えようとしていた。
(きっともう、この城にはネズミも草も何もないのに)
石畳の床は冷たくて固く、天井は梁の木の向こうが見えないほどに暗かった。
どうしようもなくお腹がすいているのに、食べれるものはどこにもなくて、身体が捩れそうなくらいに苦しい。人間は飢えれば死ぬのだということを、ヴィヴィはそのとき身を持って理解していた。
やせ細った手足は他人のもののように思えて、ヴィヴィはもうすでに自分は半分死んでいるに違いないと思う。
(私たちが羊番をしていた羊たちは、きっと敵に食べられたんだろうな。私もお腹が痛くなる変な肉じゃなくて、最後はちゃんとしたものが食べたかった)
略奪された家畜の未来を考え、まともな食べ物を夢見ながら、ヴィヴィは虚ろに目を開けていた。
周囲にはヴィヴィと同じようにやせて棒切れのようになった人々が倒れていて、そのまま息を引き取っている人も少なくはない。
いずれ自分もその死んだ人間のうちの一人になるのだと、ヴィヴィは完全に自分の人生に見切りをつけていた。
だがヴィヴィがもう駄目だと思ったときにはいつも、幼馴染のテオの声が聞こえた。
「起きろ、ヴィヴィ」
その日もまた、まだ生きることを諦めていないテオは、自分もすっかりやせてしまった腕で、ヴィヴィの身体を起こして話しかけた。
「逃げるぞ。城門が破られた」
ヴィヴィと違って光を宿し続けているテオの黒い瞳が、行動するべき時を告げる。敵には殺されずにすんだ家族が皆飢えで死んでしまっても、テオは悲惨な現実に屈してはいなかった。
しかしヴィヴィはすぐには立ち上がれず、かすれた声で投げやりな言葉をつぶやいた。
「やっと、負けたの」
窓が少ない城内は暗く、だんだん物が見えなくなってきている目では、今が夜か昼なのかもわからない。
だが言われてみれば辺りには、どこかざわついた雰囲気がある。ふらつきながらも立ち上がりどこかへ消えていく人影も見えたので、戦況に変化があったことをヴィヴィは肌で感じた。
「裏切って門を開けたやつがいるんだ。だからもうすぐここも敵が来る」
テオはヴィヴィを立たせながら、ゲンベルク城が置かれている状況を説明する。
飢えて死ぬよりは敵に殺された方がましなのかもしれないと、ヴィヴィはテオの話を聞いて思った。
だからヴィヴィは虚ろな表情で、テオの顔を見つめた。
「じゃあ、私たちも」
「大丈夫だ。きっと助かる」
テオはヴィヴィの抱える絶望には気づかないふりをして、ヴィヴィの手をかたく握って歩き出した。
どこにも行きたくはないがテオと離れるのも嫌なので、ヴィヴィは手を引っ張られるままに進む。
死臭に満ちた大広間にはもう動けない無数の人々が残されていて、ヴィヴィは彼らの視線と意識を背中に感じた。
しかしそれでもテオは歩みを止めず、廊下を通り過ぎて階段を降り、二人は
外は夜になっていて、城壁に囲まれた中庭では、オルキデアの兵士がゲンベルク城の兵士を次々と斬って捨てている。
またあたりでは、同時に何かが破裂するような、不気味な音が断続的に鳴り響いていた。
(これが戦争なんだ)
地面に転がっている兵士の死体の血で足を滑らせないように気をつけながら、ヴィヴィはほんのかすかに残っていた淡い期待を手放した。
幸いなことにすぐ近くに敵の姿はなかったが、悲鳴も歓声も聞こえたし、血の臭いもした。
周囲で起きている殺戮に目を奪われたまま、ヴィヴィはテオの後を追った。
やがてヴィヴィとテオは、跳ね橋とは反対側の城壁にたどり着く。敵の進入路から遠いその場所は、人影も少なく静かだった。
「外の敵が移動して、ここから外に、出られるはずなんだ……」
テオは城壁に設けられた、あまり大きくはない扉を開けた。
その声が不自然に息切れしていたので、ヴィヴィは不安になった。
「テオ?」
ヴィヴィは改めて、テオを見た。
そうしてヴィヴィはやっと、流れ矢か何かが当たったのか、テオの服の肩のあたりが血に染まっていることに気がついた。
「何で、いつの間に……」
突然のテオの負傷に、ヴィヴィはうろたえた。どれほど深い傷なのかはわからないが、流れている血の量を考えると助かるようには見えない。
テオは城壁にもたれるようにして倒れ込むと、黒い巻き毛の前髪の奥から立ちすくんでいるヴィヴィを見上げた。
「俺はいいから、早く逃げろ」
精一杯に平気なふりをして、テオはヴィヴィが行くべき道を顎で指し示しす。
一人でいたくない臆病なヴィヴィは、ずっとテオの側にいたかった。生きようとしていたテオが死んで、諦めていたヴィヴィが生き残るのは、不条理だとヴィヴィは思う。
だがヴィヴィは誰かが行く手を決めたなら、自然とそれに従う性分を持ってもいたので、考えるよりも先に返事をしていた。
「うん。わかった」
ヴィヴィはそう言って頷くと、きっともうすぐ死ぬのであろうテオの辛そうな顔に背を向け、言われたとおりに城壁に設けられた扉の中へと入った。
永遠の別れになるとわかっていても、誰よりも大切な存在だからこそ、ヴィヴィにはテオの死に向き合う余裕はない。
前へと進めば、テオと一緒に外の薄明かりが遠ざかる。
冷たい暗闇の中では自分の動悸が妙にうるさく、足元がふらついて石の壁に触れていないと歩けない。それでもテオに生かされたはずのヴィヴィは、ざらついた床の上を一歩一歩踏み出した。
灯りのない城壁の中の廊下を進み続けた先には、入ったときと同じように扉があって、壁の外へと繋がっている。
だが実際にヴィヴィが扉の向こうに出てみると、そこは川から水を引き込んだ深い堀の流れの前だった。
(でも逃げろって、言われたから)
生きるためでもなく、死ぬためでもなく。
ヴィヴィはただ進んだ先にあった場所として、真っ暗な水の流れの中に飛び込んだ。
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