永尾鳥

ももも

永尾鳥

 消毒液がたっぷり入った盆を抱え、みしみしと音を鳴らしながら廊下を歩く。

 他の人間と間違えて飛びかかってこないよう、こうしてわざと足を踏み鳴らして己の来訪を知らせるのは二人の約束事であった。

 奥へと向かうにつれ、闇は濃くなっていく。びょうの打たれた分厚い板戸へとたどり着き、片手でぐっと押し開けると、途端、濃厚な血と膿の入り混じった臭いが鼻についた。

「いよお、旦那。遅かったじゃないか。ジクジクと傷が痛んで仕方ねぇ。はやく診てくれよ」

 六畳ほどの薄暗い部屋の中心にいる異形の、ぎゃあと鳴く声が高い位置から聞こえた。

「また、傷口をいじったのか」

「だって痒くてたまらないんだ。しょうがないだろう」 

 狭い室内の中には波立つように尾羽が幾重にも広がっており、足の踏み場があまりない。足で雑に寄せながら空いた場所をそろりそろりと歩く姿を、異形はケケケと声をたてて笑った。

「うっかり踏んじまわないように気をつけてくれよ。三番目に長い尾羽は、えげれすっていう海の向こうにある国へ行くそうだからな」

 暗がりに順応した目は、青年の姿をした異形をゆっくりと捉えた。

 白色の羽毛を全身にまとい、肩甲骨から生えているのは腕ではなく翼である。顔の輪郭だけ見れば、人のように見えた。だが本来、耳のある場所にはぽっかり穴が空いているばかりで、口ではなく嘴をもっていた。彼はスラリと長い首を傾け、にやけた顔を浮かべていた。風切り羽を手入れしていた最中だったのか、嘴は油でぎらぎらと光っている。

 止箱とめばこのそばに腰を下ろすと、上で胡座あぐらをかいていた異形はすっと右翼を差し出した。

 膿の臭いが一段と強くなり顔をしかめる。胡粉ごふんを思わせるやや黄みがかった羽は自傷により抜け落ち、赤い地肌があらわになっており、悪臭の放つ膿と固まりかけた血で汚れていた。

 肩にかけていた手拭いを消毒液に浸して絞りそっと傷口に触れると、異形の体がびくりと揺れた。



 永尾鳥ながおどりは、その名の通りに尾羽が換羽しないまま永く伸び続ける人鳥だ。尾羽は長ければ長いほど良いとされ、鳥飼いたちは競って改良を続けた歴史がある。

 始まりは弓矢に使うためだったという。強靱きょうじんで軽く、弓にくくり付ければより疾く飛ぶため、大いに珍重された。

 戦の世が終わり、時代の移り変わりとともに需要は武器から装飾へと転じ、飾り羽として槍の穂先に括り付けられ大名行列を彩り、また縁起物として寺社へ奉納された。

 永尾鳥は雛の時は外飼いにし、ある程度足腰が育つと、尾が長く成長できるよう止箱とめばこと呼ばれる五尺ほどの高さの飼育箱に足を固定し、日の当たらない部屋に死ぬまで閉じ込める。

 黄金に匹敵する尾羽の持ち主である永尾鳥が、どのような姿形をしているのかは秘匿され、鳥飼いの家に生まれたものは村から出ることを禁じられていた。それも今や昔の話。

 文明開花とともに、神秘は漏れた。希釈され、薄れた。



 膿と血を拭き取り終えたあと、腐った肉の部分をグリッとこそぎ落とすと、いてえよぉ、と真白はうめいた。

 永尾鳥の中でも真白は特異的な存在であった。

 キジのような茶系の色合いが多い中、真白は白色の美しい羽を有していた。兄は「ひねたシロモドキ」と言って憚らないが、希少性の高さから何倍もの値がついた。

(それにしても、えげれすとはねぇ)

 万国博覧会の日本館で出品物として永尾鳥の尾羽がお披露目されるや、その艶やかさ、摩訶不思議さから、多くの衆目を集め賞賛された。そして、他国の王族から帽子の羽飾りとして白の尾羽を所望され、真白が選ばれたというわけだ。えげれすという国では、身分ある女子は羽のついた帽子を被らずに家を出てはいけない慣わしがあり、高価な羽は家宝として受け継がれていくそうだ。


「皮肉なもんだね。俺はここから出れないというのに、この羽は海を超えていくんだから」

 こちらの思考を読んだかのように、真白は笑った。華やかな晴れ舞台の裏側にいるのが、目の前の傷だらけの鳥だとは誰も思いはしないだろう。尾羽以外は、ひどい有様であった。あちこち自分でつついて、ちぢれていない羽の方が少ない。中でも、飛べぬよう断翼された右羽の傷はジュクジュクと膿んで一段と悪かった。

 真白がまったく懐かないことを、兄が苦々しく思っているのを承知している。だが真白が目に見えて衰弱するまで放置するのは、鳥飼いとしていかがなものか。せめて定期的に診察させてくれればいいのに、悪化してから呼ばれては傷が一向によくならないに決まっている。

 手に負えぬと手放してくれたら喜んで引き取るのに、長子ゆえのプライドからそうはいかないのだろう。それに、もともとはお前の手術が失敗したせいだと言われたら何も言えなかった。

 消毒液で血を拭うと、綺麗な傷口があらわれた。術痕はずいぶん前にえぐられ残っていないが場所は覚えている。じっと見ていると「尾羽ならいくらでもむしりとれよ。でも飛ぶのを奪わないでくれ」と泣きじゃくる雛鳥の姿がゆるゆると浮かんだ。



 十年前、父に永尾鳥を一から世話するよう命じられ、我が家に連れてこられたのが真白であった。ボロ布に包まれ、頭を重そうに揺らしながら座り込んでいる、目も開いていない雛が、家で飼われてる豪奢ごうしゃな永尾鳥と同じなのかと驚いたのを鮮明に覚えている。

 真白は生まれながらに脆弱で、大人になるまで生きられないと言われる白子個体であった。

 それゆえ永尾鳥としての価値がほぼなく、私が執刀する初めての断翼手術として使われるために育てられた。

 中手骨ちゅうしゅこつの切断など今では簡単にこなせるが、初めての時はひたすら緊張した。

 太い血管を間違えて切ってしまわないか、縫合が甘く血が止まらなかったらどうしよう、もし麻酔の量を間違えてそのまま目が覚めなかったら?

 じっと見ているだけでまったく手伝ってくれない父の隣で、ヘマをして真白を殺してしまう恐怖に覆われ、冷や汗を額から流し、震える手を動かした。

 真白が無事目を開けた時はホッとしたが、ぼんやりと包帯を巻かれた右羽を見つめるあの日の真白は、同じ姿で今も夢に出てきた。



 淡々と作業をこなし最後に包帯を巻けば、真白は満足そうに手を掲げた。

「ありがとよお。やっぱり旦那の腕はピカイチだ」

「こんな簡単な処置、誰がやっても同じだ」

「そんなことないって。あいつときたら不器用な上に乱暴で、かえって傷口を広げるだけだ。腕が悪いんだよお」

 ギャーギャーと文句を言い続ける真白を無視して道具を片付けていると、ふわりと風を感じた。顔をあげれば、すぐそばに真白の瞳があった。

「何度も言っているけれどな、旦那のことを別に恨んじゃいねえよ。俺が今日まで生きてこれたのは旦那が丹念に世話してくれたおかげなんだよ。気にすんなって。だからさ、昔みたいに撫でてくれないか?」

 耳の穴の近くをくすぐってやれば、気持ちよさそうに目を閉じるのを知っている。指先に残る柔らかな羽毛の感触は今でも覚えている。

 だが甘やかすわけにはいかない。それが兄の家で飼われる真白のためであった。つがいでも見るような真白の眼差しから逃れるように立ち上がると、背後から声が聞こえた。

「また頼むよ」


 外に出ると、夕闇の気配が迫っていた。

 肌を刺すような冷たい風が吹き通っていく。

 いつ死んでもよいとされた真白は、あれからずいぶん大きくなった。だが生きながらえてしまったばかりに、かえって惨めな生を送っていないだろうか。

 日の当たらぬ独房に繋がれ、心労で羽や傷をいじる日々を過ごさせるくらいなら、いっそ殺してしまった方が真白のためではないか。

 そう思うのは彼への憐れみからだろうか。

 それとも、ボロボロの真白を見ずにすむよう、自分の心が楽になりたいからだろうか。

 足元に転がってきた枯葉をくしゃりと下駄で踏みしだく。

 あの日の後悔はずっと心の隅で残っていた。

 もしあの時、断翼前に真白を空へと逃すことができていたら――






「なんて、考えたりしているんだろうねぇ」


 真白は包帯の巻かれた右の翼を眺めた。

 この傷は、彼と己を繋ぐ大切なものだった。

 彼の後悔に揺れる姿も、哀れむ視線もすべてが愛おしかった。


「俺がいなけりゃ、こんな村からとっとと羽ばたけるのにねえ」


 彼が他家に婿入りした時は、仕方ないと諦めることができた。

 だが、勉学のため帝都へ行かせる話があると聞いたときは発狂しそうになった。

 自分を置いてこの村から離れていくなんて絶対に許せない。

 だから、手の届きそうで届かない場所に閉じ込められている、哀れな鳥を演じることにした。そうすれば、ずっと近くにいてくれる。


「逃がしはしないよ、旦那」


 真白はケタケタ笑うと包帯を嘴で引き裂いた。

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永尾鳥 ももも @momom-

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