とある魔法使いの苦悩

 ここ最近、何かが足りない気がした。


 部屋を見渡して、所長の使い魔の猫がいないことに気が付く。どれくらいいないかはわからないけど、少なくとも三日は戻ってきていないと思う。


 あの猫は優秀、というよりどこかおかしい。部屋の掃除をしたり、文字の読み書きだってできる。明らかに普通の猫じゃない。


 けど、わたしにとってはそんなことはどうでもよかった。今はただ、転移魔法を完成させること。それだけを目指していればよかった。


「お腹、空いたな」


 あの猫が来てからというもの三食しっかりと食堂のお弁当を食べるようになった。夜も零時を回ったらわたしに眠るように促してくるからちゃんと眠るようになった。


 おかげで以前よりも頭は冴えている、ような気がする。少なくとも苛立つことは減った。それでも研究は進まない。どうしても『物体を違う位置に瞬間的に移動させる』方法がわかない。


 あの猫が紙に書いていた手法――空間を圧縮させる方法は、お父さんの数少ない書記の中でもやっていたことだ。けど、その方法じゃ成功はしなかった。だからこそ家に無造作に置いてあったんだろう。


 だけど、今はもうその方法に賭けるしかない。わたしだって成果を出さなければ、いつまでここに置いてもらえるかわからない。ただでさえ所長に贔屓してもらって個別の建物を提供してもらっているのに。これ以上、所長に迷惑はかけられない。


 でも、空間魔法に関しては学園で全く習わなかったし、家にも関連書籍はほとんど残っていなかった。何度か転移魔法に取り入れようと勉強したことはあるものの、専門的知識が多すぎて一人ではどうにも理解できそうにないと諦めていた分野でもある。


 はぁ、と溜息を吐き出しながら背もたれに寄りかかった。


 久方ぶりの空腹感で思考が鈍る。どうしても否定的な考えで頭がいっぱいになってしまう。なにか食べようにも部屋の中に食べ物はない。全部、もうダメになっていたらしくあの猫が捨ててしまった。


 何か食べるには外へ調達に出なければならない。


 外はまだ明るい。立ち上がって、扉にできるだけ足音を立てないように歩み寄る。ドアノブに手を伸ばして、外から声が聞こえて硬直する。


 意志に反して心臓が暴れ始め、嫌な記憶が蘇ってきた。


 周りの冷たい視線、心無い言葉、お父さんの起こした事件を口実にした罵詈雑言……それらがフラッシュバックし、どうしてそれ以上動くことができなかった。


『我々はとんでもない間違いを犯した』


 お父さんが最期に残したメッセージが、お父さんの声で再生される。わたしを責めるような口調と視線で、告げてくる。


 お父さんが言っている”間違い”がなにを指しているのかはわからない。わたしを学園に入れたこと? わたしに魔法を教えたこと? それともわたしを産んだこと?


 わからない、どうしてお父さんはそんなメッセージを残して死んでしまったの? 人生を賭けてしてきた研究を燃やしてしまったの? わたしのなにがいけなかったの?


 それを確認する術は存在しない。わたしはもう、お父さんに認められることもないのだから。永遠に……。


 コンコン、とノックの音で我に返る。気が付けばわたしは蹲っていた。膝を抱えて俯いて、まるで子供の用に、可能な限り自分の身を小さくするように。


 動かず様子を伺っていると、またコンコンとノック音が響く。わたしの警戒度は一気に跳ね上がった。


 ここを訪ねてくる人なんて所長くらいしかいない。でも、あの人なら勝手に入ってくるはずだ。それをしないということは、所長ではない別の誰か。


「すみませぇーん。誰かいませんかぁー?」


 聞き覚えのない女性の声が呼びかける。ドクン、ドクンと心臓が暴れ回った。わたしはぎゅっと息を殺して気配を消すことに専念した。どうかそのまま、諦めて去って行ってくれることを願う。


 ガタン、と扉の下に取り付けられていた猫用の小窓が開いた。一瞬、覗き込まれたのかと思って焦ったけれど、何かを放り込むと足音が遠ざかっていくのを耳にする。後には蹲ったわたしと、二つ折りにされた紙が残された。


 どうやら、手紙を届けに来ただけみたいだ。それに室内も覗かれずに済んでホッとする。カーテンかなにか、取り付けたほうがいいだろうか。


 そんなことより、手紙だ。なんだろう。学園に通っていた時は不幸の手紙や嫌がらせの手紙は受け取ったことがあるけど、その類だろうか。


 そろっと、手を伸ばして拾い上げる。中を見るのは怖いけど、重要な連絡事項の可能性もある。もし、そうじゃなかったら破いて捨てよう。


 そう思いながら恐る恐る、紙を広げて内容を確認してみた。


『ミクロアさん、こんにちは。

 前回、手紙にてご相談いただきました空間魔法の件についてですが、ジャスタさんとの相談会は段取りが取れそうにないとのことで、ご連絡させていただきました。

 差し当って、ミクロアさんの困っている部分を詳しく教えてもらえたら、こちらとしてももっと協力できる、かも、と思います。

 また、物体を強化する魔法についての知識があるのでしたら、ご教授いただければ幸いです。

 その辺りも含めて、勉強会をしませんか? 手紙だけで伝えるには限界がありますので。

 都合の良い日を教えていただければ合わせます。お返事、お待ちしております。使い魔の猫ちゃんにも、よろしくお伝えしてください。

 

 モータル・ルミネンス』


 丁寧、というよりは丸っこい可愛らしい文字で、業務的な文言が綴られている。


 これは、前にあの猫がわたしの名前を使うとかなんとか言っていた案件だろうか。ジャスタ、と言えば所長の部下の名前だ。いったいどうしてそんな話に発展しているのか。


「勉強会、か……」


 正直、限界を感じていた。どれだけ調べても転移魔法完成に近づけない。本音を言えば、誰かに助けを求めたかった。意見を求めたかった。


 だけど、いまさら他人と関わることなんて、できるはずがない。


 もう何年も所長以外の人とまともに会話してないし、パン屋の調査のときは所長の知り合いという最低限の保証があってようやく会話できたのに……それであっても吐きそうなくらいに緊張したのに。


 初対面の、どこの誰ともわからない人間との勉強会なんて、できるわけない。


「やるなら最後まで責任もってよ。バカ猫……」


 ぎゅっと手紙を握りしめ、しばらく蹲ったまま動くことができなかった。

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