うまくいかない練習
俺が施設で働くことになってから三日が過ぎた。丸一日かけて魔法陣の入門書を読み込み、ある程度は描き方も把握したので、一度実践してみることにした。
用紙やインクは部屋にいくらでもある。ミクロアが使っていない物を適当に寄せ集めて、本を睨みながら魔法陣を描いていく。
まずは爪にインクを付けて挑戦してみると、ひとまず似たような形には描き出すことが出来た。
爪に付着させただけだったので途中でインクが切れるだろう、と思っていたが、魔子を含んだ液体は不思議なことに一度も尽きることなくA4用紙ほどの大きさの魔法陣を描き切ることができた。
次に描いた魔法陣を発動させてみる。水が溢れ出して来れば成功らしい。肉球を魔法陣に乗せて目を閉じ、集中する。
まずは魔法陣から魔子が流れ込んでくる感覚を覚えなければならない。掌から体へ、慣れないうちは血液が流れるのを感じるといいようだ。それが出来たら、その血液が水となり魔法陣へ流れ込み、中心から水が溢れ出す場面を想像する。
本にはそう書かれているのだが、一向に何も感じない。いったん中断して俺の描いた魔法陣と本の魔法陣を見比べてみる。
俺の魔法陣はかなり形が歪だ。円も歪んでいるし、模様も所々で繋がったりしている。たぶん、失敗だろう。
何枚か書き直してみて、一度だけ魔法の粒子が魔法陣に集まる光景を目にしたが、すぐに拡散してしまった。
失敗が続いていたが、魔子が集まるのを見て魔法陣の作成自体は間違っていないと分かってひとまず安心する。きっとへたくそなだけなのだろう。
前世で絵なんてほとんど描いたことがなかったし、猫の姿ならなおさらだ。もし本の魔法陣を寸分の狂いなく模写しなければならないとかだったら詰みだなこれ。
どの辺を修正すればいいのか、どうやったら上手くなるのかなどは本からでは読み取れない。せっかく同室にいるのだしミクロアに教えを乞いたいところだが、昨晩弁当を爆発させた負い目もあって、仕事を中断させてまで俺のために時間を取らせるのは躊躇いがあった。
彼女の機嫌を損ねてしまえば最悪、ペットドアを塞がれかねない。
時刻は夕暮れ時。ここは一度ジャスタに経過報告も兼ねて師事を願いに行くとしよう。
と、いうわけでこれまで俺が作成した魔法陣と疑問点などを書いた用紙を持って、俺は仕事が終わるであろう時間帯に図書室を訪れていた。
軽く探してみると本を物色しているジャスタを発見した。あちらもすぐ俺に気が付き、近づいてくる。
「おぉ、さっそく来たか。どうだ、勉強は進んでいるか?」
ジャスタの問いかけに俺は用意していた紙を差し出す。それを数枚めくって眺めると、驚き目を見開く。
「まさかもうここまで……これは本当にお前が描いたのか?」
もちろん、と俺は頷いた。疑われるのは心外だ。前世でだって勉学や仕事に対して不正は一度もしたことがないんだぞ。
「うぅむ、これは予想以上だな。よし、ひとまず奥の部屋へ移動しよう。詳しい話はそこで――」
不意にジャスタは言葉を切って視線を上げ、俺の背後を見る。何事かと振り返ればそこには一人の男が立っていた。
白髪で顔には堀の深い皺がいくつも刻まれているが、口元にはくるんと丸まった白い口ひげが添えられている。年齢は五十を超えていそうだが、背筋はピンと伸びており厳格な雰囲気を身に纏っている。
「これは、クルント副所長。お疲れ様です」
ジャスタは姿勢を正し、恭しく頭を下げて挨拶を述べる。しかし、相手はそれを無視して俺のことを不快感の籠った瞳で見下ろしていた。
「こやつがエクルーナの使い魔か……部下も揃って動物と遊んでおるとは、たるんでおるな。まったく」
どうやら副所長であるクルントは俺の存在を、というよりはエクルーナ所長がやっていることに対して気に入らない様子だ。もしかしたら権力争いとかで色々とごちゃついているのかもしれない。
ここはエクルーナ所長の顔を立てるためにも、ちょいと媚を売っておくか。
俺はクルント副所長へと歩み寄り、程よい距離で前足を持ち上げて二足で立つ。そうして前足を前で揃え、45°を意識してお辞儀してみせた。
本当なら手は身体に沿って伸ばしておくのが綺麗なのだが、猫なら手の位置はこっちの方が印象はいいだろう。
たっぷり五秒、頭を下げてから顔を上げると、クルントは瞠目し、しばらく俺を見つめてから我に返った様子で鼻を鳴らす。
「ふん、躾だけはしっかりとしているようだな。だが、施設の中を汚さないよう注意しておけよ」
それだけ言ってクルントは去って行った。どうやら嫌味を言いに来ただけらしい。
「では、我々も行こうか」
ジャスタは慣れているのか、何事もなかったかのように話を戻したので俺もそれ以上は気にすることなく、当初の目的に意識を戻した。
以前にも使った個室でジャスタから教示を受ける。それで分かったのは、魔法陣は結構適当に描いても魔法の発動自体はできることだった。
もちろん、難易度が上がればそれだけ精密度は必要になってくるが、初級――いわゆる一般魔法に関してはかなり融通が利くとのこと。なら、どうして俺の魔法陣は失敗したのか。
それは描き方が関係しているそうだ。俺は魔法陣を上手く描こうとするあまり、一か所で数秒止まったりしていた。
そうすると、その箇所だけ魔子が濃くなり、魔子の変換命令が上手く作動しなくなってしまうのだそうだ。考え方としては血管が詰まるような感じに近いだろうか。
なので、魔法陣を描く時は魔子が均一になるよう意識しなければならないらしい。確かに魔法陣を描く時は止まらずに、と書かれていた気はするが、理由までは書いてなかった。
不服そうにしていたのがジャスタに伝わったのか、描き方のコツを教えてくれた。
魔法陣は属性によって構造は決まっているらしい。火属性なら三角、水属性なら丸などなど。絵で言う構図的なモノだろう。それを理解すればかなり描きやすくなるらしい。
「初めは上手くいかなくて当然だ。初級でも、本来なら専門の機関で一年かけて勉強するのだ。これだけ描ければお前もそのくらいで習得できるだろう。焦らず訓練を続ければいい」
そう言いながらジャスタは俺の頭をポンポンと撫でる。一年か、結構長いな……。いや、魔法なんていうとんでもない技術が使えるようになるんなら短い方か。
その後も色々教わりながら、夜は更けて行った。
一時間という約束だったが、興が乗ったのかジャスタは約束の時間よりも長く俺の教育に付き合ってくれた。おかげで魔法についての理解が深まったが、久しぶりに本気で脳みそを使ったからか、ミクロアの部屋へ戻る頃には疲れてへろへろになってしまった。
ペットドアを潜り抜けて、一応ミクロアの方を確認しておく。まあいつものように仕事をしているだろう。そう思ったのだが――。
いつもより照明の弱い室内には月明かりが差し込み、その光を避けるようにして水の塊が浮かんでいた。
その中にはミクロアの姿があり、膝を折り曲げ背中を丸め、まるで宇宙空間を漂うような姿勢で水玉の中に浮かんでいた。しかも、全裸で。
それを確認した瞬間、脱兎の如く駆け出し外へ飛び出す。
あぶ、危ない! もう少しで見えるところだった! 色々と大切な所が!
猫の姿になってから自分に課した禁止事項の一つ、それが覗きである。
相手は俺のことを普通の猫として認識しているので覗かれた所で気にしないであろうが、俺だって常識的な社会人だ。自分の立場を利用して犯罪行為に及ぶほど腐ってはいない。
それを、あと一歩で禁忌を破るところだった。危ない危ない。まさかあんな風呂の入り方があったとは。通りでたまに床がびしゃびしゃになっていると思った。
これまで全然気が付かなかったが、どうやら俺が眠った後で入浴していたようだ。俺の目線を意識して、とかではなく風呂に入ろうと思う時間帯が俺の眠った後なのだろう。
というかアイツも仕事場で何やってんだ。いくら真夜中だって言っても無人じゃないんだぞ。
それから俺はどこか気まずくなってしまい部屋の中へ入るに入れず、結局その日は外で眠ることになった。
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