変質
腰の入った一撃をもろに受けて、ノーレンスは派手に倒れ込む。
重鎮じゃなくなった途端に全力で殴るなんて、これまでよっぽど鬱憤が溜まっていたのだろう。気持ちは分かるし状況としても殴っていいだろうが、得体の知れない魔法を使う相手にその行為は危険だ。
殴りつけられ唖然とする彼を見下ろしながら、レノアは言い放つ。
「これ以上、娘やお店に手を出すつもりなら――容赦はしません」
これまでのレノアからは想像もできないほどに冷たく敵意の籠った声に、ノーレンスは怒りを露に立ち上がる。
「貴様、このワタシを誰だと思っているのだ! もう許さぬ、貴様は殺す!」
再びノーレンスが呪文を発すると、不可視の鞭が攻撃を繰り出す。レノアはそれを大きく横に飛んで回避すると、一気に相手の懐に飛び込んで顔面を殴りつける。
鼻血を噴いてよろけながらも、ノーレンスは反撃の呪文を唱えようと口を開けるが、拳が的確に身体へ叩き込まれて上手く言葉を発せられずにいた。
『いいぞー!』『そのままやっちまえー!』
「頑張れー、お母さん!」
周りで見ていた猫たちやいつの間にか店から出て来たアリィが野次を飛ばす。堪らずノーレンスが拳で反撃を試みるが、レノアはそれを軽く躱してカウンターを腹に叩き込んでいた。
繰り出される攻撃はどれも鋭く、一般のパン屋の、それも女性が出せる動きとは思えないほどに切れのあるパンチだった。
会心の一撃がノーレンスの顎を貫き、盛大にひっくり返る。仰向けに倒れ込んだノーレンスは白目を剥いて完全に気を失っているようだった。
そんな彼を一瞥して、レノアは颯爽と店の方へと戻って行った。
「お母さん、すごい! かっこよかった!」
娘からの直球な称賛に少し照れたような笑みを浮かべながらも、レノアはアリィに言った。
「あそこで倒れている騎士さんの手当てをしてあげて」
「うん! わかったよ!」
元気に頷き、騎士の方へと駆けていくアリィを見送ってから、呆然と立ち尽くすウェンスへ声をかける。
「お怪我はありませんか?」
「え、あ、はい。おかげさまで……あなたこそ、大丈夫ですか」
「えぇ、あの程度なら……お恥ずかしい所を見せてしまいましたね」
「いえ、滅相もない。お見事でしたよ」
気遣いの言葉を掛け合った後、ウェンスはノーレンスへと視線を向ける。
「とにかく、彼を拘束します。なにか縛れる物を」
むくり、とノーレンスが立ち上がる。気絶していたはずだが、もう目が覚めたのか。そう思ったが、違った。
ノーレンスは未だに白目を剥き、明らかに意識はなさそうだった。それなのに立ち上がり、空を仰ぎ見ている。
「うぅぅ、あっ、ぐがが、ガッ!」
苦し気な声を発しながらノーレンスは身体をくねくねとよじり始める。何をしているのかと警戒していれば、ボコリと背中が膨れ上がり、皮膚を突き破って触手が数本、飛び出して来て瞬く間にノーレンスを包み込む。
くぐもった絶叫と骨の砕ける音を響かせながら、触手は色を白く変色させていく。数秒も経てば、小太りだった男は細く背の高いスレンダーな体系の、全身を白いタイツで纏ったような姿へと変貌した。
ゆらりと、ノーレンスはレノアたちに向き直る。目も鼻も口も、耳さえもなくなった顔が縦に裂け、左右に開くとそこからは濁ったような虹色の、大きな目玉が現れた。
『なんだ、ありゃ……?』
隣でシャム猫が疑問と戸惑いが混ざった声を漏らす。俺にだって分からない。あんな見ているだけで毛が逆立つような異様な生物、前世でだって見たことがなかった。
そのはずなのに、何かが引っかかる。記憶の奥では、どこかでアレを見たことがあるのでは、という思考が働いていた。
「ウェンスさん。下がっていてください」
レノアが声をかけると、ウェンスは後ずさるようにしてノーレンスから距離を取る。レノアは両手を持ち上げ、ファイティングポーズを取り、戦闘態勢に入った。
周りで成り行きを見守っていた住民たちも、得体の知れない存在に声すら出せないでいるようだった。
息の詰まるような沈黙が辺りを包み込む中、今度はノーレンスの腹部が縦に裂け、歪な牙が並んだ大きな口が開く。
「レノ、ア。ムスメ、ヲ……」
高いような、低いような声が腹から発せられる。それはもうノーレンスの声とは似ても似つかないほどに耳障りな物だった。
「ワタ、セ」
そう言った刹那、ノーレンスの肩と脇腹部分から触手が伸びる。まるで予想だにしていなかった攻撃に、レノアも反応できなかったのか、避けられずに首と右腕に巻き付かれた。
俺がヤバい、と思った刹那、レノアに絡みついていた触手が切断される。ウェンスが小刀を手に、触手を切り裂いたのだ。触手はノーレンスの元へと戻っていき、再び身体の一部に収まる。
「助力が遅れて申し訳ありません。ここからはワタシも戦います」
「戦えるんですか」
「これでも領主に仕える身。ある程度は戦闘の心得があります。今は護身用のナイフしかないので、お役に立てるかわかりませんが」
そんな会話を交えている間に、レノアに巻き付いていた触手は塵のように空気に溶けて消えてしまった。
自在に形を変えられる身体に、消える部位。何から何まで得体が知れない。
「とにかく、奴をなんとかしましょう。生死は問いません。責任も、ワタシが取ります。どうぞ全力でお願いします」
「……わかりました」
ざわ、とレノアの周りで風がざわめき始め、キラキラとした魔法の粒子が舞う。それを見てか、ノーレンスも警戒するように身を低くし、四つん這いになった。ボコボコと背中の表面が膨れ上がり、五本の触手が現れる。
それらが一斉に、レノアとウェストへと襲い掛かった。レノアが両手を前へ向けると、魔法の粒子が壁となり触手たちを妨害する。
ウェストは魔法の防壁から飛び出すと、攻撃を防がれてまごつく触手たちの影に隠れながらノーレンスへと接近する。
どこか動きが鈍く、反応がしきれないでいるノーレンスの首をウェストは振り下ろす小刀で容赦なく切り裂いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます