とある母親の覚悟
亡命し、連れてこられたアルラッド帝国で、様々な審査を経て三年後。私たちは新たなる国民として迎えられた。
生活に必要な最低限の資金と職を与えられて、働きながらお店を開くための貯金や勉強を積み重ねて行った。
見知らぬ土地、それも敵国だった場所での生活はとても険しく厳しかったけれど、私たちは懸命に努力した。
彼はパンのことに詳しくて、時間がある時はいつも作り方を教わっていた。これがなかなかの重労働で、それも慣れない動きをするものだから私はすぐに音を上げてしまっていた。
「パンなんて、魔法を使った方が簡単だよ」
私は楽をしようと魔法で操作した板でパンを捏ねた。すると彼は優しい口調で諭すように言う。
「ダメダメ、しっかり手で捏ねないと」
「どうして?」
「手で捏ねるとね、生地に色んな想いを乗せられるんだ。愛情が籠る、と言った方が分かりやすいかな」
「……愛情。そんなもので味が変わるとは思えないけど」
そもそも親に捨てられて、戦場しか知らなかったその時の私には愛情なんて言葉を理解することができなかった。そんな私に彼は続ける。
「自分のパンを食べて笑顔になってくれる人のことを思い浮かべるんだ。美味しいって言ってくれる姿を」
言われて真っ先に思い出したのはアウトラーゼで夢を語り合った仲間たちの顔だった。
彼の作った料理をおいしい、おいしいと笑って食べていたあの表情。けれどあれはまともな食べ物がなかった場所での出来事だ。きっとまともな食べ物があればなんでも同じ結果になっただろう。
「……でも、やっぱり魔法で作っても同じだよ。パンはパンだもん」
「なら、一度比べてみよう。魔法と手ごねで作ってみて」
内心では疑いながらも言われるがままにパンを焼いた。そうして出来上がったパンは、明らかに違っていた。手でこねたパンは柔らかくフワフワしているのに対して、魔法で作った方は少し硬い。フワフワ感も劣っていた。
「手でこねた方がおいしい」
「そうだろう。愛情は魔法と同じかそれ以上に大切な要素なんだよ」
にこりと嬉しそうに笑った彼の笑顔が、とても印象深く私の頭に残った。
それから気づけば五年の月日が経っていた。夫となった彼との生活は安定し、私のパンの腕も、夫の仕事仲間から好評を貰えるくらいには上達していた。
本格的にパン屋を開く準備を始めた直後、私は彼との子供を身ごもり、そうして生まれたのがアリィだった。
私と同じ長い耳と髪の色、顔立ちも私に似ていると、彼は笑っていた。なら性格はあなたに似てるといいね。そうやって語り合った。
アリィを育てながら最低限のお金が貯まるまでさらに三年。私たちが出来る準備は整い、いよいよ開業願いを申請するため領主様の元へと赴く。
領主様の住んでいる屋敷に入り、物々しいほどに豪奢な部屋の中では恰幅の良い、いかにも人の良さそうな男性が待っていた。当時のミルナード領主だったパウワーは、私たちの名前を聞いて目を見開いた。
「ほお、そなたらがアウトラーゼからやって来た亡命者たちか」
「はい。ですがもうあの国とは何の関係もありません。もし怪しいと思うのであれば調べて貰えれば……」
「よい、よい。そなたらの疑念はすでに晴れておる。何かを画策している人間が、わざわざ子などこさえるわけもあるまい」
その物言いにどうやら私たちは、少なくとも三年前までは監視されていたことを悟った。まるで気が付かなかったけれど、別に気にすることでもない。
「元より皇帝陛下が民であると認めた者たちに、とやかく言うつもりはあるまいよ」
はっは、と大仰に笑いながらパウワー様は言った。どうやら懸念していた元敵国の人間だから問答無用で追い返される、という最悪の事態は避けられたようだった。
「それで、そなたらの要件はなんだ?」
彼が事情を説明する。パウワー様は神妙な面持ちで聞き入り、話が終わると得心顔で頷いた。
「なるほど、店を開くのは構わぬ。後で許可証を書いて持って行かせる。して、資金の方は問題ないのか?」
「出来ることなら工面してもらえればと」
最低限の資金は用意してあるけれど、店を構えるとなると国からの援助は必須だった。開業許可と援助、その二つを目的にここへ来たのだ。
「貸し付けるのは構わん。挑戦者への支援は惜しむなと、皇帝陛下からのお達しだ。ただし、持ち逃げは許さん。返済の期日は守り、街へ貢献するよう働け」
「はい、必ず」
「うむ、では後に使いの者を出す。詳細はその者を通しなさい」
こうして無事にお金を借りることが出来た私たちは、空き家を買って改装し、ようやく念願のパン屋を開店した。
初めは上手く行かないことばかりで、問題もたくさんあったけれど、彼と力を合わせて、アリィに元気を貰いながらも順調にお店は成長していた。
軌道に乗り始めた矢先、町全体を揺るがす大事件が起きた。パウワー様が殺されたのだ。
ミルナードの町は混乱を極めて一時期はかなり荒れた。その騒動に巻き込まれたのか、彼は事故で命を失った。暴走した馬車に轢かれて。
あまりにも唐突に訪れた災難。これまで数々の死線を乗り越えて来たはずなのに、あまりにもあっけなさすぎる彼の死。
けれど嘆いている暇は微塵もなかった。これからお店とアリィを私が守っていかなければならないのだ。
彼と築き上げた私の大切な物。彼の果たせなかった夢を、パンをたくさんの人に届けるという夢を、これからは私が引継ぎ実行していくのだ。
けれど現実は残酷で、困難は想像以上に早く私の前にやって来た。新しい領主が決まった直後、領主から使わされたという男──ノーレンスがお店にやって来て告げた。
「貸した金を一年以内に返せ」
突然の宣告に、せめて期限を延ばしてくれと頼んだ。けれど私の懇願は一蹴される。
「黙れ。お前に選択肢はないんだよ。分かるだろ? 新しい体制になって金が要るんだ。用意できなければ……娘を貰っていく」
それだけ言い残すと私が反論する前に男たちはそそくさと帰っていく。
このままではお店どころか娘まで失ってしまうと、私は死に物狂いで働いた。
けれどそんな私の行動とは裏腹に、暗殺騒動で今までお店に通ってくれていた夫の友人や知人は他の街へ行ってしまい、客足はアリィを学校へ通わせる分とお店を維持する分でいっぱいいっぱいなまでに減ってしまった。
これでは到底、一年以内に残りの借金分のお金を貯めるなんて不可能だった。私だけじゃ、両方を守ることは出来ない。それならせめて、アリィだけでも――。
そう決意を固めようとしていたタイミングでの手紙だった。猫のパンを作ってくれという要望、加えてヨゾラという助っ人。
おかげでお店は盛況を取り戻した。奇跡としか言いようのない出来事だったが、お店とアリィを守れるのならなんだっていい。このチャンスを必ず生かして借金を返済するのだ。
例えこの好機が、誰かに仕組まれていたとしても、いずれ対価を支払うことになろうとも、私はこの策に縋るしかないのだから。
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