とある母親の過去

 ここ最近、お店は好調だった。これまではほとんどが売れ残っていたパンたちは、昼を過ぎれば半数以上がなくなり、閉店を迎える頃には完売に近い状態が続いている。


 転機は数日前にアリィが持ってきた一枚の手紙。誰が書いたのかは分からない。アリィが言うには、朝に外へ出ようとしたときドアの隙間に挟まっていたのを見つけたそうだ。


 お世辞にも上手だとは言えない猫の絵がいくつか描かれており、その絵へ矢印が伸びていた。その根元には『猫』『姿』『パン』『求める』と単語が並んでいた。


 不可思議な内容の手紙だったけれど、それが猫型のパンが欲しい、という要望なのだとすぐに気が付いた。


 文字自体は綺麗なものの、拙い文章と絵から察するにきっとどこかの子供が書いたのだろう。お客さんの中にこの手紙を書きそうな子供の顔は思い浮かばなかったけれど、借金の返済に加えて客足の伸びない経営に行き詰っていた私はさっそく手紙の通りにパンの形を変えてみた。思い切ってほとんどのパンを猫の姿へ。


 最初は何かが変わるなんて期待はしていなかった。ただ、手紙を出してくれた子が喜んでくれるだろうと、それだけだ。


 そろそろ借金返済のために他の仕事を探そうとしていたから、お店を畳む前に、誰かに喜んでもらえればと思ってのことだった。


 けれどその日を境に、ポツリポツリとお客さんは増えていき、一ヵ月も過ぎた頃にはお店の中は人でいっぱいになった。


 これまで色々試しても改善されなかったのに、パンの形を変えるだけでここまで状況が良くなるのかと驚いた。


 いや、きっとそれだけじゃない。アリィが助けた黒猫――ヨゾラが店に居着いてくれたのもお客さんが増えた要因の一つだと私は思っている。


 現に来店したお客さんが「猫に誘われて来た」と言っていた。たぶん、店の前にいたヨゾラを見に来て、そのついでにパンを買いに来てくれたのだろう。


 手紙とヨゾラ、その二つが偶然に重なって生まれた幸運によってお店はなんとか持ち直せそうだった。この調子でお客さんが増えて行けば借金も返済できそうだ。


 降って湧いたようなチャンスに感謝する。そして何よりあの人と作り上げたこのお店を続けられるという事実が嬉しかった。


 事故で死んでしまった愛する夫との、大切なお店。


 そもそも私がパン屋を始めたのは、夫に誘われたからだった。


 出会いは戦場。当初、まだ幼かった私は魔法が使える希少人種として親に売られ、アウトラーゼという小さな国の使い捨ての兵隊として戦っていた。


 アルラッド帝国、なんて名前しか知らない兵士たちと、来る日も来る日も魔法を使って殺し合った。悲鳴、憎悪、苦痛――それらの情報が、戦場から離れてもずっと聴こえていた。


 魔法の使える、というより耳の長い人間は、みんな聴こえるらしい。以前、私より何歳も上の人から教えてもらったのは「この耳は世界の声を聴いている」のだそうだ。


 小さく貧しいアウトラーゼでは、国民はもちろんのこと、兵士にも充分な食料が行き渡っておらず誰も彼もが飢えていた。


 空腹と死への恐怖で気が狂いそうになりながら戦い続け、当初配属された部隊が壊滅した後、代わりとして配属された部隊に彼はいた。


 過酷な環境の中で生きているにも関わらず、その部隊はみんながみんな穏やかで、中でも彼はとびきりに優しかった。少ない固いパンと希少な塩や肉を寄せ集めて、みんなに料理を振舞っていた。


 料理、と呼べる物を口にしたのはその日が生まれて初めてで、思わず涙が零れ墜ちたのを今でも覚えている。そんな私を、彼がそっと抱き締めてくれたことも。


 それから戦火は激しさを増す一方で、私たちは力を合わせて戦地を生き抜いていた。


 それでも一人、また一人と命を落としていく。そんな最中、不意に将来の夢の話になった。


 将来、つまり戦争が終わって平和になった後のこと。町へ残してきた女性との結婚や親の家業を継ぐなど、仲間たちは各々に胸の内を明かしていく。


「俺はパン屋を開きたい。ひもじい思いをしている人たちへ美味しいパンを渡すんだ」


 そう、彼は言っていた。そうして私の番が回ってきたとき、私は何も答えることができなかった。だって私は、戦場しか知らなかったから。


「なら、俺のパン屋を手伝ってくれよ。君が売り子をしてくれたら商売繁盛間違いなしだ」


 彼と一緒にパンを売る姿を夢想し、とても楽しそうだなと思って、だから私はコクリと頷いた。彼は嬉しそうに、けれど照れくさそうに頬を赤めながら笑い、周りのみんなは私たちのことをもてはやす。


 それが最後にみんなと笑い合った記憶だ。


 戦況は刻々と悪化していき、追い詰められたアウトラーゼは捨て身の反撃を決行する。それはほとんど自爆に等しい作戦で、第一陣、第二陣と先行していった部隊は誰一人として帰ってくることはなかった。


 私と彼は第三陣として出撃することに決まって、いざ、作戦が実行されるとなった前日、彼は私が寝泊まりしているテントにやってきて告げた。


「レノア、俺と一緒に逃げよう。このまま死ぬなんて、嫌だ」


 夢を語り合った仲間たちはもういない。全員、第一、二陣に選出されてすでに帰らぬ人となっていた。


 私たちだけ逃げてもいいのか、仲間たちは言葉の通り命を賭して戦ったのに。


 罪悪感に苛まれながらも、迷いと葛藤はほんの一瞬だった。彼の覚悟の籠った真っすぐな視線に射抜かれて、私は自然と頷いていた。


 作戦が始まり、私たちは死地へと辿り着く。瞬間、辺りは地獄と化した。敵軍から降り注ぐ魔法の数々、それらは地上のみならず空からも降り注ぎ、アウトラーゼの兵たちを無慈悲に容赦なく肉塊へと変えていった。


 数も質も明らかに違う圧倒的な戦力差を前に、私と彼は生き残ることを第一に、アウトラーゼの兵たちから気づかれないよう細心の注意を払いながらも戦場を逃げ回った。


 それでも生存は容易でなく、幾度となく死を覚悟した。けれどもともと無茶な作戦――アウトラーゼ特攻部隊第三陣は一刻も経たずに壊滅し、戦闘は終結した。戦いの後処理に来た敵兵へ、私と彼は投降した。

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