シャム猫と少女
目を覚ますと薄暗い場所にいた。ここはどこだろうと、周辺確認のために顔を持ち上げようとすれば全身に痛みが走り、動くのを諦めた。
やってしまった。まさか、いきなり事故に遭うなんて……相手が馬だったからか、俺が猫だったからかは分からないが、一切の躊躇もなく轢かれた。
猫になってある程度は反射神経が上がっているが、自分の何十倍もある物体が猛スピードで迫って来て咄嗟に避けられるほど、前世でも今世でも修羅場をくぐってはいない。
幸い死は免れたようだが、野生の身で動くことが出来ないほどの重傷を負ってしまった。一番避けなければならなかった事態。これはもう死んだも同然なのではないだろうか。
あとはカラスや鼠に生きたまま喰われて、俺の猫生は終わるのだろう。それならいっそ、一思いに即死しておいた方がマシだった気がする。
そこでふと、自分が狭い空間に収まっていることに気が付く。身体の下は柔らかな感触、これは毛布だろうか。天井は低く、布のような物が被せられている。
ここは、箱……いや籠の中か? どうやら事故に遭った後で誰かに拾われたらしい。もしかすると屋内にいるのかと期待したが、籠の網目から垣間見える景色は普通に野外だった。上からは小鳥の囀《さえず》りも聞こえてくる。
動くことも出来ず、痛みに耐えながらボーっと過ごしていると籠の外に気配を感じた。これは、人間じゃない。猫だろうか。
その気配は真っすぐに俺の方へと近づいてくると、天井の布に潜り込み覗き込んでくる。
『よお、生きてるか?』
現れたのはシャム猫だった。ガラガラ声で問いかけてくる。
『……あぁ、なんとか』
痛みを堪えながら答えると、シャム猫は愉快そうに話を続ける。
『見た感じまだ子供だな? 親はどうした。はぐれたか? 人間が歩き回る道に出るなって教わらなかったのかよ』
『……教わらなかった』
生まれは森の中だったし、母猫も町の歩き方は知らないだろう。完全に俺の不注意が招いた結果だ。正直、ちょっと浮かれていた。
『アハ、アハ、しかしお前は運がいいぜ。アリィに助けて貰ったんだからよ』
独特な笑い方をしながら、シャム猫が言う。
『ア、アリィって……?』
『人間だよ。お、ちょうど来たみたいだ』
シャム猫は箱から離れて甘えた声を出す。それに、女の子の声が答えた。
「××――××――」
けれどやはり言語を理解することは出来なかった。
軽い足音が近付いて来たかと思えば、布が取り払われて女の子が顔を覗かせた。
薄い金髪に緑っぽい眼の色をした、とても可愛らしい少女。この子がアリィだろう。年齢は小学校低学年くらいか。
彼女の少し癖の付いた長髪が、籠を覗き込んだ拍子に俺の鼻先まで降りてくる。そこからはほんのりと、嗅ぎ覚えのある良い匂いがした。少し考えて、それが焼き立てのパンの匂いだということに思い当たる。
「××――××――」
子供にしてはしっかりした口調と声でアリィは俺に向かって何かを言う。そうして次に現れたのはパンの切れ端だった。
幼女の手と共に降りてきたパン切れが鼻先に触れたので、舌を出して受け取った。口の中に入ったパンは柔らかく食べやすい。きっと牛乳(この世界に牛がいるかどうか知らないが)に浸したのだろう。濃厚な味が口いっぱいに広がった。
う、美味い。生肉や虫なんかと違う、慣れ親しんだ味だ。
久方ぶり、というか猫になって初めての文化的な食べ物に、思わず涙が出そうになる。というか出ていたかもしれない。死にかけているのだからなおさら骨身に染みる。
さらに数回パン切れが運ばれて来て、空腹感がなくなった頃、すぐ横で「ナ゛-」としゃがれた猫の鳴き声がした。先ほどのシャム猫だろう。
「××――××――」
アリィは俺から顔を背けて、外のシャム猫に構い始める。彼女の姿が見えなくなった途端、まるで迷子にでもなったかのような心細さを覚えた。
精神年齢三十の男がなんともみっともないと思ったが、それでもこの感情はどうしようもなかった。見知らぬ町で事故に遭ったのだからこれくらいの甘えは許してほしい。
もっと顔を見ていたい。その願いが届いたのか、アリィが再び箱を覗き込んだ。そうして俺の頭を優しく撫でてくれる。
「××――××――××――」
再び俺に何かを語りかけるが、何を言っているのか分からなくて反応できない。
するとアリィは両手で俺の身体に触れた。撫でているわけではない。添えるような感じだ。何をするのかと訝しんでいると、彼女の両手がほんのりと輝き始める。
アリィは素手だ。光を放つような機械類を身に着けている様子はない。そもそも、光は彼女の内側から発せられているようだった。そして光はまるで意思を持っているかのように手から俺の体に流れ込み、暖かく心地の良い感覚が。
そう思った直後、全身を激痛が駆け巡った。まるで体の内側に手を突っ込まれて骨を動かされているような、そんな不快感を伴う激痛に俺は叫び声をあげる。
「××――! ××――××――!」
訴えかけるようにアリィは何か言葉を発するがそれどこじゃない。
痛い、痛い、痛い! もうやめてくれ! 俺は抵抗の意志を込めて彼女の手を引っ掻くが光は収まらない。ならば逃げようと試みるも、ぐっと体を抑え込まれてしまいそれも叶わなかった。
痛みで意識が飛びそうになる寸前、ようやくアリィは手を放し、痛みが引く。代わりにやって来たのは果てしない疲労感。労うようにアリィが優しく俺を撫でる。
彼女の手に俺が抵抗した時に付いてしまった傷が見えたが、罪悪感は覚えなかった。何をしたのか知らないが、俺を助けてくれたであろう相手を傷つけても、今の俺には怒りしか湧いてこなかった。それほどに痛かったのだ。いや、本当に何をすれば触れただけであんな激痛を与えられるんだ……。
もしかしたらこの娘は動物を痛めつけることが大好きなサイコパスなんじゃないだろうか。そんな不安が込み上げて来たタイミングで、彼女は小皿を二つ俺の顔の横に置く。その上には水と、細かくむしったパン切れが盛られていた。
「××――××――」
そうして、再びアリィは俺に何かを告げると去って行った。さっき感じた寂しさはなく、むしろいなくなってホッとしたくらいだ。
入れ替わるように、シャム猫が顔を覗かせた。
『よお、かなりこっぴどくやられたみたいだな』
からかうような軽薄な言葉に苛立ちが増す。だが動くことが出来ない以上、素っ気なく応えることしか不服を訴える方法がなかった。
『本当だよ。クソ……こっちが動けないことをいいことに……』
『まあ、そう怒んなって。きっとアリィに感謝することになるだろうぜ』
『まさか。誰があんな悪魔みたいなヤツ』
『アハッ、アハッ、最初はみんなそう思うよな。ま、明日になったらわかるからよ。それまでゆっくり寝とけ』
そう言って、シャム猫は皿の上からパンをいくつか食べると去って行った。一人残された俺は、さっきの理不尽な痛みの疲労からか眠気に襲われ、そのまま眠りに落ちた。
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