第5話
「とりあえずはぁ、怪我の手当てが最初かなぁ?」
魔女に導かれるままに真っ暗な荒屋の中に入ったノアは、近くにあった山積みの本の上に座らされた。
『本は先人の心であるために絶対に粗末に扱ってはいけない。敬意を持って接するように』と教わっていたノアにとって、本の上に座るという行為は驚きと罪悪感を伴うものだった。
ならば普通に椅子に腰変えればいいと思うが、残念。
このお家、ノアの想像と観察から見て多分椅子という物が存在していない。
魔女はばんざいをするようにジェスチャーをされたノアは、大人しく魔女の言葉に従う。
パサッという軽い音と共に、上半身からパジャマが抜き取られた。ズボンを上の方に捲り上げられながら、ノアは昨日までは真っ白だった肌が赤黒い血で汚れているのをどこか遠い出来事のように感じた。
「うわぁ、痛そぉ」
魔女の軽い言葉にこれが現実の出来事であることへの実感を僅かに持ったノアは、しなやかに筋肉のついた身体に散らばる傷跡にぐりぐりとアルコールを含ませた脱脂綿を当てられる感触に顔を顰め、これが現実であることへの実感を強めた。
『痛そう』と言いながらも、魔女はノアに手加減をしてくれない。
脱脂綿を当てる不慣れな手つきは危なっかしいのに加え、力加減というものを知らないらしい。傷口を抉られるような感触は多分、本当に傷口を抉られている。
「あれれぇ?血が出てきちゃったわぁ」
呑気な言葉に、ノアは無になることにした。
———これは痛くない。これは痛くない。これは痛くなくない。これは痛くないこれは痛くないこれは痛くないこれは痛くなくい………!!痛い!!
新たな傷口をアルコールで拭かれるたびに、全身がビクッと震える。
目にはうるうるとしたものが溜まり、視界が歪んでくる。
「はぁい、おしまぁい。よぉく頑張りましたぁ〜」
魔女の言葉とノアの頭を撫でる仕草に体の力を一気見抜いたノアは、歪でゆるゆるに巻かれた真っ白な包帯に苦笑する。
「あらあらぁ〜、
「………………、」
あまりの言いようにすんと無表情になってしまったノアは、けれど楽しそうにくすくすと笑う魔女に溜め息をついてから立ち上がった。
靴も履かずに走り回ったせいで切り傷や刺し傷まみれになった足には膝下まで、矢が掠ったことによる擦過傷がある太ももには部分的に、ナイフが刺さった腹部はぐるぐると全体を埋め尽くすように、足同様に矢やナイフによる擦過傷の多い腕にも部分的に、そして大きな石がぶつかったことによって生え際に大きな傷ができた頭は髪に埋もれるように包帯が巻かれた。
その傷口にも丁寧に軟膏が塗られ、薬草特有のツンとした刺激臭が身体を覆っている。
「それでぇ?ノアは何が欲しいぃ?」
魔女に投げかけられた脈絡のない問いかけに、ノアは首を傾げ、そして無難な返答をした。
「………健康?」
魔女は一瞬目を見開いてそれからころころと笑い始めた。
「ふふっ、ふふふっ!」
まるで止まれないとでも言いたげな笑い方をする魔女は、黄金の釣り上がった瞳の端にきらりと輝くダイヤモンドみたいな雫を指で優しく救いがなら、身体を前に倒して笑い続ける。
「………魔女、さま?」
「ん?ふふっ、だめ。笑うの止められないわぁ。ふふっ、ふふふっ!」
紫のリップが塗られた艶やかなくちびるから溢れる笑い声は、まるで鈴が転がる時に鳴らす軽やかな音色のようだった。
それからしばらく、魔女はとても楽しそうに笑い続けた。
この世にこれ以上面白いものはないとでも言いたげな笑いは、魔女の家の汚さによって僅かに沈んでいたノアの心を軽くした。
「はぁ〜、ひさびさにいぃーっぱい笑ったわぁ」
「………………、」
「お前は本当に可愛いわねぇ。今どきここまで過保護に育てられる子なんていないんじゃないのかしらぁ?それともぉ、今の時代はこれが一般的ぃ?」
「………分かりま、せん」
「そっかぁ」
のびのびと欠伸をするかのように言った魔女は、ノアにその黄金の美しき瞳を真っ直ぐと向けてくる。
ノアの後ろにあるものではない、ノア自身を見つめるその瞳は、どこかくすぐったくてどこまでも眩しい。
———僕の人生で、僕自身をこんなに真っ直ぐ見てもらえたことってあったかな………、
髪と同じ白銀の長いまつ毛がゆっくりと揺れるのを眺めながら、ノアはだいぶ慣れてきた澱んだ空気の荒屋をどうしようかと思考を回す。
幸い、ノアは教育係の意地悪な方針によってありとあらゆる物事に関する知識を、その明晰な頭脳に叩き込んでいる。よって、掃除の仕方やお片付けの仕方、お料理の作り方、洗濯なども知識だけならば持っている。
そう、知識だけならば。
———剣術もだけど、口に出していうだけならば簡単なことも、実際にやるとなると………。
自分がバケツを頭から被り、箒に足を絡ませてすっ転ぶ場面を頭に浮かべたノアは、フルフルと首を横に振る。
———ここまで酷くはならない………はず。
「ノアぁ?」
「………なんでもない、です」
「そっかぁ〜」
魔女はのほほんと笑うと、ごろんがしゃんという音を立てながら荒屋の中を歩き回り、何かを手にして帰ってきた。
「200年ぐらい前にぃ旅人にもらった保存食よぉ〜。まだ新しいしぃ、これなら食べられるんじゃないかしらぁ?」
———200年………、
ノアは貰った缶詰の古さに若干引きながらも、とりあえず開けてみる。
剣術の野営訓練の時に1度だけ口にした缶詰の構造を思い出しながら開けてみると、中からは想像通りの腐った香りが漂っている。
「………………」
———これは、魔女さまに僕に課した試練なのかもしれない。
王宮の中で籠の中の鳥のように育てられたノアだけれども、人が動く時にはそれ相応の理由を必要としていることぐらいはちゃんと知っているし、目的があることも知っている。
魔女は多分ノアにこう言っているのだ。
『この腐ったご飯を平気で食べられるのなら、わたしの巣に居候させてあげるぅ〜』と。
意地が悪いし下手したら死ぬような試験なあたり魔女らしいが、ノアにとっては好都合だった。逆に恵まれすぎた条件である方がノアにとっては恐ろしい。
目的を持ってしてノアを育てるのならば、よほどのことがない限りノアの事を見捨てないだろう。けれど、暇つぶしなどの一時の気の迷いでひろわれたのならば、ノアは多分、あっという間に捨てられてしまう。
———………ほんとうに食べられるかな………、
魔女に手渡された木製のスプーンで1口分掬い上げたノアは、紫と緑に変色したスープであったものに、眉間に小さく皺を寄せた。
———度胸………、
パクりと口の中に入れた瞬間、エグ味と臭みと酸味と辛味を一緒に混ぜてそれを長期間雨風に晒したような味と匂いが口と鼻を襲った。
「っ、」
身体中を駆け巡る吐き気を必死に飲み込み、胃液が戻ってきたことによってひりひりする喉を小さく撫でてから、もう1口もう1口とだんだんとその中身を食べ尽くしていく。
拷問にも感じられる食事が終わった瞬間、ノアははたっと口直しの水がないことに気がついた。
———嘘だよね………?
絶句したのも束の間、お腹からキュルルルルルゥっという聞こえてはいけない音がした。そして、激痛に襲われる。
「お、お手洗い………、」
「あぁー、そこら辺でしてくるといいわぁ。トイレがどこにあるか分からないものぉ」
「はい?」
「ごめんなさいねぇ、魔女はお手洗いを必要としないから、使ったことがないのよぉ〜。多分、この巣のどこかにはあると思うのだけれど………、」
———嘘だと言ってほしい………。
慌てて外に飛び出し茂みの中で用を足したノアは、本日だけでも何度も願った言葉を頭に中で反芻しながら、荒屋へと帰宅した。
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